72. 麻衣子の秘めたる胸の内
最初の夢はタレントだった。何がしたいわけじゃない。ただ目立つのが好き……そんな感じ。それは親の影響もあって、モデルのオーディションに応募したのは母だった。
「原田麻衣子さん」
自分の名前を言われ、私の背中がぴしっと伸びる。
「……以上、名前を呼ばれた人だけ残ってください。あとの方はお疲れ様でした」
オーディションはとんとん拍子で受かり、私は中学生向けの雑誌に出ることになる。
「今日も諸星さん、超カッコイイ!」
撮影の合間にモデルたちからそんな声が聞こえる。
カメラマンの諸星鷹緒氏は、確かに格好が良い。ただ最初の頃の私は、諸星さんが苦手だった。スタッフに怒ってる姿を見たこともあったし、いつも不機嫌そうに煙草を吸って、眼鏡と前髪で表情が見えないところが謎……それでもイケメンなのはわかるけど、みんなどこを見て好きとか言えるのかと思ってしまう。
まあたぶん、あの頃の私は大人の男性の魅力がわかっていなかったのかもしれない。でも諸星さんにしても社長にしても、イケメン社員のいる事務所に所属出来たことは、当時から優越感があった。
仕事は順調だった。高校に入学すると仕事量も急激に増えて、同年代ではトップクラスなんだって自分でも実感出来るほど。
「あれ?」
ある日、私が地下スタジオに行くと、鍵は開いていても中は真っ暗だった。
「ん? どうした?」
奥から煙草を咥えて出てきたのは、諸星さんである。スタジオの一角は煙草の煙でもくもくしてる。
「撮影……四時集合じゃなかったでしたっけ?」
「ここで? 聞いてないけど」
「嘘……」
私は焦って手帳を開いた。するとそこには別のスタジオの名前が書かれている。ただの私の勘違い。
「どうしよう! 港スタジオだ……間違えた!」
その日に限って、電車を乗り継ぐ上に駅から遠いスタジオ。あと三十分ではとても間に合わない。
顔面蒼白になった私の頭を、諸星さんがポンと叩いた。
「港スタジオ?」
「は、はい……」
「ちょっと待って」
「え?」
諸星さんは急に足早になって奥へ入っていくと、煙草をもみ消して携帯電話を手に取っている。
「あ、諸星ですけど……おまえ、今どこ? ああ、じゃあそのまま地下スタ来て。緊急事態。大至急な」
言葉少なく電話で会話をして、諸星さんはジャケットと煙草を掴んでスタジオの出入口へと向かっていく。
「すぐ出るぞ」
「え……」
「車なら間に合うかもしれないから送るよ」
有り難い言葉に、私は諸星さんについていく。するとスタジオの前に車が止まっていた。それに乗っていたのは社長だ。
「後ろに乗って」
諸星さんにそう言われ、私は車の後部座席へ乗り、諸星さんは助手席に乗る。
「何事?」
状況を把握出来ていない社長が尋ねると、諸星さんは人差し指を前へ突き出す。
「とにかく出して。港スタジオまで」
「そうか! なんで麻衣子ちゃんがここにいるのかと思った。間に合うかな……」
「極力間に合わせんだよ。次の信号を左な」
私を見て悟った様子の社長に、諸星さんは道の指示をしている。私は申し訳なくて身を縮めた。
「ごめんなさい……」
「たまにはあるよ。今後気をつければいいし、とにかく今日はこれからなんだ。引きずるなよ」
か細くなった私の声にも、諸星さんはそう言ってくれる。それに続いて社長が口を開いた。
「まあ、タイミングはよかったよね。僕がたまたま鷹緒の車借りて出かけて、ちょうど帰ってきたところなんだから」
「あ、おまえの予定は大丈夫か? なんなら、おまえ降ろして俺が連れてくけど」
「こんなところで降ろされてもね……大丈夫だよ。逆におまえ降ろしてもいいけど」
「いや、行くよ……あ、次の交差点右で、すぐ左な」
「裏街道まっしぐらだな」
「一応、地元なんで」
そんな二人の会話などまるで入らず、私はやらかしてしまった自分を悔いていた。その間も裏道ばかり通るものだから、私はすぐにどこにいるのかわからなくなってしまっている。
すると、諸星さんが携帯電話を取り出して耳にあてた。
「あ、牧? 諸星ですけど……うん。今、社長と原田麻衣子と一緒に港スタジオに車で向かってる。集合時間ちょっと遅れるかもしれないから、先方に連絡しておいてくれる? 悪いな」
会社宛てに用件だけの電話を終えると、諸星さんは私に振り向いた。
「あんまり気にするなよ。事務所から連絡させたし、社長と俺が行くんだ。大丈夫だよ」
「そうそう。反省さえしてくれれば、今日の件はすっかり忘れましょう」
続けて言った社長にも、私は大きく頷いた。
「すみません! ありがとうございます」
ありがたくも申し訳なくも思いながら、なんで諸星さんを怖いとか嫌いだとか思ってしまっていたんだろうと、自分にも驚いた。
「あれ? 諸星さん。今日は来られないはずじゃ……」
「すみません。僕はすぐ出ますが、モデルを会社でまごつかせてしまったので、予定変更して送り届けました」
集合時間の数分遅れでスタジオに着いた私と一緒に、諸星さんは謝ってくれた。しかも私のせいにはせずに。ちなみに社長が出てきてはやりすぎだと、社長は車で待っている。
また後で知った話によると、その現場は諸星さんにオファーが来ていたのを断っていた現場だったらしく、立場上そこにいてはまずい状況だったにも関わらず、一緒についてきてくれたそうだ。そう聞いてしまっては、もうこの人から目が離せない。
「遅くなってすみませんでした!」
同じく頭を下げる私に、先方は気に留めた様子はないみたい。
「大丈夫ですよ。三十分や一時間遅れたわけでなし。よろしくお願いします」
言われてやっとホッとした私は、諸星さんを見上げた。
「すぐに支度して」
「はい! ありがとうございました」
お礼を言って、私は挽回すべく楽屋へと走っていく。振り返ると、足早に出て行く諸星さんの後ろ姿が見えた。
好きかもしれない――。
他の子と同じように、憧れとしての要素も大きかったけど、その時から私の諸星さんに対する見方は百八十度変わった気がする。
だけど残念ながらその日から、私と諸星さんがきちんと話すチャンスはほとんどなく、ただ遠くから眺めているだけの日々となる。
それでもいつか、気持ちを伝えるんだ……と決めていたけれど、この恋が叶わないということは、後に親友になる沙織に教えられたという、私のちょっぴり切ない物語なのでした。