57. 居候初日
広樹が鷹緒の家に転がり込んだ夜。その日は荷物整理もあって、広樹は鷹緒より早く家に上がっていた。
「勝手知ったる他人の家か……」
スーツケースから部屋着を取り出して早速着替えると、鷹緒が帰ってきた。
「おかえり」
「……ただいま」
家に広樹がいることが不思議な様子で、鷹緒は一瞬ためらいつつも、ソファの真ん中に腰掛ける。
「意外と早かったな」
「残りは家でやろうと思って」
「初日から仕事かよ。せっかく僕が来たんだから、ちょっとくらい飲もうよ」
「飲んでもいいから手伝って」
大量の書類束を取り出す鷹緒に、広樹は苦笑した。
「僕に手伝いを求めるってことは、相当溜まってるな?」
「入院のツケだな。でもこれ終わったら、少しは楽になるから」
「いいよ。やっちゃおう」
こうして二人は、同居生活の一日目にして、残業の夜を迎えることになる。
真夜中を過ぎた頃、広樹の目が閉じかかった。もともと徹夜は苦手のため、鷹緒は広樹を見つめる。
「ヒロ。もういいから寝ろよ」
「ん……」
大きく伸びをしながら、広樹は大きな目を擦った。
「もうちょっとやる」
「いいよ。ミスされても困るし、明日の仕事に支障出ても困るだろ。もう先は見えたから、一人で大丈夫」
「そう? じゃあお先に……和室使わせてもらうよ」
そう言われて、鷹緒は煙草に火を点けながら口を開く。
「本当に和室でいいの? 狭いじゃん」
普段は物置代わりにしている部屋だが、広樹は居候する間、そこで寝泊まりするという。寝るだけならば隣のスタジオなどもあるのだが、広樹はすでに決めているようだ。
「狭いからいいんだろ。僕の部屋も狭いからさ、あそこ落ち着くんだよね」
「ならいいけど……まあ、いびきのうるさいおまえが隣の部屋じゃないほうがいいか」
「失礼な。まあ、お先……」
「ああ。おやすみ」
広樹を見送って、鷹緒は仕事を続けていた。
早朝。広樹は見慣れぬ部屋で目を覚まして、自分の置かれている状況を思い出した。
「そっか、鷹緒の家……」
眠い目を擦りながらリビングへ向かうと、鷹緒が昨日と同じくパソコンと書類に向かっている。
「あれ、デジャヴ? 昨日同じ光景を見たような……」
広樹のつぶやきに、鷹緒は口を曲げた。
「朝っぱらから、おまえのボケに付き合ってる暇はねえんだよ」
「なに、まだ終わらないの?」
「終わったよ」
「じゃあ眠れないの?」
「うーん。別の仕事に手を付けちゃって、終われなくなったってとこかな」
「おまえ絶対、早死にするな」
「縁起でもないことを……でも今、何時?」
尋ねられて、広樹ははめっぱなしの腕時計を見つめる。
「五時ちょい前」
「おまえも早いじゃん」
「最近、早朝ランニングしてたからかな。一応人んちだし、緊張してるのかも」
「ハハ。おまえが人んちで緊張?」
「失礼な……でも、なんか手伝おうか?」
鷹緒も時計を見つめて首を振る。
「いや、とりあえずシャワー浴びてくる」
「眠れなくなるぞ」
「もう寝るつもりない」
バスルームに消えていった鷹緒に溜め息をついて、広樹は水を飲み、ベランダに出る。
「うん、いい朝だ」
高層マンションから見る朝焼けは、綺麗で清々しい。いつもの実家とは大違いの場所に違和感を覚えつつ、広樹は鷹緒のマンションを出ていった。
鷹緒がバスルームから戻ると、大汗をかいた広樹がキッチンで水を飲んでいる。
「どこか行ってたのか?」
「ちょっと散歩程度にランニング。帰りはエレベーター使わずに階段で上がってきたら、さすがに二十階は辛いね……僕もシャワー借りていい?」
「どうぞ」
「じゃ、遠慮なく」
広樹がバスルームに向かうと、鷹緒はバスルーム寄りのベランダに出る。そこは広めのデッキになっており、遠目に東京タワーが見える、鷹緒のお気に入りの場所だ。普段はそこで煙草を吸うのが常だが、さすがに徹夜を決めた今は、そこでぼうっと景色を眺めるのが精一杯である。
やがてバスルームから出た広樹が、鷹緒に気付いてベランダへと出てきた。
「優雅な生活だな」
ベランダに置かれた椅子で休んでいる鷹緒を見てそう言ったが、鷹緒の顔色は悪い。
「そう見えるならいいや」
「顔色悪いな。病み上がりなんだから、徹夜なんてしてるんじゃないよ」
そう言って、広樹も隣の椅子に座る。なんとも空が近く、良い天気である。
「人はそう簡単に倒れねえよ」
鷹緒の言葉に、広樹が顔を顰める。
「それは僕みたいなのが言っていいこと。おまえは説得力に欠ける」
「自他共に認める仕事人間だから仕方ない。仕事がないと生きる意味がない」
言い切った鷹緒は、立ち上がって伸びをした。
「……もう仕事だけじゃないだろ」
そう言われて、鷹緒は遥か下の地面を見つめる。
「そうだな……ま、おまえも説得力に欠けるな」
笑いながらリビングへ戻っていく鷹緒に、広樹もついて行く。
「ヒロ。おまえまだ出ないよな? 俺、先行くぞ」
荷物をまとめ始める鷹緒に、広樹は首を傾げた。
「もう?」
「腹減った」
「ああ……じゃあ僕も行くよ。ちょっと待って」
お互いに身支度を調えながら、二人はマンションを出ていった。
「なんか、いよいよ疑われそうだな」
苦笑交じりの広樹に、鷹緒が眉を顰める。
「冗談じゃねえ」
「だったらとっとと身を固めるなりしろ」
「おまえに言われたくない」
「アハハ。確かに……それに本当にそうなってたら、僕は泊めてもらえないもんね」
「ったく……これが毎日続くかと思うと憂鬱だな」
「またまた。嬉しいくせに……それにほら、今倒れても僕がいるから安心だろ?」
「アホか」
そのまま二人は車で会社近くまで向かい、会社前にある行きつけの喫茶店へと入っていく。
そこで朝食を取りながら新聞に目を落としていると、俊二が入ってきた。
「あれ……? おはようございます。お二人、ご一緒ですか?」
驚いている俊二に、広樹が席を奥にずれる。
「ああ、おはよう。座れよ」
「失礼します。なんか嫌な予感したんだよなあ……まずいとこ見ましたかね」
苦笑する俊二に、鷹緒は眉を顰める。
「朝っぱらからふざけたこと言ってんじゃねえよ……早いじゃん」
「今日は写真集撮りがあるんです。忙しくなるから、早めに」
「モーニングでいい?」
メニューを差し出しながらも広樹にそう言われ、俊二は頷く。
「はい」
すかさず注文する広樹に恐縮しながらも、俊二は慣れたようにお辞儀をした。
「ありがとうございます」
「俊二。おまえ、今日はマンションスタジオのほうだっけ?」
鷹緒が尋ねたので、俊二は頷いた。
「はい。屋外もありますが、部屋撮りのグラビア撮影が主です」
「そうか。まだ外は暑いし、気をつけろよ」
「はい」
「じゃあ俺、先に行く」
そう言って立ち上がり、鷹緒は去っていった。
鷹緒が出勤すると、まだ会社は開いたばかりで、牧や数人の社員たちが掃除を始めている。
「あら、鷹緒さん。おはようございます。珍しく早いですね」
そう言う牧に、鷹緒は口を曲げた。
「おはよう……ったく、俺が早く出勤する度にそう言うのやめてくれる?」
「あはは。ごめんなさい。つい……」
その時、広樹が出勤してきた。
「おう。俊二は?」
「まだ食事してる。金だけ払って先に来たよ」
鷹緒と広樹の会話に、牧は首を傾げる。
「お二人、俊二君と一緒だったんですか?」
「ああ。前の喫茶店で偶然」
その時、二人の目の前にあるデスクを拭いていた事務の高橋奈保子が、前のめりになって鷹緒と広樹を見つめた。
「っていうか、お二人から同じシャンプーのいい匂いがします」
そう言われて、二人は互いを一瞬見ると、鷹緒は苦笑して歩き出す。
「そりゃそうだろ。同じとこから出勤してんだから」
去っていった鷹緒を尻目に、奈保子は広樹を見つめる。
「え、同じところって……近所のサウナにでも泊まったんですか?」
「いや、まあ言っていいよね……僕、一ヶ月間、鷹緒んちに世話になることになったから」
「えー!」
どこから聞いていたのか、その場にいた女性陣が叫ぶように言った。
「そんなに驚くことかね……」
「あーあ。お二人、また噂立っちゃいますね」
苦笑する牧を尻目に、広樹も社長室へと向かう。
「勘弁してよ……」
その日じゅうには“鷹緒と広樹がついに同棲”という、歪んだ噂が社内を駆け巡っていた。