【027】理外の理の理(ことわり)の外で
人間が決して足を踏み入れる事の無い、枯れ森のずっと奥には小高い丘があった。そこには石造りの古い円柱塔があり、飾り気の無いその巨塔は重厚で、どこか威厳すら感じさせながら静かに佇んでいる。
柔らかな陽の光によってぼんやりと浮かび上がったその場所は、枯れ森と呼ぶに相応しい景色が広がっていた。塔の壁面を覆う蔦も、辺りを彩っていたであろう薔薇の園も……悉く枯れ果てている。地面に敷き詰められた草花も、遠くに見える木々もだ。
そんなおよそ生命の気配を感じない場所に、一人の青年と二頭の狼の姿があった。金髪碧眼の青年はその柔らかな髪と薄手の衣服をふわりと揺らし、中性的で儚げな顔を上げ眼下に広がる森を眺めている。
二頭の狼はその左右を固めるように佇み、同じように森の方を睨み付けている。二頭とも大人の狼と思われるが、一般的な大人の狼と比べたなら一回りも二回りも大きいであろう体格だ。その体毛の一部は赤紫色をしており、なかなか奇抜な色合いをしている。
「ガニメート、どういう事だ!? ■■■■■■らしき人物を捕り逃した挙げ句、ただの人間に力負けするなんて……油断以外の何だって言うんだ!」
一頭の狼が口を開き、人間の言葉を話す。その声色はドスのきいた成人男性のものだった。
「おいテメエ。犬畜生の分際でオレのガニメートきゅんに何つう口の利き方してんだゴルァ!」
もう一頭の狼も人間の言葉を話す。男性のような口調だが……その声色は成人女性のもののようだ。女性にしては低音ではあるが。
「ああ? 姉貴だって今は犬ッコロの姿の癖に一々噛みついて来るなよ。それより今は……」
「オレはガニメートきゅんが『狼の姿も良い』って言ってるからこの姿でも良いんだよバーカ!」
「…………何が『狼の姿も』だ! どうせ『も』じゃなくて『は』だろ! 大体一人称『オレ』の筋肉ダルマ大女なんて一生流行んねーから!!」
「はん、下らねー事をぎゃーぎゃーとうるせぇな。オレはガニメートきゅんのクリティカルヒットさえ得られれば十分なんだよバーカバーカ!」
「元々クリティカルヒットなんかしてねーだろ!! 妄想も大概にしろよ!」
「うるせー!! 童貞のクセに! テクノブレイクして一人寂しく死ね!」
「……万年発情期の姉貴の方がよっぽどみっともないんだよ! 変態ズーフィリアに獣姦されて死ね!」
「アァン? ……やんのかコラ!!」
「上等じゃねーか! 今ここで決着付けても良いんだぜ……!?」
「……二人とも、今はそんな事してる場合じゃないでしょ」
睨み合う二頭の狼に挟まれた金髪碧眼の青年……ガニメートは、二頭へ腕を回すとその後頭部から耳の下を撫でてやった。その心地好い力加減に二頭は思わず目を細めてうっとりとする。
「うーん、やっぱり二人とも人間より狼の姿の方が可愛いよ。……扱いやすくて」
ガニメートはふふ、と笑い、そのまま二頭の頭頂部を優しく撫でてやった。
まるで二頭の狼が嘗て人間だったような口振りの彼らだが、二頭の狼は人間としての本能より獣としての本能の方が強いようだ。女性狼は心地好さに目を閉じガニメートの顔に鼻を寄せ、男性狼の方は不本意そうにガニメートから距離を取ろうとするものの、その尻尾はパタパタと嬉しそうに揺れている。
「……ただの人間に負けちゃったのは、確かに俺の油断だったよ。でもあの紫髪のマスクの人も、すごく美味しそうだったなぁ……。飲みたかったなぁ……あの血……」
そう言ってガニメートは生唾を飲む。
二頭が落ち着いたところでガニメートは手を放し、もう一度眼下に広がる森へと目を向けた。枯れ木の森の途中からは緑の森が広がっており、まるでそこから次元が歪んでいるようだった。
「あの時あの人達の中に■■■■■■の存在はハッキリとは感じられなかったんだ。今■■■■■■に遭遇するとすれば灰の王かルジルファだけだと思うんだけど……それに近い匂いはするのに、今思えば態とらしい位に綺麗さっぱり気配が消されていたんだよね。この件に関しては強大な力を持った何者かが一枚噛んでいるように思えるよ」
「……ああそうかい。しかしその程度も嗅ぎ分けられねーんじゃ、やっぱり人間の鼻なんて録なもんじゃねーな」
「おいコラ、オレのガニメートきゅんを侮辱すんじゃねーぞ! 大体その為にチビ共を付けさせてたのによぉ! 畜生、あのチビ共はオレが後でしばいて……」
「もう良いでしょ? チビ狼達の鼻でも嗅ぎ分けられないくらいの匂いだったんだから……。ほら、よしよし」
ガニメートは二頭が喧嘩腰になる度頭を撫でて宥めてやった。二頭ともこれで本当に落ち着くのだから、扱いやすい事この上無い。
「二人にはクリュメネー復活の手掛かりを探してもらう為に枯れ森を離れてもらっていた訳だけど、四柱の烟獣の異変を感じて戻って来たんだとしたら随分帰りが早いんじゃない……? それとは別に、道中何かあったの?」
「……ああ、俺も姉貴も烟獣に異変があったから戻った訳じゃない。烟獣に異変が起こる前、あいつに遭遇したんだ。
……クリュメネーをあんな姿にした、あの白甲冑にな」
そう言って男性狼は塔の方に目を向けた。
塔内部の壁面には女性の石像が佇んでいた。美しいその顔は苦痛に歪み、胸に刺さった剣らしき物でまるで壁に磔にされているような格好となっている。……装飾品にしては随分悪趣味だ。
しかし男性狼の言葉を聞いたガニメートはそちらに目をやる事も出来ず、硬直して目を見開いた。
「白…甲冑……!?」
ガニメートは思わず言葉を復唱してしまう。
ガニメートらが白甲冑と呼ぶそれは……全身を白銀色の甲冑に覆われた、素顔も名前も性別すらも分からない謎の存在だ。目撃情報は極めて少ないが、それが姿を現すのは決まって何かが起こる前だった。
白甲冑の人物は覚醒者であり、どうやらその甲冑は覚醒具のようだ。防具としての覚醒具を持つ覚醒者の話など今も昔も聞いた事が無く、恐らくその人物以外に存在しないのではないかと思われる。そして灰の王と呼ばれる存在のしもべのような人物だ。
ガニメートらの一団はクリュメネーという女性を中心として成り立っていた。しかしそのクリュメネーを白甲冑によって封じられ、《果たさなければならない役目》を果たす術を失ってから……既に十年の時が経っている。
クリュメネーが役目を果たす為に、ガニメートらは何としてでもクリュメネーの復活を果たさなければいけない。────歴史の歪みを、糺す為に。
いつになく深刻な顔をしているガニメートの顔を女性狼が覗き込む。そして男性狼の話の続きを代わって話し始めた。
「……そんでよ、オレ達はその白甲冑を問い詰めてやろうと挑んだ訳だ。クリュメネーの復活の手掛かりを探すつもりが、その答えに繋がる人物を見付けたんだからな。だが……」
女性狼はそこまで言って溜め息を一つ吐き、項垂れるように身体を伏せて腕に顎を乗せた。
「結論から言うと、オレ達の敵う相手じゃなかった。ズッタズタのケチョンケチョンにされて、縛られて箱詰めされて、その後箱ごと筏に乗せられて海に流されて……拘束が解けた時には既に辺り一面大海原よ」
「俺達は身体の造りが頑丈だから、そうそう殺られる事は無いんだが……あの時は流石に死んだと思ったな」
男性狼も俯き項垂れる。
ガニメートはその経緯に驚嘆の声を漏らし、二頭の狼を交互に見やった。良く見ると二頭とも所々に傷を負っている。
「二人とも、無事で良かったよ……大変だったね。こんな時クリュメネーならその傷も癒してあげられるんだけど、俺の血の石はオリジナルの能力には程遠いから……ごめんね」
「ふん、こんな傷、唾つけとけば治る」
男性狼はそう言って自身の傷口を舐めた。そこに女性狼も便乗しガニメートに向かって訴える。
「そうだそうだ! 唾で十分! って事でガニメートきゅん、オレの身体を舐め回してくれ! あんなところからこんなところまで存分に!! 遠慮しなくて良いんだからな! さあ!! さあ!!」
「ふふっ……冗談でも吐き気を催すよ」
ガニメートは無茶苦茶な要求を穏やかに毒づき流したが、女性狼はまるで堪えていないようだ。
「全くガニメートきゅんときたら……このいけずな恥ずかしがり屋さんめ! オレが人型に戻れた暁にはあんなコトやこんなコトをしてガニメートきゅんにお仕置きしちゃうからな!!」
「はいはい。俺に力で勝てたらね」
「なっ……! つ、つまりガニメートきゅんはオレに力づくで迫られたい…の…か……!? クッ……燃える!! たぎる!!」
女性狼はガニメートが気のない適当な返事をしても、男性狼にまるで汚物でも見るような目で見られていても……全く気にしていないようだった。鋭い牙を生やした真っ赤な口元から「ゲッヘッヘ」と品の無い笑い声を漏らしすっかり悦に入っている。
ガニメートは仕切り直すように溜め息を吐いて、まだ話の通じる男性狼の方を向いた。
「……それで。そこから直帰して今に至るって事だよね? なら白甲冑と遭遇してから数日は経っているって事で良いのかな?」
「ああ。もうひと月は前になる。白甲冑と遭遇したのはツェーレルクのはずれだ。だが……あの辺りにはアルベド団の拠点があるが、あの団に白甲冑の覚醒者の情報は未だに無い」
「うん。俺達の目眩ましのためにアルベド団付近で姿を現した可能性もあるしね。アルベド団での在籍確認が取れない覚醒者なら、ルジルファを信仰する邪教団が多く住む……ここから南西にある、ローデンドルク近隣を拠点としている可能性が高いかな」
「うはああぁああはあああああぁぁあはぁぁ……」
「……………………。」
真面目な会話の途中で女性狼の緊張感の無い声が割り込む。男性狼が見ると、女性狼の尻尾の付け根部分をどうやらガニメートが執拗に撫でていたようだった。
そんな様子に気付いた男性狼がげんなりとした顔を向ける。
「……少し静かにしていると思ったら……おいおい……」
「尻尾の付け根の辺りをこうしてあげると……ほら、静かになって良いでしょ?」
ガニメートがうふふ、と柔らかく微笑む。分かっているのか無いのか知らないが、尻尾の付け根は性感帯みたいな物だったり……しなくもない。
「ガニメート……俺としては止めてやって欲しいんだが。……気味が悪すぎる」
「……でもこれ以上は黙っててくれないと話が進まなくなるからね」
そう言ってガニメートは撫でるのを止め、今度は何故か尻尾の付け根をバシンバシンとリズミカルに叩き出した。その度女性狼の「ウヒャー」という声がしたが、男性狼は目を背け耳を背け、なるべく意識しないように努めた。
「それで、ああっと何だったか……? ああ、白甲冑の行方だ。ローデンドルク近隣説は有力だが……かと言ってローデンドルク近隣での目撃情報も無いんだよな……」
「うーん、そうなんだよね。せっかく尻尾を出してくれても捕まえられなきゃあまり意味が無いね」
ガニメートは一呼吸置いてもう一言呟く。
「でも俺達にはもう、そんなに時間は残されていない」
そう言って眼下に広がる森へと視線を向ける。
緑が茂る森の中に、まるで黒煙が泉のように広がっている場所があった。そしてその上空には巨大な烟獣の姿があった。
人間のような頭部から溶け出すように繋がる胴体は、薄くヒラヒラとした布状の物が幾重にも重なり形成されている。胴体を成すそれらは時に水のように、時に炎のように揺らめいている。
竜と呼ぶにはあまりにかけ離れた姿のその烟獣こそが……東の竜アードミラーロだった。
しばらくして森の遠くで信号弾が上がったのも見えた。
「理の外の俺達に烟獣を倒す事は出来ない。烟獣は覚醒者達に与えられた餌のような物だから。……でもこのままルジルファの思い通りにさせるつもりも無いし、灰の王をのさばらせている訳にもいかない……」
ガニメートが独り言のように呟く。そしてフッと笑って男性狼の方を向いた。
「白甲冑を探すには、覚醒者の力が必要……そう思わない?」
「……時間が無いから直接白甲冑を探すって言うのか……!? まさか」
「うん。白甲冑を見付け次第、俺が向かう。」
「馬鹿な事を言うな! クリュメネーがあんな状態の今……この不可侵域を維持しているお前が離れれば、ルジルファと灰の王を討つ前にクリュメネーが危ういだろ!! 灰の王はクリュメネー……もとい、血の石の守人を抹消させようとしてるんだぞ!」
「……あっ、そっか」
「………………おい!!!」
彼らにとってあまりに常識的な内容だった為、惚けた発言をしたガニメートに対し男性狼が思わず突っ込む。
ガニメートは「ごめんごめん」と謝ってもう一度口を開いた。
「俺はこの森に来てもう十年外に出ていないからつい、ね……。でも……そうなると、そうだね。やっぱり目には目を。覚醒者には覚醒者を。
……ちょうど今この森には覚醒者が沢山来ているみたいだし、様子見してもいいかもね」
そう言ってガニメートは柔らかく微笑む。
その眼下に広がる森では……交戦開始や緊急事態、撤退を意味する信号弾が複数射ち上げられているのが見えた。




