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52-2. 広樹の覚悟 (後編)

「ヒロ」

 社長室の広樹は、ただ考え事をしているように何も手につかない状態らしい。仕事を前にしていても、何一つ動いてはいなかった。

「……ああ、帰ったのか」

 覇気のない表情で広樹が答える。そんな広樹を尻目に、鷹緒はソファに座って口を開いた。

「なんだ、その顔。社長の威厳はどこいった。ぶっ叩いてやろうか?」

「ハハ……冗談やめてくれよ。元々そんなものないと思ってるくせに」

「なんだよ、さっきのプチ修羅場は」

 早くも核心を突いた鷹緒を見て、広樹は大きな溜め息をつく。

「はあ……僕のがよっぽど子供だよね」

「よくわかってるじゃん」

「おい。そこは否定するところだろ」

 いつものように軽快に返してくる広樹に、鷹緒はほっとしたようにしながら苦笑した。

「よかった。少しは元気も残ってるみたいだな」

「まあ……元カノに平手打ちされたショックは、かなり大きいけどね」

「まだまだだな。こっちは元嫁が同じ職場だぞ」

「アハハ。それもそうだ」

 笑う広樹を、鷹緒は真剣な目で見つめる。

「……わざとか?」

「え?」

「わざと人前で怒らせたんだろ。綾也香のこと」

「そんな……格好いいもんじゃないよ。出来る大人でもあるまいし」

「おまえは大人だよ。俺なんかよりずっと」

 どこか遠くを見る鷹緒に、広樹は苦笑した。

「そこは否定しないけど、おまえに褒められると気持ち悪いな」

「……いいのか? 本気で突き放して」

 鷹緒の言葉に、広樹は目を伏せる。

「もっと早くにやらなきゃいけなかったよね。あれで彼女も、わかってくれるといいけど……」

「わかってるよ。おまえがわざと怒らせたことも、もう戻れないってことも」

「……もう戻れない、か。長かったな……あの頃は“待ってて”とか“いつかきっと”とか、そう思ってたけど……いざ目の前に来られると、僕っていう人間はずいぶん変わったんだと気付いた」

 しみじみと広樹はそう言った。それを見つめながら、鷹緒は耳を傾けている。

「……うん」

「これでよかったよね?」

「まあ……本当によりを戻す気がないのなら、一度は通らなきゃいけない道だろ。正攻法で断っても駄目だったあいつには、ああしてわからせるしかなかったんじゃないの?」

 わざと綾也香を怒らせた広樹。叩かれても、あくまで仕事関係だと見せつけた行為は、綾也香にとっては完全なる拒否だったに違いない。それで憎しみさえ抱いて離れてくれればとも、広樹は思っていた。

「でも……ひどいこと言わせた。そんな子じゃないのに、人を陥れるようなこと……口先だけでも言って欲しくなかった。でも、僕が言わせたんだ……」

 思い悩んでいる様子の広樹に、鷹緒は溜め息をつく。

「忘れろと言って忘れられないのが人間だよな……後悔してもいいけど、あんまり思い悩むなよ。今のおまえに綾也香を受け入れられないのは確かなんだろ。遠ざけたいんだろ?」

「ああ。好き嫌いの問題じゃなく、もう僕が彼女の未来を奪うような真似は絶対に出来ない」

「……ああ」

「鷹緒……」

「うん?」

「……髪切ってくれる?」

 そう言われて、鷹緒は目を丸くした。いつしか一定の長さ以下には切らなくなった広樹の髪は、もはや肩を優に越す長さである。いつも束ねているとはいえ、その長さは男性にしてみれば長すぎるだろう。

「……願掛けは終わったのか?」

「そんなんじゃないって……でも、断髪式」

「いいよ」

 鷹緒も覚悟を決めたように、立ち上がって広樹に近付く。そして社長机の上に置いてあったハサミを手にした。

「うわ、おまえいきなり、ちょっと恐い……」

「四の五の言うな。切るんだろ」

「そうだけどさ……」

「とはいえ、これじゃあちょっと小さいか」

 その時、牧が入ってきた。

「失礼します。ちょっといいですか?」

「ああ、うん。どうぞ」

「まとめた資料もろもろです。仕事終わったので、他に何もなければ帰ります」

「ありがとう。大丈夫、帰っていいよ」

「そうですか。では、お先に失礼します」

 会釈した牧に、鷹緒が口を開く。

「牧。デカめのハサミない?」

「ありますよ?」

「貸して」

「わかりました」

 なんの疑問もなく、牧はすぐに大きめのハサミを持ってきた。鷹緒はそれを受け取ると、広樹を見つめる。

「覚悟はいいか?」

「いいよ」

 鷹緒と広樹の雰囲気に、牧は目を泳がせる。

「な、何が始まるんですか? 内輪揉めはやめてくださいよ?」

「んなわけねえだろ」

 そう言いながら、鷹緒は広樹の髪に触れる。

「キャー!」

 牧の悲鳴が聞こえて、残っていた社員たちが社長室に駆けつけた。そこには、バッサリと後ろ髪を切られた広樹がいる。

「……うん。さっぱりした」

 表情は真逆だったが、広樹はそう言った。

 しかし、事情を知らない社員たちが鷹緒を見つめる。

「鷹緒さん、ひどいです! ずっと伸ばしてきた社長の大事な髪を……」

「そうですよ。社長が何したっていうんですか!」

 そんな言葉にうんざりして、鷹緒はハサミを牧に返すと、自分の席へと戻っていった。

「みんな誤解だよ。僕が切ってって言ったんだから」

「社長。そんな鷹緒さんのこと庇わなくても……」

「いやいや、本当だって。急にイメチェンしたくなって……特に意味はないんだ」

「でも、そんなバッサリ……しかも鷹緒さんに切ってもらうなんて」

「あはは。確かに……でも本当、さっぱりした。このまま美容院行ってこようっと。片付けは後でやるから、そのままにしておいて。帰る人は帰ってね。おつかれ」

 社員たちから逃げるようにして、広樹は去っていった。

 そんな様子を遠目で見ながら、鷹緒は自分のパソコン画面へと向かう。そしてかつて一度だけ、広樹に聞いた話を思い出していた。


     ◇     ◇     ◇     ◇


 それは広樹が綾也香と別れて一年ほどたったある日。かなり長くなった広樹の髪を見て、鷹緒が眉を顰めた。

「おまえ、どんだけ髪伸ばすつもりだよ。髭も合わせりゃ、完全に不審者だぞ」

 鷹緒の問いかけに、広樹は長くなった自分の髪束を掴む。

「前から見たらわからないでしょ?」

「横から見てたらすごい伸びてるのわかるけど……高校時代からロン毛ではあったけど、その長さは尋常じゃなくない?」

「いいだろ、べつに……ほら、僕もモテるからさ。変なとこあったら余計なのは寄ってこないでしょ?」

 おどける広樹を見て、鷹緒は苦笑した。

「女よけのつもりか。元カノのこと吹っ切れないって? いや、吹っ切るつもりもないってか」

 それを聞いて、広樹の表情が硬くなる。

「まあ……本当に忘れる日が来るまで、切る気にもなれないんだよね。あの子、僕の髪に触れるの好きだったし、バッサリ切っちゃったら思い出まで捨てる気がして……」

「なんだそれ」

「いいんだよ。僕しかわからなくて」

「まあ……無理して忘れる必要もないってことじゃない?」

 そう言って、鷹緒もまた数年前に理恵が買ったワイシャツを着ていたことに気付き、一人苦笑した。


     ◇     ◇     ◇     ◇


「遂に切ったか」

 奥の席から、彰良の声が聞こえる。

「え?」

「ロマンチストだからなあ、あいつ」

 そんな彰良の言葉に、鷹緒は苦笑した。

「彰良さんも知ってたんですか」

「まあ、理由もなく伸ばし続けないだろ。なんとなくだけどな」

「イメチェンにしても、長かったな……間に何度か彼女は出来てたけど、それでも切らなかったのは、やっぱり引っかかってたんだろうと思う」

「わからんでもないよ。あんな別れ方したんだからな。俺なら仕事なんて続けてられないかも」

 お互いに広樹の事情を知っている鷹緒と彰良は、しみじみと広樹の心情を察していた。

 そしてその日、広樹は実家に顔を出すと言い残して、鷹緒の部屋には帰ってこなかった。気持ちの整理をつけるためにも、今は事情を知る人間には会いたくないのだろう。


 次の日。広樹が出勤すると、社員たちがざわついた。

「本当だ。社長、髪短い! 髭がない!」

 話だけ聞いていた社員が、広樹を見てそう叫ぶ。

 広樹は美容院で髪を整えたらしく、まるで別人のように前髪も後ろ髪もバッサリと切りそろえられている。その清々しいまでの表情からは、なんとか吹っ切ったのだと推測された。

「イメチェン成功?」

 ニッコリと笑う広樹に、女性社員たちも大きく頷く。

「もう大成功です! 超カッコイイです!」

 思わず叫んだ女子社員に、広樹も満足げに頷いた。

「それはよかった。切った甲斐があったよ。ずいぶん身軽になったから、もっと早くに切ればよかったなあ」

 そう言いながら、広樹は社長室へと入っていった。


 その日の夕方。鷹緒は社長室に入るなり、小箱を広樹の前に置いた。

「なに、これ?」

 そう言いながら開けると、中には人気店のプリンが入っている。それを見て、広樹は苦笑した。

「どうしたの?」

「褒美っつーか、労いっつーか……」

 煮え切らない態度の鷹緒だが、広樹が内心落ち込んでいると察して買って来たのはわかっている。

「おまえで今日、何人目だと思う?」

 そんな広樹の言葉に、鷹緒は首を傾げた。

「え?」

「まったく、彰良さんも理恵ちゃんも、妙に気を遣ってくれちゃって……今日の冷蔵庫はプリンだらけだよ」

「……ああ、そう? じゃあわざわざ、おまえの好物買って来なくてもよかったな」

「心配してくれなくても大丈夫だよ。自分でも思ったよりショックじゃなくて、むしろ清々しい」

 そう言いながら、広樹はプリンを一口食べる。

「……今日は帰ってくるだろ?」

「お願いします」

 広樹の言葉に笑いながら、鷹緒は背を向けた。

 一人きりになった広樹は、一気にプリンをかき込むと、鷹緒や社員たちの優しさを感じて、そっと微笑むのだった。

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