04. 目覚めは快適
一郎の目覚めは快適だった。
例えそれが日本のアパートの自室ではなく、ゲームとも異世界とも知れぬ地の棺桶の中、であっても彼の心に揺らぎはない。
もともと、一郎は日本の現実社会には何の希望も夢も抱いていなかった。生活のために仕事をこなし、自由な時間はゲームに没頭する、流れ流されるままの日常を繰り返す日々。
だから、場所が変わっても彼の姿勢に変化は微塵もないのだ。現状をあるがままに受け入れ、自分にできることをするのみだ。
「よっ、と」
棺桶の蓋を押し開き、身を起こす。
高原(?)の朝の低い気温に軽く身震いしてから、足を持ち上げて棺桶から脱出する。
踵を地面につけたまま、両腕を高く頭上に突き上げて思い切り背伸びをする。
上体を倒して前屈。凝り固まった筋肉を無理矢理伸ばしていく苦痛が、なんとなく快感である。
パタンと棺桶の蓋を閉じ、椅子代わりに腰掛ける。
瓢箪型水筒の水を片手で受けて顔を洗い、口を濯ぐ。
このまま朝食を摂ることにした。
選んだ今朝のメニューはフレッシュミルク(MP回復力微増)とオニオンブレッド(HP上限微増)だ。ミルクは冷蔵庫から出した直後のように冷たく、パンは粗熱をとってすぐみたいにフワフワである。風味といい味わいといい文句なしの絶品で、普段はトースト一枚で朝を済ませてしまう一郎もパンをもう一つお代わりしてしまった。
インベントリ内の料理や飲み物の在庫はどれもが四桁なので、一郎の胃袋の未来に不安はない。
そして、上から詰め込んだら、今度は下から排出する作業が待っている。
棺桶を片付け、岩の陰まで移動する。
海ヘビちゃん(火)を装備し、尖った尾で穴を掘り、そこで用を足した。後始末に利用したのは一般素材扱いの“薄い皮”だ。これはフィールドのMOBが通常ドロップするもので、一郎の長い狩り時間の成果として五桁の数がインベントリ内にストックされている。仮に使い切ったとしても、同じく一般素材の“薄い布”がやはり五桁あるので当分は困らないだろう。
きちんと穴を埋め戻して岩陰から出る。
視界の右上に設定したミニマップで方角を定めてから、そのまま移動を開始した。
現在地のカルデラ盆地中央部から西の外輪山に向かうコースだ。
島の位置を全体マップで確認した時に、一郎の脳裏には太平洋上のハワイがなんとなく浮かんだ。目指すならアメリカではなく日本だろ、という軽い気持ちでの進路決定だった。
大陸の形状がまったく違うので、日本が存在する可能性は微塵もないし、そもそも文明が存在しているのかどうかも怪しい。あくまでも気分の問題だ。無意識のうちに、現実世界との接点を求めていたのかもしれない。
海ヘビちゃん(火)をしっかりと握り、革サンダルの底越しに固い大地を感じつつ、肉体の調子を探るように一歩一歩確実に足を進めていく。
二日目とあって、新しくなった体に違和感はない。もう生まれた時からこの少年の姿だったと錯覚してしまうくらいに自然な動作だった。
地面を蹴る両足の力強さと柔軟なバネ、重い両手杖を持ち続けても疲労の気配さえ見せない腕の筋肉、ペースを上げても余裕で応える心肺能力。
現実の一郎が決して持ち得なかったものばかりに、ムクムクと好奇心がもたげてくる。
いったん足を止め、海ヘビちゃん(火)を仕舞って、天魔シリーズ・天使っ子の短杖(聖)に持ち換える。
「インクリース・スピード!」
一定時間、対象の移動速度を増加させる聖属性下級魔法だ。熟練の値によって時間と効果が増加する。
はっきりと自覚できるほど、一郎は自分の体が軽くなるのを感じた。
慎重に右足を前へ踏み出した。
「なんだこれ!?」
まるで、足の裏から地面に向かって圧縮空気が噴き出しているかのようだ。いい気分で歩幅を広げれば、歩きとは到底信じられぬ猛烈な勢いで、前から後ろへと風景が流れていく。スクーター相手に充分競争できそうだ。
そしてなにより、楽々とそれに適応してしまう動体視力と反射神経に、一郎のテンションは否応なしに上昇する。
魔法といい運動能力といい、この肉体を操る快感を覚えてしまうと、もう日本に居た頃の自分なんてミジンコ以下の存在……は言い過ぎかもしれないが、もう戻れない戻りたくない、本来の自分の取り柄の無さを痛烈に思い知らされる。
「ま、あっちはあっち、こっちはこっち、ということで」
間違って日本に戻ることがあれば、その時になってから劣化した肉体を嘆けばいいだろう。今はただ素直に現状を享受する。
昨日の魔法によって、盆地内はほぼ平坦に整地され、足下を邪魔する草木はすっかり一掃されている。一郎は何の気兼ねもなしに走り回り、新しい体の性能の把握に努めるのだった。
一回のインクリース・スピードによって持続する効果は、体感的に三○分で、Earthgald Online において熟練をMAXまで上げた時と同等の値である。攻撃系魔法と同様、熟練値による機能強化のシステムは、この世界では採用されなかったらしい。
手っ取り早く強さを求めるライトゲーマーには不評だった熟練上げだが、コツコツと単調作業を繰り返すことが苦痛ではなかった一郎には、少々物足りなさを感じる。
何回か速度アップのバフを掛け直しているうちに、外輪山の袂に到着した。
真上に太陽があるので、二、三時間は駆け回っていたことになる。息切れはしていない。額にうっすらと汗が滲んでいたが、これは日差しによるもので疲労はまったく残っていなかった。
高スペックの肉体には恐れ入るばかりだ。
もっともゲームの中では平気で二段ジャンプを駆使して建物の上に上っていたりしたし、この世界が仮にゲームに準じているとしたら、住人の身体能力も負けず劣らず凄いのだろうと想像できる。自分だけが特別なのだと判断するのはまだ早い。
休憩ついでにメールク風コカトリス定食(HP持続回復小)で昼食を済ませた。黄色に炒められたピラフは口中に頬張ればバターの濃厚な味が一杯に広がり、照り焼きの垂れっぽいものに絡められた肉は一見鶏のササミ風だが、噛めば肉汁が溢れとってもジューシーである。
「うん、グッドだ」
これだけでも、もう帰りたくない。日本のアパートでの食生活は思い返したくもない。
午後は登山の時間である。
見上げれば、断崖絶壁の急斜面が天を衝いている。
一郎の格好といえば、素手に革サンダル、薄手のチュニックにボトムズである。
何の装備もなしにロッククライミングをする気は毛頭なかった。
まず、インベントリからMPポーション(Lv.1)を一本取り出して左手に収める。ガラスの試験管にコルクの蓋、という簡単な外見で、中には青い液体が詰まっている。
なぜMPポーションはどのゲームでも青いのだろうか、などと余計なことを考えつつ、右手には天魔シリーズ・悪魔っ子の短杖(魔)を装備する。
「レビテーション!」
フワリ、と一郎の体が浮かび上がる。平均的な一戸建ての二階の窓から外を眺めるような高さ、おおよそ三メートルぐらいだろうか。
常にMPを消費しつつ空中浮遊する魔属性下級魔法だ。先ほどのインクリース・スピードと同じく、発動してしまえばバフ扱いとなり、自由に装備の持ち替えが可能である。そのため、紙防御低火力のクレリック職のレベル上げには欠かせない魔法となっていた。
遠距離攻撃を持たない物理系近接MOBに対してレビテーションで接近し、手が届かない安全な場所から一方的に狩りをする。下級の攻撃魔法しか使用できないので殲滅速度は遅いが、被弾ゼロが利点である。欠点はポーション代で赤字狩り必至なことか。
ドロップ品を回収しようとしてレビテーションを解除したらMOBに囲まれたとか、MP切れで墜落してMOBに蹂躙されて死に戻り、などはクレリック達が必ず通る道だった。
今回の登山そのものに問題はないだろう。しかし、危険な生物がどこに潜んでいるのか判らない。いずれかの攻撃手段は持つべきだろう。
左手でMPポーションを使用するので、装備できるのは短杖だ。
「しかたないか……」
魔女っ子シリーズ・リリカルステッキ(火)を取り出した。全体的にピンク色で統一され、先端のハート状のフレームの中でこれまたハート型の赤いクリスタルがクルクル回っている。このデザインがどうしても馴染めない。
できるだけ右手方向は見ないようにして……一郎は山越えを開始した。