【002】異常な正常の中の異常と異常 ◇
見上げた空は晴れ渡り、優しい風が木々を揺らす。付近を見渡せばごく浅い川が穏やかに流れており、そこには陽の光が反射しキラキラと輝いていた。
そんな静かな森の中に、異様な光景が広がっていた。
川辺に、子供の亡骸が転がっている。
いや、亡骸らしきもの、だ。恐ろしげなそれを近くで確認する術は無いのだから。
その亡骸はまるで糸で繋がれたマリオネットのように不自然に立ち上がる。
ズ……ズ……ズ……ズ…………
どこからともなく黒煙が吹き出しては子供の亡骸にまとわりつき、その身体を包んでいった。やがて黒煙はどんどん濃度を増し、子供の亡骸は頭の先からつま先まで真っ黒に変わっていく。
漆黒の身体から黒煙を撒き散らすその姿は……十年前に現れ今も尚人々を苦しめ続ける四柱の黒い竜《烟獣》を彷彿とさせる。
その異様な風景の中に、一部始終を見つめる青年の姿があった。青年は漆黒の子供を睨み付けながら独りごちる。
「……何だ、こいつは。《覚醒者》でもなければ《忘却者》でも《烟獣》でもない様だが……?」
そう呟く青年の表情は険しく、苛立ちのような焦りのような感情が読み取れる。
「アシュタル君!」
青年から更に離れた木陰から、青年を呼ぶ男の声がする。それは白髪の男だった。
白髪の男は空中に浮かぶ半透明のモニターを操作し、必死で何か調べているようだ。捲し立てるように言葉を続ける。
「そいつは解析結果から言うとアシュタル君と同じ《虚闇内在型》の……多分、人間だ! 内在量は異様なくらいスッカラカンだけどな!だがタダモンじゃねぇ! 気ぃ抜くなよ!」
「ふん……誰にものを言っている」
慌てふためく白髪の男とは対称的に、青年はそちらを向くことなく静かに応えた。
「で、ですよねー! ……頼むぜアシュタル君、戦えない能力の俺の分もな!」
白髪の男は飄々とした口調で話すも、その表情に一切の余裕はない。額の汗がその頬をつたっていた。
「《虚闇》を具現化する」
青年がそう言うと、その手元からは弾けるように虚闇と呼ばれる黒煙が溢れた。あの漆黒の子供と同じ黒煙だ。
しかし青年の手元の黒煙は形を成し色すらも変わり、青年の背丈程もある大剣へと変貌した。真っ赤な刀身の先端は半月状の刃が向かい合うような形状になっており、その切っ先はまるで鉤爪の様に鋭利だ。
青年はその大剣をまるで何も持っていないかのように軽々と構えた。実際に重さは感じない物なのかもしれない。
だが漆黒の子供はそんな青年を目にしても動じる気配は無い。まるで塗り潰したかのように真っ黒な姿の漆黒の子供は、黒煙を撒き散らしながら静かに揺らめいた。
……その姿は、笑っているようにも見えた。
「……チッ」
青年は気分悪げに舌打ちをする。一刻も早く、これを消し去りたい。そう感じながら相手を睨み付ける。
そして漆黒の子供が飛びかかってきたと同時に、青年も大剣を振り上げた。
漆黒の子供は地面を蹴った。その一蹴りで青年の立ち位置まで到達し、振り上げた拳をその勢いのまま叩き下ろす。
パァン!!
漆黒の子供の拳の先で……半径二メートル程の範囲だろうか。川の水だけがまるでくり貫かれたように消えた。
──いや、消えたのではない。霧状になる程細かな粒子となって飛散したのだ。それは先程までのおぼつかない足取りからは想像出来ないほど素早い動きだ。
その攻撃を寸でのところでかわした青年は、着地した先で木陰に隠れる男を見やった。
「ゴットハルト! 解析しろ!!」
「わ、分かってるっての!」
白髪の男は元々開いていたメインモニターに追加してサブモニターを幾つか生成する。この半透明のモニターも虚闇と呼ばれる黒煙から生成されたもののようだ。胸元に下げられた小石から黒煙がふわりと漂うと、するすると形を成してサブモニターが生成されていった。
それらを指で描いたコードで繋げ、メインモニターを再度タッチする。すると解析する対象に青年と漆黒の子供が指定され、サブモニターにはそれぞれの身体情報や虚闇のデータがリアルタイムに表示された。
「こっちはオッケーだぜ!」
男の言葉を合図に、青年も反撃に出た。
先ずは一撃目。様子見も兼ね正面に突っ込む。漆黒の子供は一歩下がりそれを避けるが、青年はそこから更に切り上げた。漆黒の子供が自身のリーチ内に入っている間は攻撃の手を休めず追撃し続ける。
しかし青年の大剣は空を切るばかりで埒が明かない。痺れをきらした青年が大剣で前方を大きく凪ぎ払うと、漆黒の子供は後方へ大きく跳ね、くるくると回って川辺に着地した。
そして、バランスを崩し、ぐしゃりと倒れた。
「────!?」
一瞬驚いた青年だったが漆黒の子供はすぐに体勢を整え飛び掛かってきた。その攻撃を剣で捌きつつ様子を窺う。
漆黒の子供は俊敏ではあるがその動きは単調に思えた。青年は思いきって懐に飛び込み、その腹を凪ぎ払う。
バリィィッ……!!
ガラスにヒビが入ったような音が響く。青年の攻撃が漆黒の子供の腹を砕いていた。それは比喩でも何でもなく、腹には大きな亀裂と、辺りにはガラスのような漆黒の破片が飛び散る。
漆黒の子供はそのまま膝から崩れると、青年の前に呆気なく敗れた。青年が見下ろした先で俯せに倒れたまま動く気配はない。
「もう終わりか。他愛もない」
そう言って青年は溜め息をつき、乱れた髪を指先でサラリと撫でて直す。
だが……ややあって青年が背を向けると、漆黒の子供は静かにゆらりと立ち上がった。それは先程同様、まるでマリオネットのように。
しかし漆黒の子供より青年の反応の方が早かった。振り向き様に大剣を振るい、自身の背後を凪ぎ払う。
青年の一振りを避けられず、漆黒の子供は袈裟懸けにその一撃を受けた。バリバリバリッという音と共に、一撃を浴びせた部分がガラスの様に砕け散る。
そして漆黒の子供はその場に倒れ、またも動かなくなった。
「……クソ、どうなってんだよこいつ……」
漆黒の子供が倒れたにも関わらず、白髪の男は忌々しげに呟いた。男の解析モニターには漆黒の子供の消失反応が見られないのだ。
「チッ……まだ立つのか」
青年が睨むその先には致命傷を受けながらも尚も立ち上がろうとする漆黒の子供の姿があった。倒しても倒してもすぐに起き上がってくる姿はまるでゾンビだ。
漆黒の子供が立ち上がる前に青年が再度斬りこむ。大剣を思い切り斬り上げ、漆黒の子供を弾き飛ばした。
……バリバリと音を立て黒い破片が飛び散るが、これも決定打には至らないようだった。
「……埒が明かないな。《侵蝕率》を上げる。」
青年が大剣を構え直すと手元からはさらに黒煙が溢れ出す。それは青年の皮膚をワームグレイに染め、身体の周りには皮膚から滲み出した黒煙が漂い出す。赤い刀身は更に彩度を増し、まるで炎の様に爛々とした。
だが青年が飛び出さんとした時、データ解析をしていた白髪の男が何かに気付く。
「───! ま、待て……」
青年へ届けようとした制止の言葉は間に合わず、青年は漆黒の子供に向かって跳んでいた。
それは今までとは比べ物にならない、人間離れした俊敏な動きだ。とても目で追えるようなものではない。
漆黒の子供はその一撃をかわすでもなくその身体にまともに受けた。それと同時に明らかに今までとは違う音が響く。
バシィィッ!!!
その音は青年が振りおろした大剣と、その刀身を掴むように受け止めた漆黒の子供の手元から発されたものだった。
「おい離れろ! そいつはアシュタル君の虚闇を吸収する気だ……!」
白髪の男が叫んだが既に遅かった。爛々と輝いていた青年の大剣は一瞬にして漆黒の破片となり砕け散っていた。その破片はふわりと溶けるように黒煙へ姿を変えると漆黒の子供へ吸収されていく。
虚闇の量は持ち主の力そのものに直結する。
その虚闇の大半を失った青年は飛び込んだ際の勢いを殺すことも出来ず、そのまま転がるようにして倒れこんだ。
そんな青年を尻目に漆黒の子供は真っ赤な口を開いて笑っていた。やがて膝をつき肘をつきうずくまるように丸まると、その身体はバキバキと音を立てる。骨が、肉が、成長……いや、変形していく。
「カ……カカカカッ!! カカカ……!」
漆黒の子供が発した声は子供らしからぬものだった。随分と低音の大人の男の声だ。くぐもったその声はどこか不安定で不鮮明で、ひどく不気味な印象を持たせる。
やがて地鳴りの様な音と共に漆黒の子供の身体から黒煙が溢れ、それは周囲の地面や空気を震わせた。
「ぐ……!!」
何とか身体を起こした青年は再度手元に意識を集中する。
しかし先程までのような大剣を生成する事は叶わず、その手からは僅かな黒煙が揺らぎ消えていった。
「クソッ! そいつに全部持っていかれた……! もうダメだ逃げろ! ……俺も逃げるぞ!」
そう叫ぶ白髪の男だが、かと言って青年を助けにくる気配は無い。首に下げていた小石をかざしてモニターを黒煙に戻し、それが小石に吸収されたのを確認すると、白髪の男は背を向けて走り出した。
青年も漆黒の子供から何とか距離を空けようとするも、立つことも儘ならない状態では思うように身体が動かない。気ばかりが焦り、地面を捉え損ねた足が虚しく宙を蹴った。
そんな青年とは対照的に、漆黒の子供は陽炎のようにゆらりと揺れて青年の方を向く。そして真っ赤な口でニタリと笑った。
「ワたしハ、るジルフぁ」
漆黒の子供は自らの名を名乗る。
その名前に聞き覚えがあった青年は固まり、白髪の男もまた立ち止まった。
「ルジルファ……だと……!?」
青年は驚きつつも険しい表情で漆黒の子供を見上げた。
漆黒の子供はそう言って口を大きく開いた。青年を一呑みにでもしてしまいそうな程に、だ。
青年は何とか後退り漆黒の子供から離れようとする。しかし漆黒の子供もまた、ゆっくりとではあるが、青年へと近付いていく。
────ここまでか。
青年がそう思った瞬間だった。
キーーーーーーーーン……
耳鳴りのような音が響いたと同時に、漆黒の子供は頭を抑え、苦しそうに仰け反って倒れた。そのまま地面にうずくまり悶えている。
「……何だ……?」
頭に直接響いてくるようなその音は、漆黒の子供にだけ何かしらの効果があるようだった。青年と白髪の男は、悶え苦しむ漆黒の子供を呆然と見ていた。
そしてその漆黒の子供だけが "何か" の存在を感じているようだった。
「オマえハダれダ! じゃマヲするナ……!!」
漆黒の子供はこの音と何らかの関係があるであろう "何か" に向かって叫ぶ。
「オマえナンて存在しナイ!! オマえナンて存在しナイ!! オマえナンて存在しナイ!! オマえナンて存在しナイ!! オマえナンて存在しナイ!! オマえナンて存在しナイ!! オマえナンて存在しナイ!!」
そう繰り返しながら頭を抱え、その口からは漆黒の液体をドロドロと吐き出す。
やがて吐き出すものも無くなると地面に突っ伏しガクガクと身体を震わせた。
「ガ ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア!!!」
漆黒の子供はまるで咆哮のような断末魔をあげ、その周りは衝撃波で吹き飛ばされる。それは近くに倒れていた青年も例外ではなかった。
「ガハッ!」
身体が言うことを聞かない状態では受け身をとることも出来ない。青年は数メートル先まで飛ばされて背中を打ち、一瞬止まった呼吸に思わず咽ぶ。
しかしその身体は何者かによって支え起こされた。……それは逃げたと思っていた白髪の男だった。
「おいおいおいおい何だありゃあ!?」
青年と男が見つめるその先で、うずくまる漆黒の子供の身体にヒビが入る。やがてそのヒビは全身へと広がっていき──。
バリイイイイイイッ…!!!
子供を覆う漆黒の鎧は粉々になって砕け散り、子供の姿が露になった。黒い破片は溶けるように黒煙へと形状を変えると子供の身体へと吸い込まれて消えていく。
その直後高温の熱風が周囲に広がる。それは子供の身体から発せられているようで、その身体はマグマのように紅く、そして白く、強い光を放っていた。
地面に突っ伏していた子供は膝をついたまま、空を仰ぐ。
「ア ア ア ア あ あ ア あ あ あ あ あ!!!」
子供の咆哮は尚も続いていたが、その声質は大人の男のものからは変化していっていた。
「あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あっ……!!」
咆哮の終わりと同時にその身体からは大量の蒸気が上がり、膝をついていた子供は力無く前のめりに倒れこんだ。
意識があるのか無いのか、その目はうっすらと開かれている。どこか夢のなかにいるような、ぼんやりとしているような雰囲気だ。その姿は先程までの漆黒の姿とはうってかわり、血色の良い肌に赤みがかったオレンジ色の髪、虚ろに開かれた瞳は綺麗なエメラルドグリーンの色をしている。
「終わったのか……?」
正直なところ、何が始まって何が終わったのかも分からなかった。だが白髪の男は無意識にそう呟いていた。
「………」
男の独り言のような呟きに対し、青年もまた無言で応える。
やがて静けさを取り戻した森には、風の音と川のせせらぎ、そして倒れこんだ子供の身体に打ち寄せる川の水音だけが響いた。
しかしそれが心地よく響く事は決してない。
彼らはこの場所で、総てを覆す特異点に出逢ってしまったのだから────。




