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69. 真夜中のピエロ

→ FLASH本編 No.61「水と油」より リンク

「鷹緒……鷹緒ったら!」

 懐かしいまでのその声にふと目を覚ますと、そこに理恵がいた。

 ええと、俺は何をしてたんだっけ……たった今まで彼女の夢を見ていたものだから、まさかあの頃に戻ったのかと錯覚したものの、そこが地下のスタジオだということに気付き、さっきまで仕事していたんだと眠気眼でも瞬時に理解出来た。

「なんだよ。びっくりさせんなよ……」

「何が仕事よ。眠ってたじゃない」

「そうか……?」

 眠い目を擦りながら、俺は大きなあくびをする。

 さっき職場で別れたばかりだが、今日は理恵にとって特別な日だったはずだ。やっと豪が戻ってきて、娘の恵美にも本当の父親に会わせた。少なからず幸せだろうし、離れていた時間を埋めるように、きっとたくさん話しただろう。

 娘の恵美にとっては、俺はようやくこれでお役御免なんだろうと思うと、異常なまでに悲しかった。

「……今、何時?」

「二十三時半……」

 それを聞いて、これから聞きたくない話でもあるのだと身構えてみても、ここから逃げ出せるはずもなく、また浮かない顔のこいつを置き去りにして、出て行けるはずもないと腹を括った。

「どうしたの? あいつは……」

 そう言ったところで豪の顔を思い出し、嫌な気分になって言い直す。

「……恵美は?」

「うん……もう帰ったわ」

 聞きたくないのに尋ねてやっても、言いづらいようでその先の言葉が出ないらしい。

 何を言おうとしてる? 見つめれば見つめるほど遠くなるような、それでいて離したくないような、おまえはそんな微妙な距離で、いつも俺のギリギリ手の届かないところにいる。

「……それで、なに?」

 早く言ってくれ。この沈黙から逃げ出したいが、俺には大よそ話の内容は予想出来ていた。

「私ね、どうしたらいいのかわからなくて……鷹緒とは終わったってわかってる。だけど職場が一緒だし、恵美のこともずっと気にかけてくれてて嬉しかった。それで……」

 やっぱり聞きたくない。いや、ただじっと座ったまま聞くことが出来なくて、俺は思わず椅子から立ち上がった。

「鷹緒……」

「おまえさあ……それ、どういうつもりで言ってんの?」

 馬鹿な女だと思った。そんな自分が一番馬鹿だとわかっていても、思わずにはいられない。

 本当はおまえにもわかってるくせに。自分の気持ちも、自分の居場所も。おまえはわかってるはずなのに、どうしてここへ来た? それともほんの少しでもまだ俺に気持ちが残っていて、俺が折れればおまえは戻って来るとでもいうのか。

 そう考えたところで、空しくなってやめた。

「俺にどうして欲しいんだ? 告白か、後悔か? もう一度つき合うつもりか? 恵美を引き取って欲しいのか? おまえにわからない気持ちが、俺にわかるわけないだろ」

 俺自身もぐちゃぐちゃの頭でそう言ったところで、俺はひとつの答えに行き当たっていた。

 ここに来たのは、おまえの心は俺じゃないと、自分で気付くためなんだよな……?

 そこで俺のほうが、よっぽどおまえに執着していたのだと悟った。だけどおまえにとっての俺は、本当におまえのことを吹っ切っているとでも思っているのか、残酷なまでに無防備を晒す。いや吹っ切っていたところで、おまえとよりを戻すなんてことはあり得ないのだけれど……こう考えている時点で、やはり俺のほうが執着しているみたいだ。

「……ごめん。どうかしてたね、私……」

 謝った理恵に、途端に血が上った。

「違う! 俺はおまえと別れたからって、おまえのことをないがしろにするつもりはないし、避けるつもりもねえよ。おまえの強いところも、弱い部分も知ってるつもりだ。だから、おまえが困った時や、恵美が呼んだら駆けつける。だからおまえも、少しは素直になれよ! おまえがフラフラしてたんじゃ、俺だって……どこへも行けなくなるだろう?」

「鷹緒……」

 情けない心の声が漏れてしまったかのようだ。

 心のどこかで、まだその細い糸を断ち切りたくない自分がいる。変に優しくして、付かず離れず接して、あわよくば何もなかった付き合う前に戻れたらって……いつまでも俺がそんな態度だったから、だからおまえは変に居場所を見失ってるんだな。

 それはそうだ……おまえはいつでも、俺に負い目を感じている。

「ごめんね……こんな話、鷹緒にするべきじゃないってわかってたんだけど、他に言える人いなくて……」

「それはどうでもいいよ……」

 出てくるのは、溜息ばかりだ。

 おまえは下手に優しくて、下手に残酷だ。俺のことなんて考えてなどくれなければ、今更お互いに傷つくことなんてなかったのに……。

 俺たちはもう、あの頃に戻ることも新しく始めることも出来ない。別れてるのに、これ以上してやれることはないはずなのに、おまえはここにいる。それはもうすなわち、よっぽど俺に罪悪感があるのか、我を失っているのか、そんなおまえを前にして俺に残された道などほとんどない。

「……わかってる」

 押し黙った理恵を尻目に、気分転換に煙草に火をつけてみた。だが理恵はそれ以上、何も言わない。水と油だな……誰かが俺たちを例えた言葉を思い出した。

「……水と油だね。いつまで経っても、私たち……」

 皮肉にも同じことを思っていたことに、苦笑した。

 わかってる。本当はそんなんじゃなくて、お互い似過ぎていて交われないってこと。だから一歩も引けなくなるんだ。

「……そうかもな」

 もうわかったよ。俺たちが相交わることはない。数年ぶりにそれを再認識させて、これ以上俺に何を望む。そんなに俺はまだおまえを縛ってるのか? それともまだおまえは気付かないふりをするのか?

「……理恵」

「鷹緒」

 避けるように言った理恵に、俺は一瞬で最終宣告を受ける心の準備をした。

「私……私ね、やっぱり豪が好きなの……」

 わかってる。わかってるよ……。

「好きで好きで仕方がないのよ……忘れようとしても、全然忘れられなかった。それどころか日増しに想いが強くなる……こんなこと、鷹緒に話すことじゃないってわかってる。だけど怖いの……このまま豪を好きでいていいのか。このままじゃ私、おかしくなりそうで……」

 それでいいんだ。俺は知ってたし理解してるよ。それなのに、どうしておまえは泣くんだ。俺の腕まで掴んで、おまえは俺にどうしてほしいんだ?

 確かに豪には不安なところがある。手放しで行けないかもな……だけどあいつは帰って来た。俺に殴られに来た。時間はかかったけど、あいつの覚悟がいやらしいくらいに見えるのが、おまえにだってわかるだろう?

 それともおまえは、俺にもっと残酷なことでも望んでいるのか。俺があいつを説き伏せれば満足か? それともあいつを挑発でもして、逆に俺が殴られれば気が済むか? 本当に望むならしてやってもいい。だけどその時は……永久に俺の前から消えてくれよ。

 出来もしないことを考えながら、俺は煙草の火を消して、泣きながら俯く理恵を観察するように見つめた。

「……理恵?」

 心が死ぬとしたら今かもしれない。それくらい、俺の心は締め付けられるように悲鳴を上げている。

 ひどい女だ――。これ以上、俺に惨めな思いをさせるというのか。

 わかってるって言っただろう。許したって言っただろう。それなのに、どうしておまえはまだ俺に縛られている。

 もう、どうにでもなればいい――。

「……」

 泣いている理恵の手を掴んで、荒々しくキスしてみた。そのままテーブルに押し倒す。

 人形のように抵抗もせず受け入れもしない理恵に、俺は空しさを倍増させた。

 無意識にサディスティックな快感でも得ているように、おまえは俺の凶暴性を待ってる。いっそそれに乗って、おまえを傷つけられたらどれだけ楽か……。

 どこまでやればいい? どこまでやらせるつもりだ? はだけた服から、痛々しいまでに白く細い理恵の肌が見える。

 なぜ止めない。おまえはそこまで俺に負い目があるのか。馬鹿にするな。おまえの心に、俺なんか一ミリだって残っていないというのに――。

 なんでだよ。最初はおまえのほうから俺を好きだって言ったじゃないか。どこで間違ったんだ。どうすればよかったっていうんだ。愛してるって囁けば満足したのか? 泣いてすがれば戻って来たのか? それともバイオレンスに殴りつければ、おまえの抱える罪悪感がすべて拭い去られたのか?

 自分の考えが合ってるなんて少しも思わないから、答えがわからないからおまえを許したはずなのに、おまえはそれさえもわからないと言う。

 情けないほど溢れる思いに、まるで客寄せピエロに自分を重ねて、空しすぎて泣けてきた。

「っ……」

 やっと我に返ったのか、理恵は顔を背けた。

 でももう遅い……おまえなんかズタズタに引き裂いて、傷付けばいい。豪のところにも何処にもいけなくなるくらい、めちゃくちゃにしてやろうか――。

「やっ……嫌だ!」

 理恵はそう言って、俺を突き飛ばして起き上がった。その拍子に、理恵の長い爪が俺の頬に痛みを与える。

 はあ……ここまでやらないとわからないような、馬鹿な女だったのか? それとも俺に少しでも気があるとでも言うなら立派だが……。

 なあ理恵? 拒まれるのがわかっていてここまでしてやった俺の気持ちを、少しでもわかってくれる? それかいっそ、そんなことしか思いつかなかった俺を嘲笑ってくれよ。

 それもまた無理で、おまえという女を愛した元夫の務めなら、最後までやってやるよ。

「ご、ごめん……」

 そう謝られても、頬の痛みより心の痛みのほうが辛い。でもこれで正気に戻ったのは俺だけじゃないだろう。

「……もう帰れよ」

「血が出てる……」

 もう何も言うな。勘弁してくれ。さすがにおまえもわかっただろ? 俺はおまえをどうとでも傷つけられるし、憎んでるし、性欲処理として見られるくらいなんとも思ってないんだよ。いい加減、気付け!

 気持ちとは裏腹に、俺の心が情けないほど切なく痛む。

 不甲斐なくてごめんな……もう何もいらないから、おまえを上手く愛せなかった俺を許してくれよ。もう振り返らなくていいから……豪のところへ行けよ。

 もしおまえがいい女なら、俺が他の男のところに行くおまえに未練を残させないためにここへ来て、わざと俺を怒らせたのかな……なんて思うけど、今はそんなことまで考えたくなかった。

「帰れ。俺はもう、おまえの顔なんて見たくないんだよ……!」

 いつか同じセリフを言った気がするなと、あの頃から少しも成長出来ていない自分に気付きつつ、俺は理恵に背を向けた。

 もう俺のプライドなんてないに等しいくらいズタボロで、本当に泣き出しそうなくらい情けない顔だったと思う。

「ごめん。ごめんね……」

 そう言うと、理恵はそのまま去っていった。

 ひどい……ひどい女だ、まったく――。

 キスの感触が忘れられなくて、そっと唇に指を触れてみた。何年振りだよと思い出せば笑えてくる。あいつが恵美を身ごもってよりを戻した後も、一度だって手を触れることすら出来なかったくせに――。

 だって出来るわけがない。あいつは俺にとって、一番遠い女性になってしまったのだから……あの時はまだ夫婦だったから、俺が求めたとしてもあいつは拒まなかったかもしれないけど、あいつの心が俺に戻ってきたわけではないのはわかっていたし、同情で抱かれるなんて、いくらなんでも俺にもプライドがあった。

 空しすぎて笑えてきて目を伏せた俺は、床に落ちているつけ爪を見つけて拾い上げると、壁に掛けられた鏡を覗き込んでみた。

「つっ……」

 浅いひっかき傷なのに、途端に傷ついた頬が痛んだ気がした。でも俺はそこにある自分の情けない顔に釘付けになる。

 最悪だ……どうしてここまでしてやらねばならない。と考えて、それもまた辛くなって考えるのをやめた。どうあっても、あいつは俺が愛した女で、憎くても何しても、邪険になんか出来るはずもない。

 いっそあのまま最後までやってしまえば、何か変わっただろうか。あいつは俺を嫌いになって、何の悔いも残さず飛び出して行けただろうか。それとも俺をまた好きにでもなってくれて、今度は世間に胸を張って公表出来るような夫婦になれたのだろうか――。

 考えれば考えるほど空しくなって、俺は静けさに怯えるようにラジオをつけた。

「……」

 数年前に流行った物悲しいバラードが聞こえる。でもそこで、俺は希望に似た現実を思い知った。

 かつてあいつが俺のもとから飛び出した時、俺の心情にぴたりとシンクロしていたその歌は、今ではまったく交わらない。

 一歩も進んでいないと思っていたけれど、時間は確実に流れていて、理恵とは本当に終わっていたのだと、今になって気付いたのだ。

「はあ……」

 大きく息を吐いて、俺はサビの途中でラジオを切り、ソファに身を投げ出した。あまりに心情に合わなかったので、そのまま聞いていたら当時の自分に歩み寄る気がしたのだ。あいつを好きだった頃なんて、今は思い出したくもない。

 あいつは豪のもとへ行っただろうか――驚いたことに、俺の中で行ってほしいという気持ちがあった。もう俺とどうこうなることは絶対にない。豪が帰ってきたことが俺にも嬉しいという気持ちもどこかにあり、やっと二人が始まることに、自分の存在価値を見出そうとしてみる。

 みじめ……苦しい。切ない。空しい。悲しい。屈辱。残酷。絶望。滑稽……だが、こんな裏で、理恵の幸せを願っている自分がいた。

 あいつの居場所は俺じゃない。そうあいつに再認識させることは、同時に俺自身も思い知らされることになる。それがどれだけ意味のないくらい空しいことなのか、あいつはわかっているだろうか。だがそれが、ほんの少しでも後押しになったならと願わずにはいられない。


 仕事に戻ろうと起き上がってみたが、まだそんな気になれず、時が止まったかのようにただじっとして物思いにふける。でも思い出すのは理恵や豪のことばかりで、それを埋めるように煙草に手を伸ばした。だが肝心な時に煙草が見当たらず、さっきつけたのが最後の一本だったことを思い出し、何もかもうまくいかない自分を恨んだ。

 気晴らしに買いに出るか……と立ち上がり、財布を掴んだまではいいが、まだ近くに理恵がいるかもしれないことを思うと、とても外に出る気にはなれず、途端に無気力に陥る。

「……」

 どうしたら一番よかったんだろう……後悔ばかりが襲う。情けない。こんな姿、誰にも見せられない。

 ふと時計が目に入り、そろそろ仕事に戻らねばという気にさせられるが、身体が石のように重くて動かない。だが仕事のことを考え出した瞬間、沙織の顔が浮かんだ。どうしてこんな時に出てくるんだ……と思ったが、俺はあの子にちゃんとしなければと思うと、格好でもつけるように、背筋がしゃんと伸びる気がする。

 俺は掴んだままの財布から、一枚の写真を取り出した。それは理恵の写真でも恵美の写真でもなく、親戚である沙織と雅人の子供の頃の写真である。ガキの頃に撮った何の変哲もない写真だが、そこにあるのは自分でもよくこんな写真が撮れたなと思うくらい輝いた笑顔で、それまでのことも、その日のことも、それからのことも、すべてがここに繋がっているのだと感じさせてくれるものだ。

 他人にはただの子供が写っただけの古い写真に見えるかもしれないが、これが撮れたから今の仕事をしている俺があるし、そういう意味で俺にとってはたった一枚の……言葉には言い表せないが、なにしろこんなヘコんだ時にも笑顔に戻してくれるような、宝物みたいなものである。

「ふう……」

 少し心が落ち着いたようで、俺は飲みかけの冷めたコーヒーに口をつける。

 でも気を緩めればすぐにでも闇に戻ってしまいそうで、慌てて一度消した煙草に火を点けた。

 傍から見れば、まだ間抜けな姿なんだろう。ヒロが知ったらまた異常なまでに気を使わせるんだろうなと思うと、今からこっちのほうが気を使ってしまった。

 しかし頭の中はすっかり仕事モードに戻っており、とりあえず浮上するが、なかなか作業ははかどらない。早く仕事にでも没頭して忘れたい。思えばそうしてきたから生きてこられたんだと考えてみても、仕事が手につかないなら仕方がない。

 俺はまたソファに横になって目を閉じた。なんだか身も心も疲れ切っていて、このままもう一眠りしそうな勢いである。いっそこのまま眠ってしまって、すべてを忘れられたらと思った。

 嫌なことが思い出されそうになると、ふとまた沙織の顔が浮かぶ。屈託のない笑顔に、嫌でも無防備な自分をさらけ出してしまうことがある。きっと俺はそれらに癒やされているんだろうな、と思ったら、途端にまた冴えた仕事の頭になった。そうだ、親戚でもある沙織を引き入れてしまった以上、こんなことで腑抜けて、あの子の将来に関わることを、真剣に取り組まないわけにはいかない。

 明日は俺から豪に連絡してみよう――何故か急に前向きになったようで、俺は深く息を吐く。一眠りしたら、いつも通りに戻れればいいと願った。


 ねえ理恵? 俺のことを少しでも思ってくれるなら、もう振り向かないで進めよ。そしてあいつに幸せにしてもらえよ。それがおまえに出来る、俺への償いだと思うから。

 そんな格好のいいことを思って、俺は静かに目を閉じた。

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