【021】傷のないキズの傷で在るが故の
「……二人とも、頼もしい限りです。ですが今日はもうお休みになってください」
「けどよ、ロデ君……」
「ああ、ツォイス殿はお酒は飲まれるんですよね。折角ですから酒場の方へ行かれてみては? ウルキの町はアガ酒で有名だそうですからね。名無し君もその頂いた服のお礼に行ってみると良いですよ。勿論覚醒者であることは隠してくださいね。それから────」
「……分かった分かった! 分かったよ!」
ロデは意識の戻らないアシュタルの元で、少し一人の時間を取りたいのだろう……。捲し立てるようなロデの口調からツォイスはそう察し、それ以上の言葉を無理矢理遮った。そして頭をバリバリと掻いて深く溜め息を吐いた後、横に立っていたジャンタを見下ろす。
そのジャンタの表情から察するに、ツォイスが何について「分かった」と言っているのか解っていないようだった。ツォイスはその背中を叩き、ジャンタを連れ出そうと声をかける。
「おら名無し君、行くぞ」
「えっでもアシュタルもロデも……」
「いーのいーの! それに『森を抜けられたらもっとうまい物食わせてやる』って言ったろ?」
「んんん……。おれ、パンいっぱい食べちゃったからお腹いっぱい」
「食べ盛りのガキなら肉を食え! 肉を!! おら来い! 俺に付き合え!」
ツォイスは半ば強引にジャンタを引きずり、部屋を出ていった。二人の声が遠ざかっていくにつれ、室内にはアシュタルの呼吸音が戻ってくる。
────アシュタル様以外の方の同行は新鮮ですが……少々困りものですね。このマスクも迂闊に外す事も出来ない。
ロデはフッと笑ってみたものの、それはすぐに溜め息に変わってしまった。静かになった部屋でベッド横の椅子に座り、苦し気な主へ視線を向ける。
先程聞いた常駐員の男の言葉は気になるものではあったものの……今、ロデの心をかき乱しているのはアシュタルの父でありザクゼン侯であるランクルフの存在だった。
使用人の女性を溺愛し、アシュタルの母であるヤンネを邪険にしていたから。そのヤンネにアシュタルの顔立ちが良く似ていたから……。
嫡男であるアシュタルが、そんな理不尽な理由によって蔑まされつま弾きにされ、これ程不当な扱いを受けなければならない事がロデには許せなかった。いくらランクルフが現侯国君主とは言え…… "臣下の臣下は臣下ではない" 為、ロデにとってランクルフはそれ以上にもそれ以下にも成り得ない。
……だがロデにとってランクルフは君主や主の父というだけの存在ではなく、アシュタルへの冷遇とは別に、ロデ個人としても憎しみを抱いている相手だった。
内に秘めていたその復讐心によって、アシュタルの不当な扱いに対する憎しみも増大する。それは逆もまた然りであり、それぞれに考えを巡らせればそれらは同時に大きな憎悪へと繋がっていくのだ。
過去の記憶が甦り、ロデは頭を抱えて俯いた。
それは嘗て、アシュタルと共に軟禁されていた屋敷での記憶。
病の進行により苦しむアシュタルと、ロデの言い分を聞こうともしない兵達の記憶。
こんな仕打ちを受けながらも、父親への期待を捨てきれずにいた主の記憶。
屋敷を抜け出し、黒化病のアシュタルの為に、琥珀晶石を持ち込もうとした記憶。
────そしてロデと同じ、くすんだ紫色の髪をふわりと揺らしながら…………夥しい体液が宙を舞い、地をバシャリと打ち付けた鮮血の記憶。
ロデの手は無意識に自身の首元に触れて、やがてそのマスクを引き千切らんばかりにギリギリと握り絞めていた。
このマスクは自身にかけた呪いのようなものだ。そしてその呪いを解けるのは自分自身か、或いは────……。
ロデは自身のマスクに伸ばした手を下ろし、苦々しい顔で小さく溜め息を吐いた。今も尚目覚めないアシュタルは時折苦し気に呻き……その姿はあの屋敷での記憶を鮮明に甦らせる引き金となっている。
アシュタルがやがてこの国の君主となったなら、少しはロデの溜飲も下がるかもしれない。……少しは、心も晴れるかもしれない。だがそれは主が本当に望む事なのだろうか? 望んでいたとしても、それは主が幸せになれる選択肢なのだろうか…………?
「……ウゥ…………」
「……アシュタル…様……?」
アシュタルの呻き声によって現実に引き戻されたロデだったが、未だアシュタルが目覚める気配は無かった。
ロデは主の汗を拭い、桶の水を取り替える為室内の水場へと向かう。そこはアシュタルのいるベッドから死角になっており、ランプの灯りも届かない為薄暗い。
そこに桶を寄せ、ロデはおもむろにマスクを外した。洗面台に置かれたマスクはその見た目とは裏腹に、重力に従って潰れていく様がやけに重たげだ。
ロデはそのマスクの内側のポケットから薬を取り出して、口へ放り、飲み込む。そして冷たい水でバシャバシャと顔を洗い、その水を滴らせたまま力無く俯いた。
────ごめんなさい……アシュタル様。ごめんなさい……。私には、もうこんな道しか残されていないんです……。
「……貴方を苦しめる原因の一つが私であっても、もう私には……」
声に出したつもりは無かったがそれは言葉となって口からこぼれ出ており、ロデは思わず手で口を覆った。マスク越しではない、直接触れる皮膚の感触がいやに柔らかく……まるで自分の顔ではないようで気持ちが悪く感じる。
その手を滑らせ、隠してきた自身の喉元に触れ、ロデは顔を上げた。
水面に映った光がゆらゆらと揺れながら、ロデの輪郭を断片的に縁取っていた。正面の鏡には憔悴し血の気の無い顔をしたロデの姿がある。
そして、水面の光はロデの喉元の姿もぼんやりと拾って……ほの暗い中、その姿を妙にくっきりと鏡に映し出していた。
────鏡に映ったロデの喉元には、
一筋の傷すらも存在しなかった。
改めてそれを目の当たりにし、ロデは堪らずその白い肌を掻きむしっていた。在る筈のものが無い、自分自身が自分自身でない違和感と不快感が爪を立てさせ、頸へ、心へと深く突き刺さる。掻きむしった痕が在る筈の傷のように赤く浮き上がり、やがてその首元には血が滲み出していた。
こんな事をしても無意味だと分かっている。それにも関わらず、マスクを外せば弱い心が剥き出しにされたかのようになり、ロデは正気ではいられなくなりそうだった。
だが僅かばかりに存在する自身の中の "ロデ・レーヴィット" という強さが自身の弱さを振り払わせるかのように首から手を振りほどかせ、そしてその弱さを押さえ付け心の奥へ沈めるように顔を覆って視界を遮った。顔を見ないよう水を拭い、外していたマスクに手を伸ばす。
────これがあれば、穏やかで頼もしい "ロデ・レーヴィット" で居られる。
マスクを装着し直したロデは先程までとは違い、キリリとした表情で鏡の中に佇んでいた。
そして視線を横へと大きくずらし、床に平置きにされた黒く長いカバンをその目に映す。これはスナイパーライフルのケースだ。勿論、ケースの中にはロデの愛用するライフルがしまわれている。
────覚醒者ではない私が、烟獣と闘う為の唯一の術なら持っています。それを使う時が来たのなら、その時には…………
視線を戻したロデは鏡の中の "ロデ・レーヴィット" を睨み付け、自身への呪いであり仮面である大きなマスクに触れた。
────その時には、私は。
貴方にこの呪いを託してでも、貴方が生き延びる為の選択をしましょう。
ロデがその憂いを帯びた瞳を附せると、長い睫毛によってその光さえも遮ってしまった。




