【029】彼女の責任(こころ)の在処 ②
小型眷属烟獣討伐時に残った残留虚闇から生まれたのは、巨大な眷属烟獣だった。全長で言うならあの漆黒の赤子と同等と言える。
「アトリー! 来たよ!」
「このまま行ける所まで行く! 走れ!!」
アトリーとエルミダは、それぞれ今出し得る全ての力を振り絞るように森を駆けた。身体能力強化スキルが付与されているとは言え、人ひとり抱えている状態である為その速度は決して速いとは言えない。それでも、通常の人間の身体能力で駆けるスピードに比べれば相当な速さだった。
しかし大型眷属烟獣はじわりじわりと距離を詰め、振り返ればその姿を確認出来るまでになっていた。
それは遠目に見ると黒雲のような外観だった。実際にはその黒雲の中に複数の巨大な眼球があり、それらが機械のようなぎこちない動きで頻りに動いている。眼球は赤みを帯びた有色部位となっており、幸か不幸か物理干渉を受けているようだ。それらが木々にぶつかる度、大木ですら根こそぎ薙ぎ倒されていった。
その様子を戦々恐々としながら見つめつつ、現状を分析してはグレアムが口を開く。
「過去の眷属烟獣のコアの仮定データや副班長さんの反応から察するに……もしかしてあの大型烟獣の形状は副班長さんのトラウマのような物がそのまま具現化されたものなのでは無いですか? 副班長さんに、一体何が……」
「……俺がそこまで知るわけ無いだろ! お喋りが過ぎると舌噛むぞ!」
そう素っ気なく答えるアトリーだったが、グレアムの仮説は信憑性が高いと感じていた。眷属烟獣のコアは近隣の残留思念を拾い、形作られているのではないかと言われているからだ。しかしそれが分かった所で現状が変わる訳でも無い為、アトリーは今これ以上話す必要は無いと判断し話を遮るに止まった。
その会話はまだそれ程距離の空いていないエルミダの耳にも届いており、エルミダは自身の背にしがみついて震えているエズムをチラリと見て、哀れむように目を伏せる。
大型烟獣に付いた複数個の眼球は偽物でしか無い為目標物を視覚として捉える事は無い。だがその動向から、狙われているのはやはりグレアムのようだった。エズムを背負ったエルミダには目もくれず、グレアムを担ぎ走るアトリーの方へ地を這い流れるように向かっていく。
この大型烟獣の移動速度は想定していたよりずっと早く、逃げ切る事は最早不可能な程に距離を詰められていた。それを察知したアトリーはグレアムを肩から降ろすと後退りながら覚醒具を構え、大型烟獣を睨み付ける。……一人であの大型烟獣をどうにかするつもりのようだ。
「……走れ!!」
アトリーの鋭い叫び声が、今まさにアトリーに声を掛けようとしていたグレアムをギクリと揺れさせた。アトリーはグレアムや先を行くエルミダらに背を向けているが、まるでその反応が見えているかのように言葉を続けた。
「良いから行け! 俺もすぐ追い付く! 少し足止めするだけだ!!」
「………………っ!」
本来身体能力強化スキルのある武装覚醒者なら、あの大型烟獣から逃げ切る事は不可能では無い筈だ。しかしそれが叶わないのは感知覚醒者である自分を逃がそうとしているから……。グレアムはそう判断し、少しでも早く森を抜ける為アトリーに背を向けて駆け出した。
しかしそんな様子を遠目に見ていたエルミダは酷く取り乱していた。エズムの正気を取り戻そうと未だ虚ろな目をしたエズムを降ろし、その肩を揺さぶる。
「エズム……エズム!! しっかりして!!」
「うっ……う……」
エズムは怪我をしている訳でもなければ意識を失っている訳でも無い。兎に角落ち着かせられればこの現状も立て直しが利く筈だとエルミダは考えたのだ。
「……エズム、分かる? 私が付いているから……深呼吸をして、良く聞いて。ここに貴女を打つ人は居ない。……良く見て? あれは烟獣。あの目玉は貴女の事を見ていないの。偽物の目だから。ほら……」
「う……うん……。うっ……」
エルミダに促され、烟獣の眼球を直視し、それでもエズムの震えは止まらなかった。だがエズムもエズムなりに落ち着きを取り戻そうとしているようで、深く息を吐きながらもその烟獣の眼球から目を逸らさず睨み付けている。
その様子にエルミダは少しだけ安堵し、その背中をさすってやった。
「……エズム、落ち着くまでここにいて。あの烟獣は私とアトリーで討伐するから」
「! ………………………………え……エルミダさん!」
エズムの唇がやっと動いた頃……エルミダは既にアトリーの元へと向かっていた。それに気付いたアトリーがエルミダを睨み付けていたが、サポートを得たアトリーは先程までより更に攻撃の手を強める。
────行かなきゃ。わたしも……。
エズムは覚醒具を生成する為、髪飾りにしている琥珀晶石に触れる。しかし未だ打ち破りきれていない恐怖心からか、覚醒具が上手く生成出来ない。
────落ち着け落ち着け! あんなの、ずっとずっと昔の事なんだから!! わたしを睨み付けるお父さんも、わたしを打つお母さんもここには居ない。……ううん、居たとしてももう打たれたりしない。……わたしはもう……子供じゃないんだから。
「行くったら行くんだから……!」
自分を奮い起たせる為そう呟いたエズムだったが……顔を上げたその先の様子に身体が再度強張った。
エルミダを庇ったであろうアトリーの身体が、血液を散らしながら宙を舞っていた。
それでも何とか受け身を取り着地するアトリーだったが、膝から崩れ、地に手をつく。
エルミダはそんな彼を抱え起こし、その場を離れようと駆け出す。だが大型烟獣の方が移動速度が早く、地を這うようなその虚闇がアトリーを抱え走るエルミダの足元を取り囲んでいった。
……その場にいる全員の脳裏に "死" がちらついた。
その様子を遠目に見ていたエズムは、その思考をぐるぐると巡らせる。
────わたしのせいで、このままじゃ。わたしなんかじゃ……わたしじゃ、無力過ぎて……!!
それは自分を奮い起たせる為の言葉でもなければ駆け出す理由を探すような言葉でも無い。自らに課された責任を背負いきれず、既に仲間の負傷という形で与えられ始めている "罰" ですらその身一つでは受け止めきれず……心が弱っている今のエズムでは、言葉によって自らを傷付ける事でしか先に進む事が出来なくなっていた。
自らの言葉による自傷行為は自らの心を殺ぎながら、一つの強い意思を生んで虚闇と強くシンクロし始める。
────そっか。本当はみんなわたしが居ない方が任務がし易いのに……それでもわたしみたいなダメな人間が副班長に就かなきゃいけなかったのは、そう言う事かぁ……。
エズムの覚醒具である大槌がメキメキと生成されていく。しかしその形状は蔦が伸びるように形を変え、刺々しい、より攻撃的な物へと変貌していった。
無意識に誘導侵蝕を行っており、侵蝕率が上昇する。それにより吐く息はまるで黒煙のようになり、皮膚も黒みを帯びていく。
────わたしが副班長なのは、こんな時責任を取れるように……使い捨て易いわたしが選ばれたんだね……!! そっか……そっかぁ……!!
恐怖心に打ち克つ為に今必要だったものは、それを上回る狂気だった。エズムは自身の生死へと考えを巡らせる事も出来ないまま、ただこの任務を全うするべく殺気立った目で烟獣を睨み付けた。
────あれは、邪魔……!! 死んで!
「ラアアアアアアアアアッ!!!」
腹の底から叫び、地へ振り降ろした大槌が轟音と共に地を割いた。侵蝕率の増加によって更に付与された何らかの属性により、物理攻撃が届く烟獣の有色部位、複数個の眼球がビリビリと揺れ……やがて大型烟獣は森の奥へ飛ばされていった。
「……エズム!!」
エルミダが呼ぶも、エズムの耳には届かなかった。いや、耳に届いたとしても、心までは届かなかった。
この烟獣を殺す。そして皆を逃がす。その気持ちだけが今のエズムを突き動かしていた。
エズムは追撃の為跳躍し、森の奥へ追いやった烟獣の正面へと飛び込んだ。烟獣はそれをふわりとかわそうとするが、何故か叶わない。……まるで、エズムの覚醒具に吸い寄せられているかのように。
「破アアアアアッ!!!」
覚醒具に付与された力により、その威力は通常時の倍以上となった。エズムが覚醒具を振り降ろした先で、大型烟獣の一部が破裂するように砕け散る。
「あああああ!!」
エズムは尚も追撃の手を緩めなかったが、その戦い方は普段のエズムとは真逆の物だった。狙いは定まっておらず、付与された力も安定していない為空振りが目立つ。加えてその一振り一振りが全力である為体力の消耗も激しい。
しかし侵蝕率を限界値まで高めているせいか、疲労感や痛覚は麻痺しているようだった。肉体の声無き悲鳴は静かに伝う鼻血に始まり……やがて全身を流れる血液が刃を持ち身体を切り刻むように、臓器は焼かれるように痛み出す。その痛みがエズムを動けなくなるまで蝕んで、ようやくエズムは自らの限界に気付いた。
「……っ! ゴホッ……!」
膝をつき、口元を押さえた手が、腕が、吐き出した血液によって紅く染め上げられていった。
満身創痍となったエズムの視線の先には未だ形を留めている大型烟獣がゆらりと揺れ、そのままエズムの方へスルスルと向かってくる。
────あ、わたし死んじゃうのかも……。
死を目前にし、急に色々な事が愛おしくなってくる。アルベド団員となってから過ごしてきた時間、出逢ってきた人達の顔がエズムの頭を走馬灯のように流れていく……。
だがエズムはそれでもいいかと思えた。皆を逃がせられたのなら、それが自分の全てになる、と。
しかし周りを見渡しエズムは愕然とした。
……エルミダもアトリーもこの場から逃げられていなかった。負傷したアトリーは勿論だが、エルミダも逃走の際、大型烟獣の虚闇によって脚を負傷していたのだ。一人森を駆けるグレアムについてもそれ程遠くへ離れられておらず、このままでは烟獣に追い付かれる事は目に見えていた。
────闘え!
エズムは再度立ち上がろうとするが、気持ちだけで動ける程身体は頑丈に出来てはいなかった。
最早万策尽きている。それでも闘う意思はある。エズムは動けない身体を必死に動かし、やっとの事で顔を上げた。
だが……それによってエズムはもう一つの絶望を目にしてしまった。
目の前の大型烟獣の他に、その真上である遥か上空に超巨大烟獣の姿が見えた。それは人間のような頭部とそこから溶け出すように繋がる薄くヒラヒラとした胴体をしており、それが幾重にも重なり形成され、水のように、炎のようにたなびいている。
「…………アァ…ド……ミ…ラーロ……」
エズムは乾いた唇から掠れた声を漏らす。
……エズムらの真上に居たのは、この国に厄難をもたらす四柱の竜の内の一柱、東の竜アードミラーロだった。




