54-2. 日帰りバーベキュー親睦会 (2)
「わあ。綺麗!」
小さな滝壺は澄みきった水で溢れている。先ほどの川からほんの少し上流に上がっただけなのに、人もおらずまるで景色が違う。
鷹緒は身軽な荷物を下ろすと、すかさず景色を写真に収めた。休みだというのに、その顔はいつもの仕事の顔である。
すでにほったらかしにされている沙織も、そんな鷹緒の邪魔をしないように、鷹緒の荷物をまとめてその様子を見つめていた。
「沙織」
やがて鷹緒が呼んだので、沙織は慌てて立ち上がる。
「はい」
「おまえ、水着着てんの?」
「え、うん……麻衣子が泳ぐっていうから、着てきたけど……」
「じゃあ、ちょっと泳がない?」
鷹緒は歯を見せて笑うと、自らも服を脱いで水着になった。
それを見て、沙織は恥ずかしそうにしながらも水着姿になると、鷹緒へ駆け寄る。
「おまえの水着姿、ちゃんと見るの初めてかも」
「鷹緒さんの水着姿も初めて……」
「男の水着なんて、見せるもんじゃないけど」
照れ笑いしながら冷たい水に入り、鷹緒は滝壺へと向かっていった。
「待って、鷹緒さん……」
岩場で足だけ浸かった状態の沙織に、鷹緒は首を傾げる。
「どうした?」
「深そうだから恐くて……」
それを聞いて、鷹緒は沙織のもとへと戻っていった。
「おまえ、泳げないの?」
「泳げるよ。足がつくところなら……」
「ハハ。それは泳げるとは言わねえだろ」
「浮き輪持ってきたのに、置いて来ちゃった……」
それを聞いて、鷹緒は沙織に手を伸ばす。
「そうか。じゃあ俺が支えててやるから、来いよ。滝壺まで行くぞ」
そう言われて、沙織は恐る恐る手を伸ばす。
「冷たい……」
やがて胸まで水に入った沙織は、しがみつくように鷹緒の手を握った。
「それじゃあ泳げないんですけど……」
「だって、恐い……足つかないよ」
「ああ、意外と深いな。肩に掴まれよ」
言われるまま鷹緒の肩に掴まると、鷹緒は沙織を連れて泳ぎ出した。流れる景色が現実を忘れさせてくれる。
「滝の裏に上がれそうだな」
「わあ、すごい。アドベンチャーみたい」
もうそこは二人だけの世界で、二人は滝の裏側にある岩場へと乗り上げた。
すると、鷹緒は水中カメラについた水滴を拭って構える。幻想的な景色が広がっており、沙織でさえも写真を撮りたくなるほどだ。
「沙織。ちょっとここにいて。水中から撮ってくる」
「え……」
返事をする間もなく、鷹緒は水の中へと潜っていく。一人では戻れない場所に置き去りにされた沙織は、途端に不安になった。
「だ、大丈夫。鷹緒さんが私を忘れていくわけ……」
信用はあっても、仕事中の鷹緒が自分を忘れないとも言い切れないところが悲しい。
何分くらい経っただろう。鷹緒は水の中から一向に上がってくる気配がない。
「……鷹緒さん?」
不安の中で、沙織が呼んだ。何かトラブルだろうか……もしや知らぬ間に陸に上がっているかもしれない。そう思うと泣きたくなった。
その時、滝の向こうから突然、鷹緒が顔を出した。
「鷹緒さん!」
涙目の沙織を見て、鷹緒は眉をひそめる。
「……どうした?」
「遅いから……どうしたのかと思って」
「ああ、ごめん。ちょっと夢中になって撮り過ぎたか……でもほら、いい写真撮れたよ」
嬉しそうな鷹緒を見れば、それ以上に恨み言を言う気にもなれない。
「よかった……」
「ごめんごめん」
謝る鷹緒の手を取って、沙織はその手を自分の頬に当てる。
「……鷹緒さん、水泳得意なの?」
「得意でもないけど……ダイビングもやってたし、苦手ではないかな」
「ダイビング? すごい」
「すごくねえよ。ヒロもライセンス持ってるよ。まああいつは、それ以外にもキャンプとかアウトドアの資格もいろいろ持ってるし……今頃、火の始末とか真面目にやってんじゃね?」
明るく笑いながら、鷹緒は沙織を連れて、もう一度水の中へと入っていった。
「鷹緒さん……連れてきてくれてありがとう」
沙織の言葉を聞いて、鷹緒は辺りを見回すと、その額にキスをした。
「……玲央から告白されてたな」
突然、鷹緒がそう言ったので、沙織は驚いて目を泳がせる。
「……聞こえてた?」
「まあね。女冥利に尽きるじゃん」
鷹緒の言葉に、沙織は口を尖らせた。
「それだけ……?」
「他に何があるんだよ」
「ちょっとは妬いてほしいな、なんて……」
「沈めるぞ」
「あ、やだ」
鷹緒は沙織を抱き止めながら、静かに上を見上げる。沙織もつられて顔を上げると、目の前の滝には小さな虹がかかっていた。
「虹だ!」
無邪気にそう言った沙織を一瞬、鷹緒がぎゅっと抱きしめた。
そして沙織に背中を向けると、肩に掴まらせて岸へと泳ぎ出す。
「玲央のこと、相手にしてないわけじゃないけど……おまえのこと信用してるから」
鷹緒の言葉が伝わって、沙織はその背中に身体を預ける。
「うん。大丈夫だよ。告白されて嬉しいのは確かだけど……」
沙織の言葉に軽く後ろを向いたので、沙織は鷹緒を怒らせてしまったのかと思い、身を竦めた。
「ご、ごめんなさい。嬉しいっていうのは語弊が……」
「……胸が当たる」
「え?」
「おまえ、少しは胸あったんだな」
「ちょっと、鷹緒さん!」
「ハハハ」
ほんの少しの時間でも、今という時間は二人にとっては永遠のように感じられた。
やがて車の近くに戻った二人は、幸い各々が勝手気ままに過ごしてくれていたおかげで、特に何事もなく合流することが出来ていた。
「撮れた?」
帰るなり鷹緒に尋ねたのは、広樹である。
「一応」
鷹緒は満足げにカメラを渡すと、広樹はそれを見て微笑んだ。
「おお、すごいじゃん。おまえ、やっぱ風景とかのが向いてんのかもな」
「悪かったな。人物苦手で……」
「ハハ。日頃の仕事量で、冗談だと気付いてくれよ」
「自覚してますので……」
「なに言ってんだか。しかし、がっつり泳いだみたいだな」
服までびしょ濡れの鷹緒の後ろで、沙織もまた濡れた髪を隠すようにタオルで拭いている。
「おかげさまで」
多くは語らずに、鷹緒はコンロに置かれている残り物の肉をかじった。
「カタイ……」
「冷えてるからな。沙織ちゃん、あったかいスープ飲む?」
「あ、ありがとうございます」
広樹からスープを受け取り、沙織は口をつける。
そこに、恵美が駆け寄ってきた。今日は年も近い彰良の娘と一緒に行動していたようだ。
「諸星さん!」
「おう。楽しんでるか?」
「うん!」
「そうか、よかった」
甘えるように鷹緒の首に抱きつく恵美に、鷹緒は嬉しそうに微笑む。
「諸星さんも楽しんでる?」
「ああ、充実してるよ」
「よかった。でも今日は、一緒に帰れないんだよね?」
「ああ……おまえ、彰良さんの車で来たんだろ? 恵美一人ならこっちにも乗れるけど、そうしたら理恵と分かれるぞ?」
「そっか……」
「あ、じゃあ……」
その時、沙織が口を挟んだので、一同は沙織を見つめる。
「じゃあ私、麻衣子と一緒にモデルチームと電車で帰るよ。もともと私たちだけ車っていうのも、なんか変だし……」
沙織の言葉に、鷹緒は明らかに不機嫌そうに口を曲げた。
「却下」
鷹緒がそう言ったので、恵美が頬を膨らませる。
「どうして? せっかく沙織ちゃんがそう言ってくれたのに……」
そんな恵美の言葉に反応することなく、鷹緒は沙織を見つめた。
「沙織。そういう遠慮や気の遣い方は間違ってる。車の割り振りは考え抜いて決めたし、おまえは俺の親戚なんだから、変じゃねえんだよ」
強く言われて、沙織はしゅんと肩を落とした。鷹緒が溺愛している娘であり、沙織にとっては年下の恵美のためには、自分にも我慢が必要だと思ったのだが、目の前の鷹緒は恐いくらい不機嫌である。
「恵美も、彰良さんがわざわざ乗せてくれてんだから、最後まで好意を無駄にするなよ」
「……はい」
恵美もまたしゅんとしたので、鷹緒は恵美の頭を撫でて苦笑した。
「よし。わかったら、この話は終わり」
「うん……」
「あとで遊んでやるから、彰良さんたちのところに行きな」
「はーい……」
去っていく恵美を尻目に、広樹は顔を顰めた。
「ああいう言い方もないんじゃない?」
「恵美のことは可愛がってるけど、なんでもかんでも聞くと思ったら大間違い」
「そうだろうけどさ……沙織ちゃんだってショック受けてるじゃない」
そう言われて、鷹緒は沙織を見つめた。
「だって……なんかムカついたんだよ」
煙草に火を点けて、鷹緒はその場を去っていく。残された広樹は、沙織を見つめた。
「大丈夫? あんまり気にすることないよ」
「はい……でも、良かれと思って言ったのに……」
落ち込む沙織に、広樹は苦笑する。
「沙織ちゃんと一緒にいたいんでしょ。あいつ……」
鷹緒の後ろ姿を見送って、広樹は沙織を宥めていた。
鷹緒は煙草を手持ちの携帯灰皿にねじ込むと、岩場に座って物思いに耽った。感情のままに行動するのは苦手のはずなのに、カッとなって大人げないと思うと自己嫌悪に襲われる。
「諸星さん」
その時、後ろから声をかけたのは、さっき沙織に愛の告白をした玲央であった。