珈琲の価値、愛の価値
「――では、早上がりの為、私はこれにて失礼致します」
「ああ、お疲れ様。才原君、例の件を前向きに考えておいてくれ」
「はい、了解しました」
深く一礼した後扉を閉め、会社の建物を後にする。
眼鏡を軽く直しながらふう、と軽く息をつく。大学を出て、一流企業への就職を果たしてはや五年。時が流れるのは存外に早いものだ、とがらにもない事を思う。
同期を追い抜く為に人一倍の努力と研鑽を重ね、ついに本社からの誘いがかかるまでに至った。もしこれを受ければ、高齢の親を抱える妻とは別居生活になるだろう。だが千載一遇のこの機会を逃せば次はいつになるか分からないし、きっと妻も理解してくれるだろう――
「っと。先にアレを受け取りに行かないとな」
思考に耽りやすいのは自分の悪い癖だ。思考を切り替え、時計を確認する。現在、午後1時42分。2時には出来上がると言われたし、そろそろ向かった方が良いころ合いだ。
軽く服装を整え、目的地となる店の方向へ足を速める。今日は妻との結婚記念日。きっと最高のプレゼントになるはずだ――
◇◇◇
――14:00 宝石店前
「――有難うございましたー!」
店員の声を背に店を出る。信号待ちをしながら、受けとった箱を開いて中を覗く。
――鮮やかなピンクゴールドのリング。リングの中央には正確にカットされたダイヤモンドがちりばめられており、太陽の光を反射して煌びやかに輝いている。
そう、注文したのは妻へと贈る指輪の製作。自身の給料三か月分の金額に相当するオーダーメイド品だ。
これを渡したら彼女は喜んでくれるだろうか。いや、驚くのが先だろうか。とりとめもない想像に心が躍り、思わず顔がにやける。
その時、そんな妄想を打ち消すように肩に鈍い衝撃がはしった。
「痛っ!っと……すいません!」
惚けているうちに、人にぶつかってしまったらしい。
いつの間にか、眼前の信号は赤から青へと変わっていた。
◇◇◇
――15:48 新大阪駅
『次はー、新大阪ー、新大阪ー。お降りのお客様は……』
聞きなれたナレーションと共に扉が開き、ぎゅうぎゅう詰めの車内から解放される。
「足が痛い……」
車を買うほどの金がない――正確には車に金を使う気にならない――為に電車通勤の日常ではあるが、あのこもった空気は好きではない。というか、基本的に座席に座れない為に足にきやすいのだ。
だが、今日に限ってはそんな気だるげな時間も楽しく思えた。それなりに有名な指輪ブランドのロゴの入った袋を開け、中の小箱を手に取る。
一度、妻が帰ってきたときのシミュレートをしておこう。こういう類のものは、失敗するとなんとも微妙な空気になりやすい。
「よし、まず確認をしよう、俺。彼女が返ってくるのは8時半。その時にケーキと一緒にこの小箱をこう開、け、て……?」
――時間が止まった。
えんじ色の箱に入った、華美になりすぎない程度の装飾をあしらった、妻を元気づける為に送る指輪。
自身の給料三か月分の結晶が収まっているはずの箱の土台には、何も入っていなかった。
自身の笑顔が固まるのを感じた。血液を急速に抜かれたような感覚と共に、指先から不快な冷たさが這い上がってくる。
一瞬とも無限とも感じる時間が過ぎ――
「――えっ」
衝撃と焦燥が一気に噴き出した。
「どこだ!?どこにやった!?」
スーツのポケットを引っ張り出し、鞄の中身をさらい、袋の底を覗き込む。
突如として慌てだした男に周囲が奇異の目を向けるが、外聞に気を配れるような余裕は完全に無かった。
「ない……!指輪が、どこにも、ない!」
――現在、午後3時。
これが、自分こと才原明彦にとって人生で一、二を争うほど長い日の発端だった。
◇◇◇
――12/04 17:48 駅前広場
「すいません、こんな形の指輪を知りませんか?」
「いえ、知らないですね……」
「すいません、こんな形の指輪を知りませんか!?」
「知らないねえ」
「こんな形の指輪を知りませんか……?」
「しらない!」
らちが明かない。
ブラックの缶コーヒーを一気に飲み干し、一度頭の中をクリアにして出た結論はそれだった。
指輪を購入した宝石店、心当たりのある駅の事務所、警察等々。思いつく限りの場所に問い合わせても、帰ってきたのは皆一様に「届いていない」という旨の返答のみだった。
宝石店のある駅前に戻って道行く人に聞いてみても答えは変わらず。捜索開始から数十分にして、早くも落胆とあきらめの感情が己の胸に去来しつつあった。
空になった缶をごみ箱に投げ入れる。スチール同士のぶつかるカラン、という音がいやに大きく聞こえた。
「はあ、指輪は見つからず、か……」
何かにすがるように空を見上げる。自身の心のよどみとは裏腹に、真冬の空は憎らしいほどに晴れ渡っていた。
万策尽きた、と言うべきか。まあ、そもそも最近の彼女とは――
「おじさん、まっくらなかおしてどうしたの?」
子供特有の高い声に思考を中断し、後ろを振り向く。六歳くらいの小さな女の子が、さらに小さなクマの人形を抱えながらこちらを見上げていた。その姿――というより光景に、何故か名状しがたい違和感を抱いた。
「おじさんじゃない、お兄さんだ。ちょっと失くし物をしちゃってね」
「なくしもの?」
「ああ、こんな形のまあるい輪っかだ。きらきら光っててね。お兄さんの大切なもの――いや、大切な人にあげるはずだったんだ」
……なんで自分はこんな子供に必死に説明しているんだろうか。自己嫌悪とはまた違う、一種の呆れににも似た感情を感じながら身振り手振りで指輪の概形を伝える。
そもそもこんな子供に伝えたところで、まともな返答が帰ってくる訳が――
「それ、しってる」
……世の中、何があるか分からないものだ。
「そのまあるいの、ミカしってるよ!」
「ほんとかい?どこにあったか覚えてる?」
すると、ミカと名乗った女の子は宝石屋のある方向を指さした。あそこは確か……自分が指輪を買った直後に人にぶつかったところだ。もしかすると、その時の衝撃で落としてしまったのかもしれない。
「ありがとう、それじゃあ……」
じゃあね、と言おうとしてベンチから立ち上がった瞬間、先ほどから感じていた違和感に気づいた。
――親がいない。というより、彼女ぐらいの子供ならば普通にいるはずの同伴者が、影も形も見当たらない。
膝を曲げて再度ミカと同じぐらいの高さに視線を下げる。
「あーっと……ミカちゃん、お父さんやお母さんは?」
「お母さんはでかけてる。お父さんはおしごと」
「ここには誰かと一緒に来た?」
「おねえちゃん」
「お姉ちゃんはどこに?」
「どっか!」
……素晴らしく明るい声で迷子宣言をされた。失せ物でてんやわんやの所に、今度は迷子ときた。こう立て続けに問題に直面すると、今日は厄日かと思わずにいられない。
「えーと、お姉ちゃんがどこにいるかわかる?」
「たぶんあっち」
さっきと全く同じ方向を示される。
指輪捜索を後回しにせずに済んだのは不幸中の幸いか、と思いながらミカに声をかける。彼女をここに放置してハイさよなら、という訳にはいかないだろう。
「取り敢えずミカちゃん、お兄さんと一緒にいこうか」
「……どこにいくの?」
「さあね。お姉ちゃんに会えたらそれでバイバイだし、そうでなかったらお巡りさんのとこかな」
一人で公園にいる少女に声をかけてる自分の方がお巡りさんの世話になりそうだが、善意故の保護で納得してもらえないだろうか。
「わかった。あ、おじちゃん」
ミカはクマのファスナーを開くとごそごそとさぐり、中から取り出した何かを手渡してきた。どうやらクマ型のポーチだったらしい。
――彼女が差し出した手に乗っていたのは、白紙で包装された飴色のキャラメルだった。
「これあげる」
「……どうして?」
「おじちゃん、いたそうな顔してたから。おねえちゃんは『にがいものをたべるとなおる』っていってたけど、にがいのないからこれあげる」
「――――」
子供とは存外に聡いものだ、とは誰が初めに言った言葉だったか。
それとも、単に自分の方が顔に出やすい性質であったか。
どちらにせよ、彼女の指摘は的を得ていたと言ってよいだろう。
「……ああ、ありがとう。いただくよ」
キャラメルを数個彼女の手から取り、包みをはがす。
口の中に放り込むと、あのわざとらしいまでに甘ったるい味が広がった。
「ああ、数年ぶりの甘さだ」
「……?おじちゃん、甘いの嫌いなの?」
その言葉にミカの手をとり、宝石店の方へと歩き出しながら答えた。
「――いや、好きだよ。大人になると、苦いものばかり口にするようになるから。少し舌が驚いただけだよ」
◇◇◇
――17:16 宝石店前
「どうしましょう?」
「どうしましょうか……」
指輪を失くした才原とミカが出会う少し前。
才原が人とぶつかった横断歩道に、一人の女性がいた。
齢は二十を少し過ぎたくらい。それだけならば特におかしいところはないが、彼女はこの横断歩道の付近をかれこれ十分ほどの間うろうろと彷徨い続けていた。
しきりに方向転換を繰り返す彼女に、その肩ほどまで伸びた黒髪が追随してゆらゆらと揺れる。
その姿を見かねたのか、手提げかばんを抱えた一人の女子高生が彼女に声をかけた。
「あ、あの……」
「はい?」
「どうしたんですか?」
「えっと、○○駅の広場に行きたいのだけれど……」
「……お姉さん、駅の広場はここから一時間くらい歩いたところですよ?」
「あら。どうしましょう」
「どうしましょうか……よかったら案内しましょうか?」
「いいの?遠いんでしょう?」
「いいですよ。私もそちらに用事ありますし」
そう言うと、女子高生は駅の方向へとゆっくり歩きだした。
「ありがとね。助かったわ……えーと……」
「篠岡里奈。リナでいいですよ。お姉さんは?」
「――才原。才原若音よ。よろしくね、リナちゃん」
「道中よろしくお願いします、才原さん。広場に何しに行くんですか?」
「若音でいいわよ。ちょっとお買い物をしに、ね。タカヤスってデパート知ってる?」
「ああ、あの十階に呉服屋が入ってる所ですよね?あそこは――」
女性同士趣味が合うのか、様々な話に花を咲かせる二人。自然、話題は恋愛事にも伸びていった。
「――それでそいつ、なんて言ったと思います?『また今度』ですよ、『また今度』!酷いと思いません?」
「うふふ、それは思い切ってリナちゃんがストレートに言ったほうが良かったんじゃない?」
「うぐっ、まあ、それはそうですけど……と、ところで!若音さんはそういう話はないんですか?」
「それ、は」
その言葉に、今まで終始笑顔でいた若音の顔がみるみるうちに曇っていった。里奈もまずい話題を振ったと感じたのか、他の話題を模索し始める。
「あー、えっと、そのー……」
「――ねえ、リナちゃん」
「は、はいっ!?」
「四年間ほとんど話をせず、月に数度の会話の内容はお金のやりくりとか、必要なものばかり。それはホントに夫婦なのかしら?」
「えっ……」
「リナちゃんにとって、『理想的な夫婦』ってどんなもの?」
「……お互いに思いあって、支え合って、笑いあって。そういうものだと、思います」
「うん、そうね。私は夫が好き。少なくとも、あの人と一緒にいる時間は好きだった。あの人を支えていられるっていう実感が好きだった。笑いあえる瞬間が好きだった。でも、最近それがわかんなくなっちゃってるの」
「若音さん……」
「……変な事言っちゃったわね。話題、かえましょうか」
その言葉に里奈は少し黙り込む。少し考えるようなそぶりを見せた後、バッグから缶コーヒーを取り出して若音に差し出した。
「――はいっ、どうぞ!」
「これは……?」
「暗くなった時には苦いもの食べたり飲んだりしてリフレッシュ、です!」
「……普通は甘いものじゃない?」
「甘いものもあるにはあるけど妹用なんで!」
「……ふふっ、ありがとう」
若音の顔に少しだけ笑みが戻る。
彼女は缶コーヒーを受け取ると、カシュっと音を立ててプルタブを開いた。冬の寒空に、湯気と共に焙煎された豆の香りが広がっていく。
そして口をつける直前、彼女はある事実に気づいた。
「あら、加糖」
「ああ、ブラックもありますよ。もし甘いのが苦手なら交換しましょうか?」
「いえ、私は甘いの好きだから。ただ――夫が、甘いのが大嫌いだったなって思っただけよ」
◇◇◇
――18:20 駅前広場→宝石店 道中
「すすめーすすめー!」
「痛い痛い痛い!髪引っ張るな!」
……早まったか、というのが正直な感想だ。
最初はミカが迷わないようにと手を繋いでいくことを考えたのだが、身長差のせいで自分がかがまないといけなくなる。かといって普通に歩けば、少し目を離しただけで何処かへ行ってしまう。師走の日はとうに沈み、真っ暗な道を人口の灯だけがぽつぽつと照らしている。一度視界から消えてしまえば追うのは困難であり、そうなれば犯罪に巻き込まれる確率も段違いに上昇するだろう。
結果として肩車を慣行した訳だが、どうやら肩車というものをこれまでされたことが無かったらしい。持ち上げてやってからしばらくは目を輝かせ、いつもより高い場所から見下ろす景色に見とれていた。だがそれもしばらくして飽きたのか、ここ数分の間しきりに人の髪の毛を引っ張ってくる。この年で禿げるなど、公私両面の理由から全力で勘弁願いたい。
「ミカちゃん、電話番号とかわかんない?」
「……おとうさんならわかるけど、おしごとちゅう」
「出かけてるっていうお母さんの方は?」
「わかんない」
「困ったな……」
一応ミカの言う方向に向かっているが、件の姉がそちらにいるという保証はどこにもない。この時間まで子供が返ってこないとなれば、両親もひどく心配しているだろう。一応警察に届ける事は出来るが、両親に連絡がつくのは早い方が良い。
「その、お母さんがどこに行ったとかはわかる?」
「どこかとおいところ」
「……なんだって?」
ミカの言葉に思わず足を止める。嫌な予感がしつつも、自分は矢継ぎ早に質問を投げかけずにはいられなかった。
「……ミカちゃん、それはいつ言われたんだ?」
「ミカがうまれたときに、おかあさんはとおいところにいったんだって、おとうさんがいってた」
「……ごめん」
「なんでおじさんがあやまるの?へんなのー」
ミカの父親が言う『遠い所』。生まれたときに、というタイミング。そこから導き出される結果を想像できないほど、自分は愚鈍ではなかった。おそらくミカの母親は、もう――
「あー」
「どうした?」
左から顔をのぞかせたミカと目が合う。
「またおじさん、いたそうなかおしてる」
「……はは、ごめんごめん」
一応の謝罪をすると、ミカの顔が引っ込む。……怒らせてしまっただろうか。すると、ゴソゴソという音の後に頬に何かが押し付けられる感覚がした。
「キャラメルあげるー」
「うん、ありがとう。でも、紙をとってくれると嬉しいな。お兄さんヤギじゃないんだ」
少しの間を経て、再び口の中にキャラメル。その虫歯になりそうな甘さを舌の上で転がしながら、妻――若音の事を思う。
入籍し、彼女の性が自分と同じものになったのは4年前。若音が大学を出た直後の事だった。恋人の関係になったのは2年前……だったか。記憶が少し曖昧だ。しかし、確かに覚えていることがある。あの時は純粋に、幸せを感じていられたということだ――
◇◇◇
――5年前 大学内カフェテラス
「ねえ、先輩」
「なんだ?コーヒーの返品なら受け付けないぞ」
「……いいじゃないですかー!ブラックがこんなに苦いって初めて知ったんですから!」
若音の目の前には、なみなみとつがれたブレンドコーヒー――本来ならばフレッシュをつけてもらえるのだが、若音が「いりません!」と何故か自慢げに断ったためにつけられていない――が湯気を立てて置かれている。
数分前に「ブラックなんて余裕で飲めます、先輩!」と大見得を切った若菜本人はコーヒーと自分を親の仇か何かのように交互に睨んでくる。どうやら想像以上にきつかったらしい。
「飲み出したいと初めに言ったのはお前の方だろ……」
「いいですー!意地悪な先輩はもう知りませんー!」
そう言うなり、若音はそっぽを向いてむくれてしまった。
子供か、と心の中で溜息をつきながらポケットの中から取り出したものを放り投げる。
「ほら、これ入れろ」
「なんですか、これ?」
「フレッシュとシュガー。ガムシロップはないから我慢しろ」
「……先輩、すきー」
植物油と砂糖で嫌いが好きに変わるあたり、愛情もずいぶん安くなったものだ。
「にしても、だ」
「ふぅ……なんですかー?」
シュガー二本とフレッシュ一杯を突っ込んでダダ甘くなったコーヒーを飲んで、心の底から幸せそうな顔をしている若音に疑問を投げかける。
「なんでいきなりそんな無理しようと思ったんだ?」
すると、若音はキョトンとした顔をして、さも当然かの様に答えた。
「だって――好きな人と一緒に同じ物を飲んで、同じ時間を共有する。それはきっと、何よりも素敵な事じゃないですか」
「――」
…………。
恥ずかしいことをよくもまあ、そんなに臆面もなく言えるものだ。
だけど、まあ――
「……俺も甘いもの、飲んでみるか」
「あれ、先輩って甘いの大の苦手じゃありませんでした?」
「気分だよ、気分」
――それに賛同してしまうぐらいには、自分も彼女に影響されていたたらしい。
◇◇◇
それ以来、自分達は朝にあつまる機会が多くなった。
場所はカフェテリアの窓際。朝日が邪魔にならない程度に射す特等席。
甘いもの好きの彼女が頼むのは、舌を刺すような酸味と苦味のブラックコーヒー。
苦いもの好きの自分が頼むのは、舌に残る甘味が特徴のキャラメルラテ。
お互いの好みが入れ替わって、顔見知りの店員さんはしばらく怪訝そうな顔をしてた。
……実際、最初のうちは一口飲んで顔をしかめたり、お互いギブアップして交換したりしてた。
でも、結局の話、好みというのは舌がどれだけ慣れているかの指標でしかないのだろう。
少しずつ、少しずつだけど、飲めるようになっていた。
ただ、微細な調整が効く分、若音がブラックを涼しい顔で飲めるようになる方が早かった。
……その時の自慢げな顔と「明彦さんはまだ甘いの無理なんですかー?」という台詞に腹が立ち、いつもよりも数段苦みが強い深煎りのコーヒーを飲ませたら泣かれたのは良い思い出だ。
◇◇◇
「才原ー!こっちの印まだ押されてないぞ!」
「はい!すぐに取り掛かります!」
「例の商社へのアポはとったか!?」
「はい、こちらは週初めに……!」
――就活が無事成功し、入った証券会社での活動は多忙を極めた。
もっと効率よく。もっと無駄なく。
それだけを求められ、それだけを追い求めた。
無駄なものを切り捨てて、結果だけを追求し続けた。
「お帰りなさい、ご飯は……」
「上司と食べてきたから大丈夫。おやすみ」
「あっ……」
追い求めた。
「おはよう、あなた。キャラメルラテで良い?」
「いや、ブラックで頼む」
「……そう」
追い求めて追い求めて――
「行ってきます」
「…いってらっしゃい」
「ただいま、おやすみ」
「おやすみなさい」
いつの間にか、何のために働いているのかすら分からなくなっていた。
◇◇◇
「――なあ」
頭の上で相変わらず自分の髪をいじるミカへと問いかける。
「なーに?」
「ミカちゃん、お父さんは好き?」
「だいすき!あそんでくれるから!」
屈託のない笑顔で笑う少女の顔に、最愛の妻の姿がかぶる。
――自分は妻を愛している。それは間違いなく断言できる。妻に不便をさせたくないから、と全力で働いた。私事の時間を時間の無駄だと、極限まで切り詰めた。だが――妻と共にコーヒーを飲みながら過ごすあのゆったりとした時間は、果たして本当に無駄だったのだろうか。この少女のような笑顔を犠牲にすることは、本当に正しかったのだろうか。
自問自答の末、一つの決断をする。
もう、指輪は――
◇◇◇
――20:00
「――ミカ!」
「お姉ちゃん!」
――隣町へとつなぐ大きな石橋。その向こうに見える人影を見るや否や、ミカが嬉しそうに叫んだ。
ミカは自分の肩から降りると、女子高生らしき女の子の元へ走っていく。どうやら話に出ていた姉のようだ。
「本当にありがとうございます!」
「ああいえ、たまたま居合わせただけですので……」
そこまで言いかけたところで、本題を思い出す。危うく忘れそうになっていた。
「そうだミカちゃん、指輪ってどこ?」
「指輪?もしかして、コレのことですか?」
そう言いながら女子高生の子が取り出したのは、今日一日探し求めた眩い輝きを放つダイヤの指輪――
――などではなく、飴細工のリングだった。
「……へっ?」
予想外の事態に、思わず間抜けな声が出る。きっと今の自分はハトが豆鉄砲を食らったような顔をしている事だろう。
「この子がコレ大好きで、指輪みたいにキラキラしてるからって『ゆびわちょーだい、ゆびわちょーだい』っていっつもせがんでくるんです……どうしました?」
……肩から力が抜ける。あれだけ必死こいて探した果てに見つけたのが定価数百円の指輪とは、なんとも締まらない結末だ。
だがまあ、これでよかったのだ、と心の中でどこか納得している自分がいた。仮に指輪が手に入ったところで、売却処理をするだけだったろうから。
さて、帰る準備をしようかというその時――
「あら、里奈さんの用事って人探しだったの?なんだか奇遇ね」
――聞きなれた声が聞こえた。
◇◇◇
――20:15
父親が迎えに来た篠岡姉妹に別れを告げ、一息つく。橋の欄干にもたれかかったまま、ゆっくりと口を開く
「……妹さんと一緒にいたの?」
「少し探し物をしててね。その時にたまたま、ね」
唯の受け答え。何の変哲もない、短い会話。それだけなのにお互いの口調は何処かぎこちなく、何年も会っていなかったかのような錯覚を感じる。いや、実際会っていなかったのだろう。事務的な会話しかせずに顔を突き合わせることもほとんどない関係は、会っていないのと何ら変わらない。
「親御さんの話、聞いたかい?」
「いいえ。どうかしたの?」
「父親しかいないらしくてね。中々に苦労しているらしい」
「そう……」
……会話が続かない。こんなにも自分は彼女との距離感を図るのが下手だったか。いや、紛れも無い自分自身が、ここまで悪化させたのだ。だからこそ、彼女に言わなければならないことがある。
軽く深呼吸をする。息を整え、口を開く。
「――上司から転勤の話がきた」
「どこに?」
「東京。行けば数年は向こうだろう」
「…………」
「本社への出向だから、一定の昇進は間違いなし。給料も徐々にではあるが、上がっていくだろう」
「……そう。それじゃ、荷造りをしなくちゃ――」
「――いや、断るよ。提案は蹴る」
「えっ……?」
「俺はこちらに残るよ」
「どういうこと?願いに願った転勤なんでしょ?」
「……俺はこの数年間、それなりに努力してきたつもりだ。血を吐くようなスケジュールをこなし続け、同期を蹴落とし、上へ上へと昇り続けてきた。それが間違ったことだとは思ってない」
「…………」
ミカの母がいなくなった話を聞いて、もしも若音がいなくなったなら、と思わず想像せずにはいられなかった。誰もいない空間、一人で飲むコーヒー。想像しただけもその空間は退屈で、寂寥なものであることは明らかだった。そして、いつも自分の帰りを待っていてくれた彼女に同じ思いを味合わせていたと自覚して、思わず自己嫌悪の嵐に苛まれた。……だから、あの指輪はもう自分にとって自己嫌悪の象徴でしかない。今の自分にとっては、飴細工の指輪もダイヤの指輪も、大して価値は変わらないのだ。
「でも、その過程で君との時間を犠牲にしていた。君の幸せを謳いながら、君をないがしろにしていた。自分勝手なことかもしれないけど、その償いをさせてほしいんだ。別居しろと言うなら、そうしよう。仕送りをしろと言うなら、そうしよう。だから……」
「――ていっ」
「痛っ」
頭に軽い痛みが走る。……どこから仕入れてきたのか、手に持っているコーヒー缶で殴られたらしい。
「なんだよいきなり、俺はまじめな話を――」
「――考えすぎなんですよ、先輩|!先輩の一番の悪い癖は、そーやって考えすぎるところです!というか極端なんですよ、極端!」
腰に手を当てた状態で頬を膨らませながら怒ってくる。……おかしい。ビンタの一発や二発は当たり前、と覚悟していただけに、軽く気が動転する。
「極端って言ったって……俺はお前にひどいことを――」
「私がそんな形の謝罪を一度でも求めましたか?――大体!申し訳ないと思っているなら、まず最初にやることがあるでしょう?」
「最初に、すること?……あっ」
暫く頭を捻って、ようやく答えに至る。頭を深々と下げて、数年ぶりにその言葉を口にした。
「ごめんなさい」
「ん、よろしい!」
何故か胸を張って彼女は自分の謝罪を受け入れると、自分の両頬を手のひらで包んだ。
「ちょっと膝、曲げて下さい」
言われたとおりに膝を曲げる。自分よりかなり低い彼女の顔と、自分の顔が同じ高さに来る。
「何をする気――」
質問は、出来なかった。
――不意打ちだった。
柔らかな唇の感触と共に、僅かにコーヒーの味が口の中に広がる。
数秒の後、彼女の顔が離れていった。しかし、手は未だに頬に添えたままだ。
残った僅かな熱を掬いとるように、彼女の唇に指を這わす。
「――甘いな」
「――私は苦いと感じました。ねえ、先輩。償いとか、犠牲とか、どうだっていいんです。そんな仰々しい言葉も、物々しい行為もいらない。私はそんなものが欲しかったんじゃない。ただ二杯の珈琲と少しの時間があれば、私達はきっとやり直せます。だって――」
「『好きな人と一緒に同じ物を飲んで、同じ時間を共有する。それはきっと何よりも素敵な事だから』」
「……覚えてましたか」
「忘れる訳がないだろう。しかし確かに、成程。俺たちは、そうやって付き合い始めたんだったな」
……思い出した。自分達は、告白して付き合い始めたわけではない。
カフェで決まった時間に飲む習慣。それが自分にも彼女にもあった。それがたまたま、カリキュラムの都合で重なって。自然と会う機会が多くなって。その空間が、その時間がお互いにひどく心地よいものだったから、こうして結婚したのだ。
それを自分がこじらせてしまった。だが、彼女はやり直そうと言ってくれている。ならばそこには、2つのカップがあるだけで十分なのだ。
「お互いの味覚も最初から、かな?」
「さっきの感想からして、そうでしょうね。少しずつ、少しずつ。また、お互いを知っていきましょう」
そういうと、ようやく彼女の手が自分から離れる。
「さあ、帰りましょう。少しお腹がすきました」
「ああ、そうしよう。俺も少し疲れた――ああ、そうだ」
目の前を歩き出す若音に声をかける。
「はい、なん――」
――不意打ち気味に、二度目の唇を重ねる。一回目より、少しだけ乱暴に。今回の件は自分が元凶とはいえ、キスも説教もやられっぱなし、というのはどうにも男として情けない。だから、気持ちばかりの意趣返しをするとしよう。幸いにも、リップクリームの代わりのものは既についている。
「――ぷはっ……仕返しですか?」
「いいや、お返しだ。キャラメルは好きだろう?」
「少し控えめの甘さでしたけどね。ですが、やっぱり間接の甘さじゃもの足りません。先輩、食後の後は久しぶりにコーヒーを一緒に飲みましょう。今日は時間はありますか?」
「当然、十分にとってあるさ。元々必要以上に仕事をしていたし、これからはたっぷりとくつろげる」
「それは良いことです。今日はブラックにしておきますか?」
「――いや、キャラメルで頼む。それもとびっきりに甘いのを、な」
〈完〉
初めまして。パラパラでございます。
この度は本作をお読みくださり、誠にありがとうございます。
本作は簡単にまとめてしまえば、「男が自身の行いを見つめなおす物語」です。
作品開始時点まで、男は妻の為、と身を粉にして働いてきました。
ただ、その過程……つまり私生活はあまり褒められたものではなく、最愛の人である妻をないがしろにしてしまうという矛盾を生み出してしまいます。
男が自身の過去を甘ったるいキャラメルや、出会った少女の境遇を通して見つめなおし、やり直そうとする……そんなお話しです。
こと心においては、結果が過程に勝るとは限らない。そんな思いが読者の方々に少しでも伝われば幸いです。