64. 最初の年末
「鷹緒さんは、いつからお休み?」
昨年の年末に差し掛かったある日――。地下スタジオで仕事中の鷹緒に、差し入れをしに来た沙織がそう言った。
「いつからって……来年?」
「え? 今年はもう休みなしってこと?」
鷹緒の答えを聞いて、沙織は目を丸くする。
沙織に背を向けて仕事をしていた鷹緒は、その手を止めて振り返った。
「ああ……いつも年末年始、関係ないけど」
「そうなんだ……」
あからさまに落ち込む沙織に、鷹緒は首を傾げる。
「おまえもどうせ実家に戻るんじゃねえの?」
「どうせって何よ。いるなら一緒に年越したかったのに……」
「うーん……年越しの瞬間なら一緒にいられるけど、元旦は初日の出撮りに行かなきゃいけないし、その後は普通の撮影仕事だし……あんま構ってやれないから、実家に帰ったほうがいいと思うけど?」
鷹緒は良かれと思って言っているものの、沙織は不満げに俯く。
「私は……一言もしゃべらなくていいから、一緒に年を越したいな」
沙織の言葉を聞いて、鷹緒は微笑みながら頷き、煙草に火を点ける。
「じゃあそうしよう。でも本当、バタバタするからな?」
「うん……」
再び背を向けてパソコンに向かう鷹緒に、沙織はソファに座ったまま、置いてあるクッションを抱きしめた。
付き合い始めて数ヶ月。付き合い始めの時よりは、明らかに不満も生まれてきている。今日も仕事中の鷹緒に差し入れの名目で無理にやって来たし、年末年始の予定もたった今まで知らず、また自分から言うことで予定が決まることにも悲しさを感じる。
しかし当の鷹緒は年末の忙しさに追われ、沙織に構っている暇もないようだ。いつもよりゆったりめの年末と聞いていたが、まるでいつもと変わらない忙しさがそこにある。
「……帰るね」
しばらくして、沙織はそう言いながら立ち上がった。
「そう? 気を付けてな」
振り向きもせずそう言った鷹緒に、沙織は口を曲げながら地下スタジオを出て行った。
「お、沙織ちゃん」
地下からの階段を上がると、ちょうど信号を渡ってきた広樹に出会った。
「ヒロさん」
「来てたんだ。あいつ、ちゃんと仕事してた? 倒れてない?」
広樹の言葉に、沙織は苦笑する。
「大丈夫です。ちゃんと仕事してましたよ。ろくに話も出来ないくらい」
「そう。今ちょっと追い込み時期だからなあ。一応様子見に来たんだけど、沙織ちゃんがいてくれたなら大丈夫か」
「……」
「あ、今から帰るの? 送ろうか」
「ああ、いえ。大丈夫です。一人で帰れますし……」
浮かない顔の沙織に、広樹は微笑みながら首を傾げる。
「なんかあった?」
「いえ……」
「アハハ。わかりやすいなあ、沙織ちゃん。じゃあ、ごはんは食べた? 僕まだだから付き合ってくれないかな。たまには話そうよ」
「……はい」
少し考えたが、今は一人でいたくないとも思い、沙織は広樹に連れられて近くのファミリーレストランへと向かっていった。
「それで、何があったの? まあ大方、予想はつくけども……」
「……贅沢になったみたいです、私。付き合ってもらえれば幸せだったのに、いつも私から連絡したりしてるのが空しくて……」
正直に言った沙織に、広樹はコーヒーを飲みながら苦笑する。
「まあ……それに耐えられないなら、あいつと付き合うのは無理だよ」
いつになくはっきりと言い切った広樹を見て、沙織は首を傾げた。
「ずいぶん、きっぱり言うんですね?」
「そりゃあ、あいつの恋愛遍歴はほとんど知ってるからね。あいつの場合、恋愛でうまくいかないのは九割方すれ違いでしょ」
「……そうなんですか」
「でも、あいつだって学習してないわけじゃないし、あれだけ恋愛はもうしないって言っておきながら付き合うことになったんだから、ちゃんと考えてるとは思うよ? でもあいつの場合、忙しいのが先に来るからさ……まだこっちで復帰して半年ちょっとだし、もう少し我慢してやってくれないかな。社長として、僕も申し訳ないと思ってるけど」
「……大丈夫です。不満はあっても、別れるとか考えられないですし……」
「だったらよかった。あいつも少しずつ仕事選ぶようにはしてるみたいだし、今年の年末だって、本当に前よりは楽な感じなんだよ。それにさっきみたいに、沙織ちゃんだから仕事中でも一緒にいられるんだと思うし……他の人間なら、仕事中にそばにいることも、話しかけられもしないからね……だからもう少し我慢してやって」
鷹緒の代弁というべき広樹の言葉に、沙織は少し安心したように頷く。
「ありがとうございます。ちょっとだけ希望が見えた感じがします」
「うん。でもいいなあ、鷹緒。沙織ちゃんみたいな可愛い彼女いてさ」
突然そう言った広樹に、沙織は謙遜して首を振った。
「そんなこと……でもヒロさんも、忙しすぎて出会いがないんでしょうね?」
「あとは鷹緒がそばにいるからだと僕は思うね。みんなそっちに流されちゃう。僕はいつも貧乏クジ引かされてるよ」
「そんなことないですよ。モデル仲間だって、ヒロさんファンの子たくさん知ってます。でもやっぱり……社長さんと恋愛するのは難しいかも」
正直な沙織に、広樹が豪快に笑った。
「あははは。そうだよね。それは僕も痛感してるけど……沙織ちゃん、鷹緒なんてやめて、僕に乗り換えない? なーんて……」
そんな冗談を言った広樹の頭を、思い切り叩く人物がいた。たった今やって来た、鷹緒である。
「鷹緒さん!」
驚いている沙織を横目に見ながら、鷹緒は不機嫌そうに沙織の横に座る。
「イテテ……来たか。思い切り叩きやがって」
「おまえが変なメールよこすからだろ。ったく、仕事遅れたらどうしてくれんだよ」
「それは困るな」
苦笑する広樹の前で、鷹緒はメニューに目を通す。
「メールって……いつの間にやり取りしてたんですか?」
未だ驚きながら、沙織は広樹に尋ねた。
「ここに来る時、歩きながらだよ」
「え、なんて?」
「んなもんいいから、注文決まった。ボタン押して」
広樹と沙織の話を遮って、鷹緒は店員を呼んで注文をした。
「鷹緒さん、仕事は大丈夫なの?」
少し不機嫌な様子の鷹緒に少し怯えながら、沙織はそう尋ねる。その質問に、鷹緒は眉を顰めた。
「ああ……食事に来ただけだし」
「鷹緒。呼んだ僕が言うのもなんだけど、そんな不機嫌な顔してたら、沙織ちゃんに愛想尽かされちゃうぞ」
口を挟む広樹に、更に鷹緒は口を曲げる。
「おまえのせいだろ。余計なことすんな」
眉間にしわを寄せながら、鷹緒はドリンクバーへと立ち上がった。
「まったく……完全、仕事追い込みモードだな」
「それでヒロさん。鷹緒さんになんて言ったんですか?」
どうしても気になる様子の沙織が尋ねるので、広樹は微笑みながら自分の携帯電話を差し出した。そこには広樹が鷹緒へ送ったという、メールの文章が映し出されている。
“泣かせちゃ駄目じゃん。沙織ちゃんは僕がもらった。いつものファミレスにいるよん”
「え、こんなメールで、鷹緒さんが来たんですか?」
「そう。あいつ意外と小心者でしょ? でも愛されてる実感、ちょっとは湧いた?」
嬉しそうに頷く沙織に、広樹も満面の笑みを浮かべる。
「よかった」
すると鷹緒が戻ってきて、広樹を睨みつけた。
「俺のにちょっかい出すなよ?」
それを聞いて、沙織は顔を赤らめる。自分が鷹緒の所有物のように言われても、なぜだかそれが嬉しい。
「おーおー、お熱いことで」
苦笑する広樹には応えず、鷹緒はコーヒーに口をつける。尚も赤くなる沙織を横目に、鷹緒は沙織の頭を撫でた。