5-1. あいさつ (両親編)
「ただいま……」
定時を過ぎた社内、役員クラスしか残っていない会社に疲れて入ってきたのは、鷹緒である。
「おかえり」
暗くなった社内は奥の一部分しか明かりがついておらず、そこに社長の広樹と副社長の理恵が座っていた。
「ん? なんか重要会議?」
二人だけというメンツに、鷹緒は首を傾げてそう言った。
「打ち合わせしてるだけ。それより……」
「ただいま帰りましたー」
そこで社内に入ってきたのは、沙織だった。鷹緒は驚きながらも首を傾げる。
「沙織? どうしたんだよ。今日は遅くなるって言ったら、おまえも帰るって言ったじゃん」
「うん、そのつもりだったんだけど、もう少しで帰るかなあなんてずっと思ってたら、帰れなくなっちゃって……」
沙織はそう言いながら、広樹と理恵に軽食を差し出す。
「ごめんね、沙織ちゃん。買い出しなんかに行かせちゃって」
「いいんです。仕事してないの私だけなんだし」
状況を把握し、鷹緒は自分のデスクへと向かう。今日も所狭しと伝言やらファックスやらが貼られているが、急用はないと踏んで、鷹緒は広樹と理恵を見つめた。
「俺もなんか手伝ったほうがいい?」
「いや。打ち合わせだけだから、もう終わるし」
「そう? じゃあ沙織。帰ろうか」
「うん」
鷹緒は沙織を連れて、そのまま会社を出ていった。
「ごめんね。勝手に待ってたりして……」
会社を出るなり、沙織が言った。
「いや、いいけど……言ってくれれば、もう少し早く帰れたのに。黙って待っててくれても、状況によっちゃ直帰することもあるから」
「うん、わかってる。今日は本当、なんとなく待ってただけだから……ヒロさんと理恵さんのお役にも、少しは立てたみたいだし……」
そう言った沙織の頭を軽く撫で、鷹緒は沙織とともにレストランへと入っていく。
「そういえば、お父さんが出張から帰ってきたんだって」
食事をしながら、沙織が思い出したようにそう言った。
沙織の父親は転勤が多く、ここ数年も単身赴任していたのだが、やっと戻ってきたらしい。
「そう……じゃあそろそろ本当に、挨拶に行かないとな」
付き合って数か月。鷹緒はずっと気にしていたのだが、時間の余裕もなく延び延びになっていた。沙織はそういうつもりで言ったわけではなかったので、慌てた様子で手を振って拒否する。
「いいってば、そんなの。たかだか付き合うくらいで両親に挨拶なんて、時代が違うよ」
「時代とかそういうんじゃなくて……おまえの両親とは知らない仲じゃないんだから、ちゃんとしないといけないだろ」
真剣な鷹緒が嬉しかったが、正直なところ沙織にとっても、あまりやりたくないイベントでもある。
「じゃあ……もしお父さんが反対したら、付き合うのやめるの?」
「そうだな……わかってもらえるよう、努力しないとな」
「……まだ結婚するわけじゃないのに」
「結婚……したい?」
鷹緒に聞かれて沙織は頬を染めた。出来ればしたいと思う。そうすれば、今ある不安などすべてなくなってしまうだろう。ただ鷹緒と一緒にいられて、自分は鷹緒のものだと、そういう自信は欲しかった。
「……うん。鷹緒さんは?」
「うーん。沙織がしたいなら……いいとは思うけど」
「なにそれ……」
鷹緒は苦笑した。
「正直なところ、まだ付き合ったばかりだし焦るつもりはないから、そこまでは考えてないけど……おまえがそういう気持ちなら、そこらへんも今からちゃんと考えておかないと……ご両親に挨拶しに行くのに、ただ将来のこと何も考えず会うわけにはいかないだろ」
そんな鷹緒の態度に、沙織は嬉しくなって頷いた。
「私はすぐにでも結婚したい気分だけどな」
「うん……わかった。俺だって、沙織とずっと一緒にいたいと思ってるよ」
正式ではないがプロポーズに取れる言葉で、沙織の心は明るく輝く。今日は無理に待っていてよかったと思った。
その週末。鷹緒と沙織は、沙織の実家へと向かっていった。両親には会わせたい人がいるとだけ説明していただけで、それが鷹緒だとは伝えていない。そのため鷹緒がやってきたことに、さすがの両親も驚いているようだった。
「会わせたい人って、鷹ちゃんのことなの?」
リビングに通された二人は、沙織の両親を前にして頷く。
「うん、そうなの。ちょっとした報告というか、なんというか……」
しどろもどろの沙織に、両親も身構えるように鷹緒を見つめる。
鷹緒は腹を決めたように、目の前にいる沙織の父親を見て、口を開いた。
「お久しぶりです。急に来て申し訳ありません。あの……事後報告で申し訳ありませんが、現在、沙織さんとお付き合いをさせていただいておりまして、そのお許しをいただきに来ました」
そういう鷹緒はバツが悪そうにしながらも、真っ直ぐにそう言った。
沙織の両親は、互いの顔を見合わせている。
「沙織と……鷹ちゃんが、付き合ってるっていうこと?」
さすがの沙織の母親も驚いたようにそう尋ねたので、沙織と鷹緒は静かに頷いた。
「はあ……さすがに私もびっくりしたわ。ねえ、お父さん?」
「……付き合うことでの報告? 結婚話じゃないのかい?」
母親の言葉を受けながら、今度は父親が尋ねる。
「はい。結婚を視野に入れておりますが、俺の場合、まずは付き合うにも許可がいると思ったので」
「じゃあ反対したら、付き合うのをやめるということかい?」
「……そうですね。その時は、わかっていただけるように努力するしかありません」
「まあ……沙織ももう大人だし、相手が君ならさほど心配はしていないんだけどね……」
父親の言わんとする意味が、鷹緒には痛いほどわかっていた。自分も他人の子とはいえ父親だった時期もあるのだ。離婚歴があり、尚且つ母親の従兄弟という微妙すぎる位置の男に、誰も進んで大事な娘を差し出しはしないだろう。
「沙織。夕飯の支度手伝って。鷹ちゃんも食べていくでしょう?」
その時、沙織の母親がそう言って立ち上がった。
「いや、おかまいなく……」
「おかまいするわよ。まずは買い物ね。沙織、行くわよ」
「お母さん。でも今は……」
「いいからいらっしゃい」
まるで男二人きりにでもさせたいように、母親は沙織を連れて家を出ていった。
残されて沈黙が続くその場だが、やがて沙織の父親が、テーブルに手をついてお辞儀をした。
「沙織を頼むよ、鷹緒君」
「小澤さん! そんな、やめてください!」
鷹緒の目に、優しげな沙織の父親の顔が映る。昔からちっとも変わっていない、優しく誠実な人だ。
「沙織は小さい頃から引っ込み思案で、自分から進んで何かをするような子じゃなかったんだが……君と出会ってから変わった気がしてる。それは女房もわかってるよ。泣き虫だった沙織が、今は大勢の人の前でモデルだなんて。鷹緒君のおかげだって……」
「いえ……それは彼女自身が頑張っているからで、俺は単にきっかけに過ぎません」
「それでも、あの子は変わったよ。どうやら君のことが好きらしいとは聞いていたんだけど……たとえ君と会いたいから、君に認めてもらいたいからという不純な動機で始めていたとしても、今ではちゃんとモデルとして楽しそうにやっているみたいだし、そのあたりは誇りに思っているから。まずはそれをありがとう」
「……こちらこそ」
まるで父親には敵わないといったように、鷹緒も深々と頭を下げた。
「あの……反対しないんですか?」
やがて訪れた沈黙に、今度は鷹緒が尋ねる。そんな鷹緒に父親は苦笑した。
「反対すると思うかい?」
どちらの意味とも取れて、鷹緒は軽く頷いた。
「……筋を通さなければと思って、ここへ来ました。俺は反対されても仕方のない人間です。同じ職場のため、顔を合わせないわけにはいかないですが、認めてもらえるまで指一本触れるなとおっしゃるのならそうします。そのくらいの覚悟はあります」
「そうか……」
「驚かせてしまって、本当にすみません。俺も……正直、冷静ではいられないことがあります。俺には離婚歴もあるし、ご存じの通り卑屈な人間ですので、彼女に相応しいとは……でも彼女は、杏子姉さんのように明るくて真っ直ぐで、俺なんかの心にもすんなり入ってきてくれて……それがとても癒されて救われます。お互いに同情している部分もあるのかもしれませんが、俺は彼女のことを、本当に大切にしたいと思っています」
鷹緒の覚悟の中に、心の中の葛藤が少し垣間見えた気がした。
それを聞いて、父親は静かに微笑む。
「ありがとう。脅したようで悪かったね……僕は反対なんかしないよ、鷹緒君。沙織とどうなるということじゃなく、僕は前から、君を引き取って息子になってくれればいいと思っていたくらいだしね。お義父さんの家に君が引き取られる時も、こっちで暮らさないかとずいぶん交渉したものだ」
「……でも」
「確かに君には離婚歴もあるし、沙織よりずっと年上だけど、今は割と自由な時代だし、なにより沙織が好きになった人なら、祝福してやらないわけにはいかないよ。そりゃあ手放しで喜べない部分はあるけどね。でもそれは、父親のやきもちなんじゃないかな」
照れるように微笑む父親に、鷹緒も苦笑した。
「ありがとうございます……」
「いや。こちらこそありがとう。ちゃんと言いに来てくれたのも嬉しかったよ。君だって日々戸惑う部分も多いだろう。わかるよ……でも沙織の過去も、こういう関係もひっくるめて付き合う覚悟してくれた、君の姿勢のほうが素晴らしいと思うよ。沙織をよろしく頼みます」
「ありがとうございます……」
「鷹緒さん、大丈夫かな……」
スーパーまで買い物に来た沙織は、口を曲げて俯いた。
「大丈夫よ。ああいう話は、男同士のほうがいいの。それより、まさかあんたが鷹ちゃん連れて来るとはねえ」
母親はなんだか楽しそうに、野菜を選んでいる。
「……お母さん、びっくりした?」
「そりゃあしたわよ。しかしあれはないわよねえ。ちゃんと先に言っておきなさいよ。結婚話かなとは思ったけど、ユウさんと別れて間もないし、よりによって私の従兄弟を連れて来る?」
本音を言うように、母親は苦笑した。
「ごめんなさい……」
「でもまあびっくりしたけど……小さい頃から、鷹ちゃん鷹ちゃんって言ってたしね。あんたの夢が叶ったっていうのかな」
「え? 私、鷹緒さんのこと全然覚えてないんだけど……」
「何言ってんの。おばあちゃんちでよく遊んでもらってたくせに……でもまあ、バツが悪いでしょうに、真剣だから報告しにきてくれたんだし、このまま結婚しても私は文句ないわよ」
「本当? じゃあお母さん、賛成してくれるの?」
沙織は顔を輝かせる。
「少なくとも反対はしないわよ。二人とももう大人なんだし、変な人連れてこられるよりよっぽどいいわ」
「よかった……お母さんがそう言ってくれたら、半分安心」
「お父さんだって、鷹ちゃんなら反対しないでしょ」
「そうかな……」
「そうよ。うちの家族はみんな、鷹ちゃんのこと大好きなんだから」
「うん」
沙織は少し不安が解消されたように、母親と家へと戻っていった。
沙織たちが家に帰ってからは、取り立ててそういう話はせず、仕事の話や近況などを語り合い、普通の会話を楽しんだ。
「沙織。俺、代わるよ」
食器を洗っていた沙織に、鷹緒がそう申し出た。沙織の隣では、沙織の母親がフルーツの皮を剥いている。
「いいよ。私やるから」
「いや、ちょっとお母さんとも話したいし」
はっきり鷹緒がそう言ったので、沙織は頷いて去っていった。
「なあに? 私はそんなに手強くないから大丈夫よ」
母親の言葉に、鷹緒は苦笑して皿洗いを始める。
「でも……ごめんね」
「なに謝ってるの。こっちがお礼言いたいくらいだっていうのに」
「……反対じゃないの?」
「反対じゃないわよ。気持ちとして、複雑な部分は正直あるけどね。それは鷹ちゃんもでしょ?」
なんでもお見通しといった様子の母親に、鷹緒は苦笑する。
「俺も……こんなことになるとは、夢にも思ってなかったんだけど……なんかそう考えると、いろいろ申し訳なくて」
「親っていうのはね、子供が幸せならそれでいいのよ。沙織が選んだ人なら応援したいし、それがたまたま私も知っている人だったっていうことだけ。何も恥じることないのよ」
軽く言ってくれたその言葉に、鷹緒の心もまた軽くなっていた。
「ありがとう。絶対大事にするから」
「そう。で、式はいつにするの?」
からかうように言った母親に、鷹緒は笑う。
「まだそこまでは……」
「あら。とっととしちゃいなさいよ。また奥さんに逃げられるわよ」
「姉さん……」
「うふふ。冗談よ。でもあの子、結構ふらふらしてるもんだから、ちゃんと捉まえておいてあげてね」
「うん」
「ああ、すぐじゃないにしても楽しみだわ。はい、フルーツ剥けたから持って行って」
思いのほか乗り気な態度を取ってくれる母親に、鷹緒はお辞儀をして去っていく。それが大人の態度だということも鷹緒にはわかっていたが、そうしてくれる沙織の両親がありがたかった。
「そうか……こういう家族の繋がりもあるんだな……」
帰りの車でしみじみとそう言った鷹緒に、沙織が笑って首を傾げる。
「ええ?」
「いや……俺、新しい家族って自分が作るものだけかと思ってた……でもそっか。沙織と付き合ったら、あんなあったかい家族がついてくるんだな」
どこか嬉しそうな鷹緒だが、それを聞いて沙織は押し黙った。自分が当たり前に持っている家族を、鷹緒は持っていないのだ。
「……理恵さんの家族にも、挨拶したんでしょう?」
沙織の言葉に、鷹緒は過去を思い返す。
「したけど……あいつもすでに勘当同然だったから……挨拶に行っても、お義父さんとはほとんど話にもならなかったし、お義母さんとはたまに会ったけど、理恵が実の両親と打ち解けてないのに、俺の家族という感じでもなくて……」
「そう、なんだ……」
「ああいや、だからおまえが沈むことないんだって。俺は今、おまえの両親に認めてもらえて嬉しいよ」
「ありがとう。嫌な役やらせちゃって……」
「なに言ってんだよ。俺がしたいって言ったんだから」
「でも、ありがとう」
二人は互いに微笑み合った。