71. 可愛い人
夕方。仕事が早く終わった沙織は、喫茶店に入るなり携帯電話を取り出した。
(仕事終わっちゃった。今日も会えないかなあ?)
そんな文章を送った相手は、もちろん鷹緒である。最近二人でゆっくりという時間はまったくない。
少しすると、珍しく返信が来た。
『今日は会議があるけど、そんなに遅くならないと思う。家に来る?』
そんな返信に、沙織の顔が明るくなる。
(うん、行く! ごはん作るね)
『じゃあ、家で待ってて』
「やっと会える……」
沙織の鼓動が途端に早くなった。
夜。鷹緒は会議が終わるなり立ち上がった。
「鷹緒。夕飯一緒に食わない?」
広樹の誘いに、鷹緒は片手を顔の前に持っていく。
「悪い。今日は帰る」
「そうか。じゃあこれ、宿題」
言いながら広樹が差し出したのは、クリアファイルに入った企画書だ。
「……鬼社長」
「急ぎじゃないけど、ご検討ください」
「了解。じゃあ、お先――」
そのまま鷹緒は、自宅マンションへと帰っていった。
自宅のドアを開けると、リビングからは明かりが漏れている。だが、中はとても静かで、沙織の姿はない。
「ん?」
部屋の中を見回すと、ソファの影から足が見えた。覗き込むと、沙織がソファで横になって寝息を立てている。
鷹緒はそれを見ると、静かに微笑んだ。ずっと見ていられそうなくらい可愛い寝顔である。
起こすべきか、寝かせるべきか……そう考えながらキッチンへ行くと、鍋の中にはビーフシチューがあり、炊飯器には炊きたてのごはんがある。
「うん、うまい」
ひと舐めしたところで、またつまみ食いしたと叱られると思い、冷蔵庫からビールを取り出すと、もう一度沙織のそばに向かった。
沙織が起きる気配はない。鷹緒はソファの肘掛けに座ると、沙織の柔らかな頬をつまんだ。
「んっ……?」
「寝るならベッド行けよ」
「あっ、鷹緒さん……やだ。寝ちゃってた……」
起きながらすかさず髪を整える沙織を横目に、鷹緒はビールに口をつける。
「疲れてんだろ。メシは先に食ったの? だったら俺一人でやるから先に寝てていいよ」
「ううん。一緒に食べる。待ってて」
そう言うと、沙織はキッチンへ走って行き、料理を盛って戻ってきた。
短い間でも、鷹緒は煙草に火をつけ、テレビを見ながらくつろいでいる。
「今日はビーフシチューです」
「ありがとう。いただきます」
「めしあがれ」
二人は同時に食事を始めると、やがてどちらからともなく口を開いた。
「久しぶりだな」
「久しぶりだね」
同時に言ったお互いに微笑み合うと、もう一度鷹緒は口を開いた。
「ごめんな。最近、拘束時間長い現場ばっかで……」
「ううん。私も地方ロケとかあったし……時間合わないのはしょうがないよ」
寂しいけれど成長したとも取れる沙織に、鷹緒はそっと頷く。
「まあでも、今日は時間合ってよかったな」
「うん。ほんとに……」
久々でお互いになんとなくぎこちないながらも、逆にいつも新鮮な気持ちで会える気がした。その証拠に、二人の鼓動は互いに早い。
食事を終えると、早々に片付けを始める沙織の腕を鷹緒が掴んだ。
「え?」
「いいよ。片付けなんて後で……」
「でも、早く片付けないと汚れ取れないし。残った料理も出しっぱなしだから、早く冷蔵庫に入れないと」
きょとんとしながらキッチンへ向かう沙織に、鷹緒は切なげな顔で笑う。
「おあずけか……」
その声は、洗い物を始めた沙織には届かない。
鷹緒は立ち上がると、バスルームの電気をつけた。
「じゃあ俺、シャワー浴びてくる」
「うん。あ、お風呂入れておいたよ。先に私も入っちゃった」
「ん」
気が利くなと思いながら、鷹緒はバスルームへと入っていく。バスタブから見える夜景を見つめても、沙織のことしか浮かばない。
「反則……だよなあ」
子供のようで大人で、大人なのに無防備で、いろいろな感情が交ざっても、可愛いとしか言葉が出てこない。
鷹緒は不純な気持ちを取り払うようにシャワーを浴びると、リビングへと戻っていった。
リビングでは沙織がテレビを見ていて、戻ってきた鷹緒に笑顔で振り向く。
「鷹緒さん。今、テレビに綾也香ちゃん出てたよ」
大先輩とはいえ、同事務所のモデル仲間が活躍している姿を見て、沙織が嬉しそうにそう言った。
「ふうん?」
沙織の横に座りながら、鷹緒はすかさず煙草を咥える。
「もう。せっかくお風呂入ったばっかりなのに……」
そう言われて、鷹緒は煙草を戻す。
「クサイ男は嫌?」
「それは嫌かも……」
軽く息を吐いて、鷹緒は手持ち無沙汰の手を沙織の肩に回した。
「……最近はどう?」
定番の質問をぶつけられて、沙織は天井を見上げる。
「うーん。特に代わり映えはないけど……あ、この間、麻衣子と一緒にロケに遅刻しそうになって大変だったよ。結果的に間に合ったけど……最近、電車よく遅れるから気をつけてる」
「へえ」
「あとはね、後輩の子が足滑らせて、ランウェイで転びそうになっちゃったり! 鷹緒さんは?」
「俺は……撮影、撮影、事務所仕事の繰り返し」
「それはいつもと一緒だね……」
苦笑する沙織の横顔に、鷹緒は微笑みかける。
「あとは誰かさんの呟き見て、誰かさんが報告してくれて、誰かさんに会いに行ったりしたな」
先日の出来事を思い出して、沙織は顔を上げた。
「そうだ。ちょっとだけ鷹緒さんに会ったんだった」
「まあ、食後のコーヒー飲みにな」
「ほんのちょっとだけだったけど嬉しかったよ。びっくりしたけど良いびっくり」
少しでも会いに来てくれた鷹緒に、沙織はその時のことを思い出して嬉しさを隠しきれない。
「最近、会えてなかったし……俺も会いたかったし」
「私も……なんか自分が嫌になってたの。スタッフさんの呟き見ながら、鷹緒さんが何してるか想像しちゃったり」
「なんだよ、それ?」
「時々、スタッフさんの写真に写ってたりするから……ああ、今から休憩なんだとか、今終わったんだなとか……」
それを聞いて鷹緒は苦笑するが、沙織はいけないことをしたと寂しげに顔を背けている。
そんな沙織を引き寄せると、顔を上げた沙織に鷹緒の顔が近付いた。やがて二人の唇が触れ合う。
「待って……」
心の準備が出来ていなかった沙織は、突然のことでとっさにそう言った。
だが、鷹緒はまるで止める気もないように、そのままソファに沙織を押し倒す。
「やだよ。今日はもう、おあずけくらわないからな」
「え? おあずけ……?」
訳が分からないままキスを重ねられ、強ばった沙織の身体から力が抜けていく。
「鷹緒さん……」
熱っぽくそう呼ぶ沙織を見て、鷹緒は顔を背けた。
「だから……それが反則だっつの!」
「ええ?」
「ったく……」
ぶつぶつ言いながら、鷹緒は沙織から離れて立ち上がる。
「鷹緒さん……?」
離れていった寂しさに、沙織は鷹緒の腕を掴んだ。鷹緒はその掴まれた腕を上げて、沙織を立たせる。
「寝るぞ」
「う、うん……」
沙織の目に、照れたような鷹緒の横顔が映った。それを見て、沙織の顔も赤くなる。
二人はそのまま寝室へと向かっていった。