75. 私があなたを好きになったワケ
旧WIZMプロダクション。狭いオフィスの一角では、新入社員のカメラマンアシスタントの木田俊二君が、大きなジュラルミンケースにカメラレンズやら専用の道具を詰め込んでいる。
「えっと……一応、予備でこっちも持っていこう」
自作の準備リストで何度も確認する姿は、とても初々しい。
そんな俊二君を横目で見つつ、私・牧美里は今日も受付に座りながら事務仕事をこなしていた。
今日の事務所は静かで、モデルたちもこの時間は撮影だし、社長は外回り、鷹緒さんは出ずっぱり、彰良さんは奥で黙々と作業しているので、ゴソゴソしている俊二君以外は、私のペン先から字を書く音しか聞こえない。
「トイレ行ってこよう……」
ぼそっと呟く俊二君は、共同トイレに向かい廊下へと出ていった。
本当に静かになった事務所で、私はふと振り向く。近くにあるベンチには、俊二君が用意したジュラルミンケースとボストンバッグが置かれている。今日は鷹緒さんが別現場から撮影に入るので、機材だけは俊二君が持って行くことになっている。
この春に入社した俊二君は頑張り屋さんだ。でもちょっと抜けているところがあって、もう一通りアシスタントの仕事は覚えているはずなのに、緊張して遅刻したり忘れ物をしたりと後を絶たないのが残念なところ。
「うわっ!」
その時、そんな声がして入口を見やると、ドアの段差でつまずいて転ぶ俊二君がいた。
「だ、大丈夫?」
「は、はい」
「もう。危なっかしいなあ……」
「すみません。あ、もうこんな時間だ。行かなくちゃ!」
「うん。気をつけてね」
俊二君は確かにすべての荷物を持つと、足早に事務所を出ていった。
荷物も持ってたし、時間も間に合うだろうし、今日は大丈夫そうね……と思いながら、私はパソコン画面を見つめて集中する。
すると、息を切らせた俊二君が戻ってきた。
「俊二君?」
「わ、忘れ物を……自分の荷物忘れちゃって……」
「あらら。気をつけて」
「はい!」
俊二君は奥へ入っていくと、すぐに戻って外へと飛び出していった。
「今度こそ行ってきます!」
声だけが残って風のように去っていった彼を尻目に、私は集中の糸を切らせずにパソコン画面を見つめる。誤入力が怖いので、この手の仕事の時は他のことを考えたくはない。
それからしばらくして、私は休憩のためにパソコンから目を逸らした。すると、ふと違和感があって振り返る。そこにはあるはずのない大きなバッグが二つある。
「え、ええ? 嘘!」
あまりの驚きように、彰良さんが奥から顔を覗かせた。
「ん? どうした?」
「俊二君が用意したはずの機材がここに……」
「はあ? あいつ、また忘れたのか……」
「そんな。さっき持って出たの見ましたよ。あ、忘れ物取りに来た時に……?」
「マジかよ。抜けてんなあ……」
彰良さんと同時に時計を見ると、鷹緒さんがスタジオに到着する時間までもう時間がない。
「仕方ないな……今から俊二呼び寄せても遅刻だろ。俺、行こうか」
そう言うものの、彰良さんは渋い顔で頭を掻いている。それもそのはず、彰良さんは今抱えている仕事で手一杯なのはよくわかっていた。
「いえ、私が行きます。少しの間だけ事務所番お願いしていいですか」
「それはいいけど、この量だぞ」
「でも時間に余裕があるのは私だけだし。行ってきます」
「じゃあ、頼むな」
私は頷くと、二つのバッグを持ち上げる。持った瞬間に後悔するような重さだったけど、事務所の信用問題……ひいては新人である俊二君のためにも出来るだけフォローしたいと思って、私はそのまま事務所を飛び出していった。
その夜。なんとか仕事は間に合い、鷹緒さんにもお咎めなしで首の皮一枚繋がった俊二君は、罪滅ぼしに私を飲みに誘ってくれた。安い居酒屋のカウンター席だけど、先輩として受けてあげたいと思った。
でも、隣に座っている俊二君は、見ていられないほど落ち込んでいる。もう……しっかりしなさいよ。そんな思いを込めて、私は俊二君の背中を思いきり叩いた。
「いって……!」
そう言いながらも、私の喝に応えるように一気飲みする俊二君を見て、姉のような母のような視点から見ていた私は、初めて心ときめていた。
会計時。あたふたとペタンコの財布を出す俊二君に、私は割り勘分のお金を差し出した。
「いや、いいっスよ」
彼の思いやプライドはひしひしと伝わってくるけれど、まだ新人で安月給の彼が給料日前でカツカツの生活を送っていることは、ここ数日の言動でわかっている。本当は奢っても良かったのだけれど、そこまで彼を貶めることはないだろう。
「気持ちはわかるけど、今日は割り勘にさせて。私も新人に奢らせたら、事務所のみんなに怒られちゃう」
「牧さん……」
肩を落とす俊二君を尻目に、私は先に店を出た。
「すみません。本当に……俺……」
後から出てくる俊二君は、本当に申し訳なさそうに俯いている。
「私こそごめんね。素直に甘えられなくて……でも、またの機会にごちそうにならせてよ」
「はい! じゃあ、せめて駅まで送らせてください」
「でも俊二君、反対方向じゃない」
「それでも男の役目ですから」
粋がる姿が可愛らしくて、私は無言のまま微笑んで歩き出す。その一歩後ろを歩く俊二君は、真剣な顔をして私を見つめていた。
「俊二君?」
「いや……本当に情けないなと思って」
「もう。それ以上言ったら怒るよ? さっきからずっと辛気くさい顔しちゃって」
「辛気くさいって……」
苦笑しながら、俊二君はそっと私の横に追いついて歩調を合わせてくる。
そのまま私たちは、一言も会話を交わすことなく駅に着いてしまった。
「じゃあ、ここで……送ってくれてありがとう」
私が言うと、俊二君は言葉を探すように瞳を揺らした。
「あ……ありがとうございました! 今日はすごく勇気づけられて……俺、絶対に挽回しますから。だから牧ちゃん……」
そう言ったところで、俊二君はでハッとした顔を見せる。
「す、すみません。肝心なところで先輩をちゃん付けしちゃうなんて……」
俊二君以外の社員は、みんな私をちゃん付けするからだろう。今日だけでなく、俊二君がたまに思わず私をそう呼ぶことは知っていた。
「そんなに年も違わないし、気にせず呼んで?」
私も少し意識しだしていて、余裕ぶってそう言ってみる。すると、俊二君の顔は真っ赤になっていた。
「じゃ、じゃあ、牧ちゃん……」
「……はい」
「えっと……何話してたんだっけ」
相変わらずの俊二君に、私は軽く吹き出してしまった。
「ふふっ。無理に思い出さなくていいよ。明日も早いんでしょ。おつかれさま」
「あ、これだけは……」
早く緊張から解放してあげようと背を向ける私を、俊二君が引き止める。
「うん?」
「ありがとう。ま、牧ちゃん……いつか牧ちゃんが困った時には、必ず助けるから……世界中で誰が敵になっても、僕だけは味方でいるから。そんなことしか出来ないけど……」
告白の雰囲気だったけどそうではなかった。それでも私にとっては告白よりも嬉しい言葉だった。
「ありがとう、俊二君。本当に嬉しい言葉だわ……じゃあ、また明日ね!」
火照る顔を隠すように、私は改札を抜けていく。ふと振り返ると、俊二君はまだ手を振っていた。彼の顔もまた、お酒のせいもあってか真っ赤になっている。
「おやすみ! 牧ちゃん」
背中にそう言われて、私は笑みを零して去っていった。
私たちが恋人になるのは、それからもう少し後の話――。
「牧視点も読みたい」という、リクエストに応えさせていただきました。リクエストありがとうございました☆