58. 藍
ある日の夜。鷹緒は沙織を連れて自宅マンションへと帰っていった。
「ヒロさんは?」
沙織が尋ねると、鷹緒はソファに座って振り向く。
「まだ社長室でバタバタしてたよ」
「先に帰って来ちゃってよかったの?」
「なんで一緒に帰らなきゃならんのだ……」
苦笑しながら、鷹緒はテーブルの上に書類を広げる。
「もう。また仕事始めちゃうの?」
「今日はおまえが家で食事したいって言うから、俺も残業やめて持ち帰りの仕事にしたんだろ」
「そうだけど……ヒロさんが遅いんじゃ、ちょっと残念だな」
それを聞いて、鷹緒は軽く溜め息をついた。
「……なんだよそれ。俺だって、やきもちくらい妬くんだけど」
「もう。私を疑ってるの? それに、ヒロさんが私のことなんて相手にするわけないじゃん」
「どうかな。おまえのこと信用はしてるけど、人の心は変わるからな……あいつ、いいやつだし」
まるで自分に自信がない様子の鷹緒に、沙織は軽く抱きついた。その温もりだけで、鷹緒は微笑む。
「悪い。なんかいつも拗ねてるよな、俺」
「ふふ……そういう鷹緒さん、嫌いじゃないからいいんだもん」
可愛げに顔を赤らめる沙織に、鷹緒の顔が近付く。
その時、玄関から物音がしたので、二人は触れるだけのキスをして、そっと離れた。
「ただいま――」
そこに広樹が入ってきた。さすがに夜ということもあり、疲れた表情でいつもの元気はない。
「おかえり。だいぶお疲れのご様子で」
「ああ、もう終わんない終わんない……参ったよ」
そう言いながらも、広樹の両手にはスーパーの袋が下げられ、キッチンへと向かっていく。
「ヒロさん。ごはんだったら私が作りますよ」
見かねて言った沙織に、広樹は苦笑する。
「大丈夫。ごはん食べれば元気になるし。それに結局一緒に食事する時間もなかったじゃない? 一ヶ月近くここにいたけど、あと数日で家に戻るから、それまでに僕の手料理食べさせたかったし」
「そっか。ヒロさん、もうすぐここから出てっちゃうんですね……じゃあ私も手伝います」
「そう? それは助かるなあ」
二人は鷹緒を見つめるが、鷹緒は目の前に広げた書類から目を離さない。料理に至っては手の出しようがないこともあるだろう。
それから沙織は広樹とともに、料理作りを始めた。
「ここで隠し味」
手慣れた様子の広樹に、沙織の顔が輝く。
「ええ! それ入れるんだ……ヒロさん、すごい!」
「えへへ……味見してみて」
促されるまま味見すると、想像以上の味が広がっていた。
「美味しい!」
「その反応、作り甲斐があるね」
「今度レシピ教えてください!」
「いいけど、僕のは男の手料理だからね。見た目もそんな綺麗な料理じゃないでしょ」
「でもすごく美味しいですもん。すごいなあ、ヒロさん。なんでも出来るんだ……」
そんな声がキッチンから聞こえて、鷹緒は眉間にしわを寄せる。
「キャッキャと楽しそうだな……」
「妬かない、妬かない。おまえも一緒に作る?」
広樹がそう言うが、鷹緒は首を振るだけだ。
「仕事中」
「つれないなあ。良い機会じゃない。料理始めるの」
「結構ですよ。俺はコンビニさえあれば生きていけるから」
「ったく……」
相変わらずの鷹緒に、沙織も苦笑する。
その時、インターホンが鳴ったので、鷹緒は壁掛けの受話器を取った。するとマンション玄関の様子が映し出され、見慣れぬ女性が立っている。
「……はい」
『あ、諸星……さんのお宅ですか?』
「そうですが?」
その様子に目を凝らせて、鷹緒はハッとした。
「あ、もしかして……藍ちゃん?」
「なに!」
鷹緒の言葉に、キッチンから叫んだのは広樹である。
『うん、そう。そこに広樹いる?』
「いるよ。上がってきて」
受話器を置く鷹緒の横を、風のように広樹が走り抜けていく。そしてカバンの中に入れっぱなしの携帯電話を取り出すと、顔を青ざめた。
「うわ。めっちゃ電話来てる!」
「べつにいいじゃん。俺も久々に会いたいよ」
その時、部屋のインターホンが鳴り、鷹緒は玄関へと向かっていった。
ドアを開けると、綺麗な女性が立っている。
「久しぶり」
「うん。久しぶりね、鷹くん。ごめんね、突然押しかけて……あの馬鹿がちっとも電話に出ないから……鷹くんも電話変わっちゃって、わからなかったし」
「そっか。日本戻ってきてから、教えてなかったもんね。まあ入ってよ」
鷹緒は女性をリビングへ案内すると、広樹が拝むようにして待ち構えていた。
「ごめん、藍ちゃん! 電話しまいっぱなしだった!」
「まったく……今日、連絡するって言ったでしょ? ついでだから来ちゃったわよ」
「ごめん……」
そう言った時、女性は沙織に気がついてお辞儀をした。
「あ、ごめんなさい。お客様が……」
「ああいや、身内だからいいよ。俺の親戚の沙織。うちでモデルやってる」
遠慮する女性をすかさず遮って、鷹緒が沙織を紹介する。沙織もまたお辞儀をした。
「小澤沙織です……」
「島田藍です。こいつの姉です」
こいつと言って広樹を指しながら、藍と名乗った女性はそう言った。それを聞いて、沙織は目を丸くする。
「ええ! ヒロさんのお姉さん?! お、お世話になってます……」
「こちらこそ。鷹くんの親戚じゃ、きっといろいろ迷惑かけてるんでしょう」
「いえ、そんな……」
「まあ座ってよ。ヒロと話があるなら、隣の部屋使えばいいし」
鷹緒がそう言うので、藍は笑って首を振った。
「べつに深刻な話ではないから……鷹くんにとっては深刻かもしれないけど」
「え、俺にも関わること?」
「だから来たのよ。あ、これ、お土産ね」
酒瓶を賄賂のように差し出す藍に、鷹緒は苦笑する。
「なんとなく意味がわかった」
「察しいいね」
「いつまで?」
「あと二、三週間くらい……」
「了解」
二人の間で通じたようで、鷹緒は藍に頷いてみせる。
「ヒロ。高級ウイスキーもらったから、グラス持ってきて」
「了解。料理ももうすぐ出来るよ」
鷹緒に急かされるようにして、広樹はキッチンへと戻り、支度を始めた。その間に鷹緒と藍はソファに座り、いろいろな話をしている。沙織は広樹を手伝って、テーブルに料理を並べていった。
やがて四人の食事会となり、広樹が口を開く。
「え? じゃあ、あと二、三週間、家に戻っちゃ駄目なの?」
「うん。このところ立て続けに来た台風のせいで、工事が長引いてるんだ。だから鷹くんには悪いと思ったけど……」
藍にそう言われ、鷹緒はウイスキーを飲みながら微笑んだ。
広樹が今、鷹緒の家に居候しているのは、藍が家をリフォームしているからである。その間、夫と実家に戻ってきているわけだが、もともと狭い家なので、広樹が気を利かせて出たということだ。しかし工事が予定より捗っていないようで、居候の延期を言い渡されたのである。
「半年や一年いるわけでなし、俺はべつに構わないよ。炊事に洗濯と、結構やってもらっちゃってるし」
「甘えちゃってごめんね」
「いいって。その代わり、今度お店行くから、ごちそうしてよ」
「そんなのもちろん、いつでも来てよ」
「うん。沙織も一緒に行こう。藍ちゃん、旦那さんと二人でビストロやってるんだ」
鷹緒が沙織にそう振ったので、沙織は勢いよく頷いた。
「うん、行く行く!」
「是非来て。あと実家のほうにも顔出してやって。うちのお母さんたちも、鷹くんに会いたがってるし」
そう言われて、鷹緒も頷いた。
「うん。そういえば全然行ってない」
「あ、ヒロさんの実家も、料理屋さんなんだっけ?」
沙織が尋ねて、今度は広樹が頷いている。
「そう。飲み屋だけどね」
思わぬ訪問者に驚きながらも、広樹に似て大らかな性格の藍に、その日の夜は四人とも大いに盛り上がっていた。