【003】名無しの子供 ◆ ◇
────声が、聞こえた。
いや、それは本当に声だったのか?
ここが何処なのか、自分が誰なのか。
確かなものなど何一つ持ってはいないというのに。
……持ってはいけないというのに。
『───・・・─────』
────あ、また……。
途切れ途切れに聞こえる、自分を呼ぶ声。
言葉でも、音ですらもない、その声。
心地好い、光のような、声。
だが確かにそれはそこにあって、故に自身の存在も赦される気がした。
その声が、散り散りになっていた意識の欠片を拾い集めていく。
『──・──・・・・────』
声が聞きたくて、あるはずのない耳をそばだてた。
傍に行きたくて、あるはずのない脚で地を蹴りあげた。
そして触れてみたくて、あるはずのない腕を伸ばした。
『■■■■』
ぱち、と見開いたエメラルドグリーンの瞳に、生い茂った緑越しの青空が映った。
────そうか、おれの名前は……
──────────
ジャンタの意識が覚醒したのは、薄暗い森の中だった。まだ少しぼんやりする目を擦り、自身が措かれている環境を確認する。
そこは緩やかな勾配が続く、枯れ木が広がる森だった。空は厚い雲に覆われ辺りは薄暗く、乾いた風が頬を撫でる。その風景からは生命の気配を感じられず、静かで薄気味悪い雰囲気が漂っていた。
ジャンタがいるのは森の中でも少し開けた場所のようだった。そこには角の取れた小石が広がっており、その上に僅かに枯れ葉が散らばっている。道幅の広い砂利道のようにも見えた。
ジャンタはその砂利道の上でうつ伏せに寝転んでおり、水気のない場所だと言うのに、何故か全身がぐっしょりと濡れている。
ジャンタは身体を起こし、自身についても確認してみる。
左耳にはプレート状の大振りなピアスがぶら下がっており、身体を動かす度チャリチャリと音を立てて揺れた。衣服は膝丈程のシャツのようなものを着ていたようだが、その生地は傷みが酷く、もはや原型を留めていない。
ジャンタは立ち上がって更に遠くを見渡してみた。
森の奥の方には小さな崖のようなものがあり、その更に奥には丘が見えた。そこには雲の切れ間から陽が射しており、柔らかな光が丘を包んでいる。そこには色とりどりの花が咲き乱れ、その中に石造りの塔が静かに佇んでいた。
その情景は、まるで死の森のような周囲とは対照的で……今にも天使が舞い降りて来そうな程神秘的で、幻想的だった。
その景色に心を奪われしばらく見つめていたが、ふと気配を感じ、そのまま下へと視線をずらした。
そこに、何者かが佇んでいた。
その人物は少し離れた場所からジャンタの方を見ていたが、その姿は何故か霞んでよく見えない。だがジャンタは不思議とその姿に既視感を覚えた。
「だれ……?」
ジャンタがそう言葉をかけるとその人物はくるりと踵を返し、砂利道を走っていってしまった。その様子はまるで「こっちへ来て」とでも言っているように思えた。
ジャンタはその人物を追いかけようとしたが、足がもつれ、転ぶ。まだ上手く身体が動かないようで、顔を上げるにも手こずってしまう。
やっとジャンタが視線を戻した頃、その後ろ姿はすっかり見えなくなっていた。
ジャンタは立ち上がってその人物が駆けていった方向へ足を進めようとする。そして何気無く背後に視線を向け、思わず固まった。
「………?」
……振り向いた先に、枯れ木は無かった。
そこは緑が生い茂り、砂利の上を極浅い川がサラサラと流れている。そしてそれらは陽の光をいっぱいに浴びて生き生きと輝いていた。
驚いて足元を見ると自身の足も水に浸かっており、その川に映った空は晴れ渡る青空が広がっていた。
ジャンタは慌てて辺りを見渡すが、さっきまで確かにあったはずの塔も、その塔があった丘すらも消えていた。それどころか生い茂る緑、足元を流れる川、その奥には小さな滝……と、先程まで見ていた風景とはまるで正反対の穏やかな景色が広がっている。
「………んん?」
幻覚だったのだろうか。
何が起こったのか、ジャンタには分からなかった。目を離したほんの一瞬で景色がガラリと変わってしまったのだから。
「ぅ…………」
その時、後ろの方から小さな呻き声が聞こえた。振り返って辺りを見渡してもその姿は確認出来ず、ジャンタは声の主を探して川の下流へと向かう。
声を頼りに進んでいくと、少し離れたところに人影を見付けた。それは怪我をした青年だった。木陰になった大岩に半身を預け、苦し気な表情で横たわっている。
歳は二十歳位だろうか。色素の薄いブロンドの髪は木の葉や砂利などで汚れており、涙黒子のある白い肌には乾いた血がベッタリと貼り付いている。端正な顔は苦痛に歪み、ぐったりとしていて呼吸も浅そうだ。
「おまえ! 大丈夫か!?」
慌てて駆け寄ったジャンタは青年を抱え起こし、声を掛けた。先程の謎の人物を追いかけたい気持ちはあったが、まずは苦しそうなこの青年を助けなければと思ったのだ。
青年は意識はあるようだった。うっすらと開かれた青年の目が、何か言いたげにジャンタを睨み付けている。
ジャンタの頭上が「?」でいっぱいになった頃、背後でまた声がした。今度は情けない感じの悲鳴だった。
ジャンタが声の方を向くと、そこにはもう一人の男が立っていた。眼鏡を掛けたその男はボサボサの白髪を前髪だけちょこんと結わえており、よれよれのシャツにぼろぼろのパンツという全体的にだらしない感じの出で立ちだ。皮膚はパッチワークのように継ぎ接ぎになっており、所々全く違う皮膚の色をしている。頭髪は白髪ではあるがその年齢は三十代半ば程のようだ。横たわる青年を介抱していたのか、その手には川で絞ってきたであろう布切れが握られていた。
「 "名無しの子供" ……!? お、お前……そこで何してる……!」
白髪の男は慌てたような怯えたような顔でジャンタに向かって話しかけてきた。名無しの子供、と呼ばれた気がしたが、意味が分からずに首を傾げる。
「ななし? 違うぞ、おれジャンタ。おれはこいつが苦しそうだったから助けにきた」
ジャンタは素直に答えたつもりだったが、白髪の男は納得出来なかったようだ。
「助ける? はぁ?? お、お前がやったんじゃねーか!」
白髪の男が言っていることが理解出来ず、ジャンタは目をぱちくりとさせて男を見上げた。
「……おれじゃないよ?」
「お前だよ!」
ジャンタが否定しても、白髪の男が食い下がる様子は無い。
そんなことをした覚えは無いのだが、そこまで強く言われるとジャンタも不安になってきた。そう言えば自身の身体には傷も無いのに血痕だけが残っている。
────じゃあ、もしかしてこの血は……。
ジャンタがそう言いかけた時、抱えていた青年が小さく呻く。
「お、おいアシュタル君! 大丈夫か!」
白髪の男が声をかける。この青年の名はアシュタルというらしい。
アシュタルは苦しそうに大きく息を吐くと、白髪の男の方を見上げた。
「これは…ルジルファとは違う……。ゴットハルト、意味は……分かるな……?」
アシュタルにそう言われた白髪の男の表情には困惑の色が混じる。
「で、でもよ……」
「……僕より貴様の方が…分かっている筈だ。自分の能力を "感知特化" だと…言っていただろう……? 先程感じた…あの "意思" も消え…… "虚闇" の気配もまるで違う……」
「あ、ああ……確かに全く違うが、前例が無いモノを過去のデータだけで図る訳にはいかねぇしなぁ。また何かあったらどーすんだ? 今度こそやべぇだろ」
「ふん……。 だが "ルジルファ" の事を…調べるなら……これを持ち帰る他あるまい……」
「……いやいやいや! 確かに俺はルジルファの事は調べてるけどよ、名無しの子供を探すのを手伝ってくれとは言ったけどよ……。いくらなんでもこんな奴、流石の俺も手に負えねぇわ!!」
「貴様の意見など聞いていない……。僕を、巻き込んでくれたんだ……。せめて…そのくらいは何とかしろ……」
「む、無茶言ってくれるぜ……」
アシュタルと白髪の男の押し問答が続くも、ジャンタには二人が何を言っているのか分からなかった。
「あしゅたると、ごっとはると?」
ジャンタは二人の名を確認するように割って入った。少しの沈黙の後、白髪の男は諦めたように大きく溜め息を吐くと、頭をバリバリと掻きながらジャンタの方を向き口を開く。
「あー……ああ、俺はツォイス・ゴットハルトだ。ツォイスでいいぜ。アルベド団で研究員をやってる。で、そこのイケメン君がアシュタル・リー・ザクゼン。アルベド団の武装覚醒兵第二班班長でありこのザクゼン侯国の所謂王子様だ」
余計な事まで言うな、とでも言いたげにアシュタルが白髪の男ことツォイスを睨んでいた。だがツォイスはそれに気付かない振りをしているようで、決してアシュタルと目を合わせない。
仮にも一国の王子(正確には王ではなく侯爵の息子ということになるが。)がこんな所に居る時点で色々と疑問が残るのだが……ジャンタはそんなことはお構いなしに、目を輝かせながら二人を見つめていた。
「アシュタルと、ツォイスか! おれはジャンタ! あるべどだん? って何だ??」
「──アルベド団っつーのは……
って、ジャンタ? 何で、名無しの子供に名前があるんだ?」
「??」
ツォイスは顎に手を当てて首を捻り、それにつられてジャンタも首を傾げた。
「……名無しの、いい加減放せ」
そこで口を開いたのはアシュタルだった。 "名無しの" とはジャンタの事を指すようで、紫に光る冷たい瞳がジャンタを睨み付けている。
ジャンタはアシュタルを抱え起こしたままだった事を思い出し、背もたれにしていた大岩に静かに身体を下ろさせた。しかし名無しの、と呼ばれる事は不満だった為、ジャンタもジャンタなりにアシュタルを睨んでみたが……アシュタルはジャンタのそんな様子を見てもどこ吹く風で、一息吐いてジャンタを見上げた。
「アルベド団と言うのは、対虚闇組織だ。
……十年前に現れた四柱の黒い竜 "烟獣" 、……その竜によってもたらされた、致死率九割以上とも言われる黒化病、そして、その病を克服し……覚醒者となった僕達の力の源。……虚闇と呼ばれる黒煙を元に、生み出された形態であり事象であるそれらの……調査、討伐、保護、管理…それがアルベド団の……主たる活動だ……」
そこまで言うと、アシュタルは一度視線を落としてから再度顔を上げ、ジャンタを睨み付けるように視線を合わせた。
「──名無しの、貴様は何者だ……? ルジルファは…どうなった……?」
「ルジルファ? って??」
「惚けるな……! ルジルファはルジルファだ! "小国の英雄物語" で王に討たれた悪魔の名であり……! このザクゼン侯国に蔓延する厄難、虚闇を生み出した諸悪の根源の名だ……!」
アシュタルは苦しげに喘ぎながら声を荒げた。その様子に少し驚くジャンタだったが、考えても分からないものは分からない。
「んんん……。おれ、ルジルファなんて知らないってば。おれは名前を呼ばれて、目が覚めたらここにいたんだ」
「──そんな筈は…ない……!」
アシュタルは更に言葉を続けようとしたが、それは自らの呻きによって遮られた。声を荒げた事で苦しくなり、それ以上言葉を発する事が出来なくなってしまったのだ。
しかしアシュタルが何を言いたいのか察したツォイスが代わりに言葉を続けた。
「………ああ、そんな筈はねぇんだ。お前があの話の子供なら、名前を持たない代わりに全てを知る存在の筈だからな」
「あのはなし……?」
目覚めたばかりのジャンタは聞きたいことが沢山あったが、今も苦しげなアシュタルは勿論、ツォイスも答えてはくれなかった。
ツォイスはしばらく考えて、ふう、と溜め息を吐いた。諦めたような観念したような表情だ。
「──ま、この際何でもいいか。色々怖い目には合ったがよ、おっかない奴は消えて、俺もアシュタル君も無事だったわけだしな。……ってアシュタル君は無事じゃなかったか」
ツォイスはおどけたような口調でそう言ったものの、アシュタルの容態は芳しくないようだった。意識はあるようだが目は殆ど開いておらず、呼吸は早く浅く、小さく肩で息をしている。
「先ずはアシュタル君を町まで連れていかないとな。お前の事は……どうするかねぇ」
ツォイスはそう言ってジャンタを見た。
ルジルファが悶え苦しんだ後、その殻を破るようにして現れたのがジャンタだった。そのジャンタという存在の誕生はイレギュラーであり、不安要素が多すぎる。
あのルジルファの事を思い出すと「付いてこい!」なんて軽々しく言えないが、かといって研究材料としてはこの上なく魅力的な存在でもあった。
──ツォイスの答えは決まっている。邪魔をしているのは恐怖心だ。
「────よ、よし……」
ツォイスは、覚悟を決めた。




