おいでませ!!エリュセード旅館②
――エリュセード旅館・女湯。
「温泉なんて久しぶりだな~。……あ」
旅館の女湯に足を踏み入れた私は、湯船に浸かっている先客の姿を見つけた。
肩までの薄紫の髪、神秘を纏うアメジストの双眸……。
以前にも見た事のある、『彼女のもうひとつの姿』。
二十代前半程のしなやかな身体つきと、見る者を強く惹き付ける美貌……。
ガデルフォーンの女帝陛下、ディアーネスさんの姿がそこにはあった。
「ユキか。お前も来ていたのだな?」
「お久しぶりです。ディアーネスさんも旅行ですか?」
「うむ。サージェスが部下を労われと食い下がってきたのでな」
私の後ろから、お母さんとロゼリアさん、セレフィーナさんが挨拶と共に続いて入って来るのを見て、
ディアーネスさんが「お前達の所も多いな」と苦笑を漏らして、水面を揺らした。
まさかこんな所で会えるなんて、本当に奇遇だなぁ。
湯船に浸かった私は、ディアーネスさんの横に座って、闇と星屑が踊る世界へと視線を上げた。
「綺麗ですね~……。空気も美味しいし、温泉は気持ち良いし」
「ここは、エリュセードの中でも特殊な文化を持っておるからな。
全く違う世界に来たかのように新鮮さを感じられる場所だ」
「私のいた世界に似ています。この旅館や町並み……。
昔、お父さんとお母さんと泊りに行った場所に似ていて……」
確か、私が中学生の時だったかなぁ……。
お父さんとお母さんと一緒に訪れた風情のある老舗旅館。
品の良い仲居さんや女将さんに出迎えられて、広い温泉に入って……。
地球にいた頃の事を思い出すと、ほんの少し、しんみりと心に寂しさのようなものが蘇ってしまった。
「まだ……、お前の心はあちらの世界にも情を残しているのだな」
「あちらにも、大切な想い出がいっぱいありますから」
「だろうな。自身が育った場所を、縁を結んだ場所を忘れることなど、誰にも出来はせぬ」
いつもより高い目線にあるディアーネスさんの表情が、お母さんやお姉さんのようにも思えて、
その手に頭を撫でられながら、私はこくりと頷きを返した。
エリュセードに来てからずっと、私はこの世界に慣れる事に忙しくて……。
いまだに、一度もあちらの世界には帰っていない。
「あちらに渡る事は出来るのだろう?
ならば、一度くらい里帰りをしてはどうだ」
「そうですね。今度……お父さんに頼んでみます」
お父さんは異世界と地球を繋ぐ術を行使できるから、頼めばきっと連れて行ってくれるだろう。
う~ん、でも、レイフィード叔父さんが物凄く寂しがりそう……。
前にアレクさんに、一度故郷に帰ってみようかなと話した時も、
『ユキ……、ちゃんと、俺達の許に戻って来てくれるか?』
と、大型のわんちゃんに頼りなく見つめられているような錯覚を覚えて、
アレクさんの中の不安を宥めるのに一苦労した覚えがある。
カインさんに至っては、地球にまで付いて来るとか言い張ってしまうし……。
さすがに、外見の容姿が異世界全開の人達を地球に連れていくわけには……っ。
あ、でも、ご近所に住んでいる凛子さんの恋人さん、フィニーエルさんも外見が異世界っぽかった……。
あれ? もしかして……、今まで気付かなかったけれど、
「(フィニーエルさんも異世界から来た人だったりするのかなぁ)」
はにゃんと和ませる優しい雰囲気の銀髪のフィニーエルさん。
確か、ラル君っていう男の子も、同じ髪の色で……。
たま~に、凛子さんの周りで不思議な事が起こっていたような気が……。
まさか、本当に……?
ちょっと、今度地球に帰った時に聞いてみようかな。凄く気になってきた。
「ユキ、どうしたの? ぼ~っとしちゃって」
「あ、お母さん。ううん、何でもないよ。ちょっと、考え事、してただけ」
声をかけてくれたお母さんに苦笑して、今度はセレスフィーナさんの浸かっている場所へと向かった。
ロゼリアさんと何やら話している様子なんだけど、あれ? 何で二人とも自分達の胸を見下ろして溜息を吐いてるんだろう。
「あの~……、何をやってらっしゃるんですか?」
「あぁ、ユキ姫様。実は、ロゼリアと肩こりについて話をしていたのです」
「肩こり……ですか?」
「はい。私もセレスフィーナ殿も、少々胸の大きさが困り物と申しますか……。
仕事中に肩が凝ってしまうのです」
……。
お二人の胸元に視線を落とした私は、自分の胸との大きさの違いに一瞬虚しい気持ちが沸き上がってしまった。
豊かな実りを湛えたお二人のお胸は、本当に、女性の格の違いを感じるというか……。
あぁ、これが大人の女性なのかなぁ……と、レベルの違いに軽く涙腺の緩みを誘われてしまう。
「セレスフィーナさん、……胸って、どうやったら大きくなるんでしょうか」
「はい?」
「ユキ姫様、一体何を……」
一応、私にも慎ましやかな胸ならあるけれど、お二人ほど素敵なものじゃない。
ついでにいうと、私は狼王族としてはまだまだ子供なわけで、
身体の成長は、これから物凄く長い月日をかけて刻んでいかないと変化はないらしい。
つまり……、私の胸は成長しない。がっくりと項垂れている私に、ロゼリアさんがオロオロとフォローを入れてくれる。
「ユキ姫様、胸とは大きければ良いものではありません。
個人にあった形や大きさがあると申しますか、とにかく落ち込まれる必要はないかと」
「ロゼリアの言う通りです。大きくても、悩む事はありますし……。
ユキ姫様ぐらいの方が、形も良いですし、負担にもなりませんからよろしいかと」
「そ、そうでしょうか……」
気遣って言ってくれているのはわかるけれど、ごめんなさい。
今、お二人の言葉で精神に強烈なダメージがっ。
肩まで浸かって溜息を吐き出す私に、セレスフィーナさんが苦笑と共に肩に手を添えて微笑んでくれる。
「それに、ユキ姫様。次の成長期に入れば、きっと胸にも変化があるかと」
「成長期?」
「はい。ユキ姫様は、まだ狼王族としてはとても年若い状態であられます。
少年期、少女期、といったところでしょうか。
ですので、いつかもう一段階進んだ大人の状態になられれば、きっと」
確かに、それは前に説明を受けた気がする。
私は、セレスフィーナさんやロゼリアさんからすれば、狼王族としてはまだまだ子供。
だから、顔も幼めだし、身体も小柄。とてもじゃないけれど、大人の女性にはなっていない。
あと十年ぐらいしたら、大人の状態になれますよと言われたのだけど……。
「(十年……、もし、その時に全然この胸が成長していなかったら……)」
その時は、もう胸の成長は諦めなさいっていう事なのかな。
ちょっとだけ絶望的な未来を思い浮かべて、私は湯船の底へと泡を生みながら沈んでいった。
ゴポポポポポポポポポポ……。
――エリュセード旅館・温泉入り口付近。
温泉で受けてしまった地味なダメージを抱えつつ、女湯を出た私は、ある物を発見した。
冷蔵効果のある術がかかっているボックスに、『モンモーミルク』が陳列されてある。
湯上りにどうぞ、と、ポップが付けられており、どうやら無料で提供しているらしい事が見てとれた。
モンモーというのは、元いた世界に生息している牛と同じような動物の事。
つまり、それから生産されるミルクという事は……。
――スッ……。
「(毎日飲んだら、……少しは大きくなるかな)」
とりあえず二本瓶を手にとって、お母さん達の許に戻る。
「ユキ、胸の事なんて、そこまで気にしなくても良いんじゃないかしら?」
「うん、それはそうなんだけど……。ちょっと、努力してみようかな~って」
目指せ! セレスフィーナさんやロゼリアさんのようなスタイル抜群の大人の女性!!
お母さんに苦笑されながら、私はお座敷へと戻った。
異世界の動物のミルクだと思うと、もしかしたら効果が……と、期待せずにはいられない。
――エリュセード旅館・幸希達の部屋。
コトン、と、モンモーミルクの瓶を濃茶色の座卓に置くと、まだ夕食前だというのに、
私は一本蓋を開けて、一気に喉の奥へと流し込んだ。
ごくごくごく……。前にも飲んだ事があるけれど、味はまろやかな甘さをを舌へと伝え、
飲み終わった後の余韻は、すっきり爽やか。
これなら毎日飲んでも、きっと飽きる事はないだろう。
ウォルヴァンシアに帰ったら、料理長さんにこっそり私の朝食にモンモーミルクを追加して貰えるように頼んでみよう。
「……ふぅ」
「お前、何やってんだ?」
座卓の前で真剣にモンモーミルク大作戦を思案していた私のすぐ傍で、
いつの間に起きたのか、カインさんが座卓に頬杖を着いて私を観察していた。
ど、どうしよう……っ。まさか、胸を大きくする為に飲んでたなんて、気付かれてない……よね?
「お風呂上がりには、やっぱり『モンモーミルク』だと思うんです!
だから、下の階で貰って来たんですよ!!」
「ふぅん……。それにしては、やけにマジな顔して飲んでたよな?」
ダラダラダラダラ……!!
温泉に入ったばかりだというのに、何、この背中に伝い落ちる嫌な汗は!!
というか、バレてる!? バレているの!?
カインさんの探るような声音が、心臓に悪いっ。
――コトン。
冷汗と共に、どう誤魔化そうか考えていると、ふいに座卓の上に『モンモーミルク』の瓶がひとつ置かれた。
振り向くと、アレクさんが何故か頬を染めて私の隣に座った。
……えーと、これは一体、……どういう意味なのかな?
「ユキ、その……、焦る事はないと思うんだが、
お前の力になれるなら……、これを飲んでくれ」
「……」
明らかに事情を知っていますというような表情と発言をされてしまった……。
もしかして……、女湯での会話が、男湯に漏れてた、なんて事……。
――コトン。
――コトン、コトン。
私の背後から伸びて来た二つの腕が、何故かまた『モンモーミルク』を何本か座卓の上に置いていく。
今度は誰が……? と背後を振り返ると、まさかのガデルフォーン騎士団長サージェスさんと、
ルイヴェルさんが腕を伸ばしていた……。
そういえば、ディアーネスさんに旅行を強請ったのは、確かサージェスさんだったはずだ。
だから、ルイヴェルさんとどこかで出くわして、一緒にやって来たんだろうな。
それはさておき、何故お二人共『モンモーミルク』を私に差し入れるんですか!!
嫌な予感がダラダラと背中に伝い落ちていく。
「ユキちゃん、努力は大事だけど、そんなに気にしなくてもいいと思うよ?」
「ユキ、飲み過ぎるなよ。腹を壊したら元も子もないからな。
それと、悩みすぎる前に相談に来い」
――スタスタスタスタ……。
大人男性二人組は、物凄くわかりやすい言葉を残して向こう側へと行ってしまった……。
目の前には、私が持って来た瓶と、アレクさんが差し入れてくれた瓶が一本。
そして、今新たに加わった瓶を含めて、合計五本……。
あの二人……、絶対に女湯の会話を聞いてた!! 盗み聞きしてた!!
「ううっ……、どうして聞こえちゃってるの……!!」
「ユキ、大丈夫か? どこか具合でも……」
あぁ、アレクさんの優しさが心に痛い……。
サージェスさんとルイヴェルさん同様に、きっとアレクさんも私の事情を察しているんだろう。
胸が……慎ましやかな事を悩んでいると……。
このまま消えたいなぁ……、もう砂になって風に吹かれて消えてしまいたいなぁ……。
「なるほどな。無駄な努力をしようとし始めたってわけか?」
「ユキの涙ぐましい努力を馬鹿にするな。
目標に向かって頑張ろうとするユキは、何よりも輝いている」
カインさんの呆れた声音に、アレクさんがすかさず私を庇う発言をしてくれているけれど、
出来ればもう何も言わないでくれないかなぁ……。
とっても嬉しいのだけど、今は素直に喜べない……。
私は意気消沈した顔で座卓を見遣ると、モンモーミルクをもう一瓶手にとって蓋を開けた。
こうなったら……、自棄酒ならぬ、自棄モンモーミルクに溺れる事にしよう。
全部で五本、飲めない本数じゃない。
もう全てを忘れる為に、全力で飲み干してみせるっ。
――ごくごくごくごくごく。
――ダンッ!!
「ゆ、ユキ……、もう少しゆっくり……」
「目的がバレて自棄になっちまってるな……。
おい、ユキ。少し加減して……あ」
二本目の蓋を開けて、それを一気に飲み干した私は、舌に沁み込んだ感触に目を見開いた。
何……、今まで呑んだミルクと味が違う。なんか、フルーツの味がするというか、
でも、それだけじゃなくて……。
身体がカッと熱くなるこの感覚は……、まさかっ。
――ガタンッ!! コロコロ……。
目の前が、……グラグラ回っていく。
アレクさんの腕の中に倒れ込んでしまった私は、畳の上に転がった瓶に視線を向ける。
これ……、もしかして……。お……さ……け。
「ユキ!! ユキ!!」
「おいっ、大丈夫か!! って、すげぇ顔真っ赤じゃねぇか!!」
「一体何故……、ん?」
「どうした?」
「……『モンモーミルク・フルーツカクテル味』」
私が目を回して意識を失った後、瓶を手に固まってしまった二人の姿が……。
ど、どうしてミルクを飲んでいたはずなのに……、アルコール成分入りのミルクが……。
それから私は、アレクさんとカインさんの手によって、手厚く介抱されるのでありました。
ううっ、二人共……、迷惑をかけて本当にごめんなさい。
続きはまだ執筆が完了しておりません。
申し訳ありませんが、もう暫くお待ちくださいませ。