【009】「名無し」のジャンタ ◆
「だりゃー!!!」
森に響く、威勢のいい声の主はジャンタだ。動きだけは素早いジャンタは、いとも簡単に敵の懐に潜り込む。そして両手のフォーク……もとい、ミニ大剣(?)をしっかりと握り、漆黒の赤子の頭部目掛けて振り下ろした。
……ぱきんっ。
控え目だが何か嫌な音がして、それに気をとられたジャンタに隙が出来る。漆黒の赤子はそれを見逃さず、ジャンタを再度張り飛ばした。
だが上手く受け身をとったジャンタは先程のように吹っ飛ばされる事は無かった。脚が地面に届くなり踵を返し、元居た場所へと飛び戻って来た。
そして漆黒の赤子に背を向け、血だらけの顔でツォイスの方を向いた。
「ツォイス見て!! 壊れた!」
ジャンタの両手には、柄だけになった覚醒具が残されていた。だがその柄もほぼ柄の形を成しておらず、まるでへし折った枝だ。ツォイスの方に腕を突き出したジャンタは今にも泣きそうな表情をしている。
だがツォイスも何とかこの場から逃げようと必死だ。
「知るか! てめぇで何とかしろ!」
ツォイスはジャンタを冷たくあしらい、アシュタルを引きずりながら歩き出した。
その反応に「えええ…」と声をもらし肩を落とすジャンタだが、その背後からはあの巨大な漆黒の赤子がズリズリと這い寄ってきていた。
「んんん……じゃあもう一度……!」
ジャンタはそのまま目を閉じ、自身の両手に意識を再度集中した。だがその手からは黒煙がゆらゆらと現れるものの、そこから先の段階に進むことが出来ない。
そうこうしている内に漆黒の赤子が迫ってくる。漆黒の赤子はやがて四つん這いの体勢から腰を落とすと、高くかざした両手を勢いよくジャンタに振り下ろした。
その瞬間、ジャンタの手のひらから冷たい何かが生まれ────……
そのまま赤子の手に押し潰され、その意識は途切れた。
漆黒の赤子が手を退けると、そこには押し潰され意識を失ったジャンタの姿があった。
その姿を確認すると、赤子の顔から身体から無数の細い腕が伸び、それらがジャンタを掴む。そしてそのまま腹の中へと引きずり込んでいった。
「マジかよおい……!」
少し離れた所まで歩いていたツォイスが振り返り目にしたのは、ジャンタが吸収される瞬間だった。
その呆気ない最後に呆然とした。
ジャンタが漆黒の子供の姿をしていた時も、ぎこちない動きではあったものの、アシュタルらは最後にしてやられた。それ故にツォイスは、ジャンタに少なからず期待をしていたのだ。
しかしジャンタが漆黒の赤子に飲まれた今、ツォイスにとってこれは最後のチャンスだった。眷属烟獣は取り込んだ人間や物から虚闇を吸収しきるまでは殆ど動かない……と聞いた事があったのだ。事例が少ない為確かではない情報だが、今はそれにすがるしかない。兎に角今はあの漆黒の赤子から距離を取り、この森から抜け出す事だけがツォイスらの助かる道だった。
「あー……短い間だったが世話になったな……」
淡白にそう一言呟くと、ツォイスはジャンタの方を振り返る事無くただひたすら歩き始めた。
ツォイスの読み通り、ジャンタを取り込んだ漆黒の赤子はそのままじっと動かなくなった。ジャンタから虚闇を吸収することに専念している、といった様子だ。
そんな中、ジャンタは無限に広がるような黒煙の中を、ぼんやりと漂っていた。細い糸が垂れるような、それでいて全身から滝が流れるような……一言では言い表せない感覚がジャンタを包む。不快ではないが、心地好くもない感覚だ。
だがジャンタはこれに似た感覚に覚えがあった。それはジャンタが覚えている一番最初の感覚だ。
その感覚を思い出すと、それと同調するように自身の中の冷たいものが顔を出そうとする。
ジャンタははっきりと思った。この冷たいものは嫌いだと。
しかしその冷たいものはじわりじわりと這い出して、ジャンタを支配しようとする。
────オまえナンテ存在シなイ。オまえナンテ存在シなイ。オまえナンテ……
冷たいものがジャンタに向かって訴えてくる。
なんて酷いことを言うんだろう、とジャンタは悲しくなった。それと同時に、意識が散り散りになって消えてしまいそうになる。
しかし冷たいものはジャンタへと言葉を注ぎ込む事を止めてはくれなかった。その言葉はジャンタの存在そのものをかき消さんとしてくる。
ジャンタは恐ろしさのあまり耳を塞ぎ小さく丸まった。その手には力が入り、爪が皮膚にめり込む。それなのにまるで痛みを感じない。
この身体は、誰のもの?
この痛みは、おれのものじゃないの?
おれは、だれ……?
千切れては溶けていきそうな自分という存在を何とか繋ぎ止めようと、ジャンタは自らの肩を抱いた。その身体がいくら血を流そうと、何も感じない。ジャンタは痛覚さえも求めて自らを傷付けていた。
───存在シなイ子ども。……オまえニ名ハなイ。そんざいシなイノダカラ。そノ身体モ、そノ魂モ、そノ心モ、存在シなイものナノダカラ。
「違う! おれは……!」
名前を名乗ろうとして、言葉が詰まった。
────なまえ……? おれの、なまえは……?
思い出せない。おれは、何て呼ばれていた? ツォイスはおれを何て呼んでた? アシュタルは、何て?
名前しか持たないジャンタがその名前を失うということは、即ち自身の消滅を意味していた。
恐怖も感じない。悲しみも感じない。ジャンタは "ジャンタ" という存在そのものを手放すように、その身体から力を失っていった。
あった筈の腕が、滑り落ちて闇へ溶けていく。
あった筈の脚が、何も捉えられずに千切れていく。
あった筈の耳が、何も拾えずに全てを否定する。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。何も届かない。
これが無。これが、生まれ来た場所。
……そっか、おれに名前があるとすれば、それは "無" だったんだ……。
そんな風に現状を受け入れたものの、そんな気持ちですら最早何の意味も無くなっていく。
その時。声が、聞こえた。
ある筈のない耳が拾った音が、いる筈のない自分に向けられた声を届ける。
「ジャンタ」
────ジャン、タ……? ジャンタって、なんだっけ?
「ジャンタ。あなたの名前」
────おれ、の? ……おれ、は……!!
刹那、温かいものが額に触れて、ジャンタは目を見開いた。
そこに逆さまの自分がいた。……いや、自分によく似た誰かだ。
逆さまの人物はその額をジャンタの額にピタリと寄せて、頬に触れ、涙を流していた。
「それでも、あなたはあたしじゃないし、ルジルファでもないじゃない」
その言葉を聞いて、ジャンタは目を見開いた。逆さまの人物に対し、驚きと、疑問と、寂しさと、嬉しさと……色々な感情が溢れた。
重力のない世界で、逆さまの人物がゆっくりと空へ沈んでいく。ジャンタへ伸ばした手が別れを惜しむように伸びて、指先が額を掠め、やがて届かなくなった。
逆さまの人物はジャンタによく似た顔を涙で濡らしながら言葉を繋ぐ。
「あなたが "ジャンタ" だと言ったんだから、最後まで "ジャンタ" でいてよ。あなたの名前を、大切にしてよ。……あたしがそこに、居られない分も」
闇へ落ちていくジャンタを、空へ沈んでいく人物が優しく見上げた。
「……さようなら、ジャンタ」
逆さまの人物が沈んでいくと同時に、自らもまた闇へと引きずりこまれそうになった。暗がりから伸びる幾つもの黒い手は、あの恐ろしい冷たいものだ。
だがジャンタがその名を、その存在を手放す事は無かった。
「うううううううう……」
ジャンタは自身に伸びる、自身の中の冷たいものを全力で抑え込んだ。それと同時に自身の全身の感覚、そして心を取り戻していく。
例えこの魂がルジルファのものであっても。
例えこの身体が川辺に佇んでいた、絶命した子供のものであっても。
例え自分が……いつ消えてしまってもおかしくない、ただの一人格だとしても。
揺らがずにいられたのは、おれを呼んでくれる人がいたから。
揺らがずにいられるのは、名前を言ってくれた人がいるから。
ジャンタは自らの存在を肯定する為に、二つの存在を否定しなくてはいけないのだと知った。
それでも────────……。
「消 え て た ま る か あ あ あ !!!」
与えられた生をただ生きたくて、ジャンタは全力で叫んでいた。
……ジャンタが力一杯叫ぶと同時に、ジャンタの力を取り込まんとしていた漆黒の赤子の腹部が弾け散った。それにより漆黒の赤子は「オオオオ……」という、声とは言い難い音を苦し気に発した。そしてこの衝撃により、漆黒の赤子は横方向へゆっくりと倒れていった。
弾け散った腹部からは黒くねっとりとした液体と共に、黒い塊のように全身真っ黒に染まったジャンタが吐き出された。
「う……ぐ…………」
ジャンタは呻き、起き上がろうとするも、身体がうまく動かない。その状態は、肉体と精神の結合が不完全、という表現が最も近いかもしれない。
そんなジャンタをよそに、漆黒の赤子はその巨体をゆっくりと起こした。動けないジャンタには目もくれず、ズルズルと這っていく。ジャンタからある程度の虚闇は吸収出来たものの、それ以上を取り込む事は諦めたらしい。獲物を別に定めたようだ。
漆黒の赤子から流れ出た黒い液体は、赤子から一定の距離まで離れると黒煙となって宙へかき消えていった。漆黒の赤子の形を成す何らかのコアから離れる事によって、元に戻ることなく分離されるのだろう。
そうして身体に付着した黒い液体も消え、やがてジャンタは自身その姿を取り戻した。
「ゲホッゲホッ……うう……」
先程まで息が止まっていたのか、やっと確保出来た気道に肺が過剰反応する。
それでも何とか肘を付き膝を付き、ジャンタは身体を起こした。目に入った血液が視界を遮っており、自身の腕の、なるべく綺麗な部分でがしがしと擦る。
そうして取り戻した視界に、漆黒の赤子の姿が映った。先程まですぐ隣にいたはずのそれは、後ろ姿が随分と小さくなっている。
その歩みは一見遅く見えるがその巨体故に一歩一歩が大きい。しかも這う動作としてはかなり俊敏に手足を動かしており、そのスピードは大人の全速力程度か、それ以上だ。
────そして、漆黒の赤子の向かう先にはツォイスと、ツォイスに引きずられながら進むアシュタルの姿があった。
「しっかりしろアシュタル君! おい! 頼むよ!!」
ツォイスの悲痛な叫びが聞こえる。漆黒の赤子は、二人のすぐ後ろまで迫っていたのだ。




