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50. 勘

 八月下旬に差し掛かった、ある日――。


 木村広樹の朝は、いつも優雅に始まる……はずが、毎朝通っている喫茶店から出るなり、スニーカーの紐が解けて転びそうになった。

「危ないなあ……」

 一人呟きながら、僕は嫌な予感がよぎった。その正体がなんなのかはわからないが、木村広樹は勘で生きている――なんて誰かが言ったほど、僕は勘が働くらしい。そして悔しいけれど、僕もそう思っている。だからその時も、嫌な予感が的中しないようにと、心を強く持って会社に出かけた。

「おはようございます、ヒロさん。コーヒーどうぞ」

 会社はいつも通りの様子だ。慌ただしいながらも穏やかな時間が流れているようで、社長室に入るなり、牧ちゃんがコーヒーを入れて来てくれた。

「ありがとう。わざわざいいのに……」

「私も飲みたかったついでですんで」

 社長とあれど出来ることは自分でやる……と決めてみても、うちの社の子はみんな良い子で、至らない社長の僕にも気遣ってくれる。

「失礼します。まとめた来月の企画資料、お渡ししていいですか?」

 今度は企画部の万里ちゃんが入ってきて、分厚い書類を見せる。

「うん、そこに置いておいて」

「はい。ではお願いします」

「社長、失礼します。少し早いですけど、打ち合わせいいですか?」

 すると、立て続けにモデル部の社員が入ってきた。出勤して間もないが、もう仕事モードに突入しなければならないらしい。

 それもそのはず、今は繁忙期というくらい忙しい時期だ。世間は夏休みだのお盆休みだの言っているが、うちの会社に会社ぐるみで取る大型の休みはまったくない。大手じゃない分、数をこなす戦略だ。もちろん休んでいる暇もないくらい仕事が入っており、嬉しい悲鳴を上げているのもまた事実だ。

「ふう……」

 それから小一時間ほど打ち合わせが立て込み、やっと解放された頃には、大きな社長机の上には書類が山積みとなっていた。

 この後にも他社との打ち合わせが控えているため、溜まる一方の書類整理もちょこちょこ手を付けなければならない。

「早いとこ片付けないとな……」

 仕事に手を付ける前に栄養補給をしようと、僕は給湯室へと向かっていく。冷蔵庫の中には僕がストックしてあるプリンのほか、鷹緒の印がつけられたコンビニスイーツも入っている。

 そこでふと振り返ってみると、社内に鷹緒の姿はない。

「あいつ、また遅刻か?」

 顔を顰めながらも、鷹緒に定時というものはないため、少しくらい朝が遅くても黙認している部分はある。

 コーヒーを注いでプリンを手に、僕は社長室へと戻っていった。これを食べたら仕事に入ろう。そう思っていると、胸元で携帯電話が鳴った。見ると画面には“諸星鷹緒”の文字が躍る。噂をすれば……だが、僕は先ほど得た嫌な予感をまた思い出していた。

「もしもし」

『俺』

 オレオレ詐欺かと思ったが、その声は鷹緒そのものである。

「ああ、おはよう。どうした?」

『うん、あのさ……』

 言いにくそうな鷹緒に、僕は身構えた。

「なに?」

『ちょっと胸が苦しくてさ……なんかヤバそうな感じするから、病院行ってくる』

 嫌な予感はしたんだ……そこで僕は、また勘が当たってしまったことを残念に思いながら、文字通り目の前が真っ暗になったような、変な感覚を覚えていた。

 鷹緒は倒れる限界まで無理をするタイプであると、経験上わかっている。そんな鷹緒が倒れる前に病院へ行くというのは大きな進歩だが、同時に危機的状況であるということも理解出来た。だから僕は、柄にもなく焦りを募らせる。

「ヤバそうって、どうヤバそうなんだ?」

『……とにかく苦しい。血圧も上がってるみたいだし、ちょっとこのまま仕事行くのしんどいくらいかな』

「それってかなりヤバイってことじゃん。救急車呼ぼう」

『そこまでは大丈夫だよ』

「じゃあ、迎えに行くから待ってろ」

 どんどん焦る僕とは逆に、鷹緒の冷静な声が聞こえる。

『いいって。おまえも朝から打ち合わせあるんだし、今はみんなも忙しいだろ。タクシーで行くつもりだから心配するな』

「でも……」

『それより今日はデスクワークの予定だったんだけど、ちょっと締切厳しくなるかも』

「そんなものは後で考えられるよ。とにかく早く行け」

『ああ。悪いな……』

 そこで電話が切れた。悪い予感が当たった……でもなんだか、それだけでは収まらない気がして、僕は思わず立ち上がる。

 社内を覗くと、もうほとんどの人が出払っており、居る人間は慌ただしげに仕事をしていて、誰も手が空いている人間はいない。僕自身もこの後には打ち合わせが入っているため、妙な胸騒ぎがしていてもどうすることも出来なかった。


 それから小一時間ほどして、僕の電話が鳴った。見ると鷹緒からのメールである。僕が他社との打ち合わせ中だというのをわかってメールでよこしたんだろうが、その内容に僕は思わず立ち上がった。

“気胸だそうです。その場で処置して数日入院することになった。あとで連絡するけど、明日の撮影、人員手配なんとかしてくれないか?”

 淡々と綴られた文章に、僕はすぐさま会議室から出て、鷹緒に電話をかけた。しかしすでに電源が切られているらしく、鷹緒には通じない。

 その時、理恵ちゃんが外回りから戻ってきて、僕は首を傾げた。

「……どうしたの? 忘れ物?」

 今日の彼女はタレント付きのマネージャー業に徹するはずだったが、戻って来るにはあまりにも早い。

「実は急に時間変更があって。夕方までぽっかり空いちゃいました」

 こういうのも割と良くあることのため驚きはしない。それより鷹緒が嫌がるのはわかっていたが、頼める人間が出来たと思った。

 僕は理恵ちゃんを廊下へと連れ出すと、鷹緒の事情を説明する。

「え、鷹緒さんが……?」

「気胸だって。どんな状態なのかわからないから方針も立てられないし、とにかく心配だからついててやってくれないかな?」

「わかりました。様子見てすぐに連絡します。その前に、明日の人員確保は誰かに振っておきますね」

「頼むよ。理恵ちゃんも時間ないだろうから、僕も手が空き次第すぐに向かう」

「了解です」

 お互いに別方向へと歩き出し、僕は打ち合わせに戻る。その間、理恵ちゃんは鷹緒のいない穴埋めを牧ちゃんに振って、いち早く病院へと向かっていった。


 数十分後に打ち合わせが終わり、僕は牧ちゃんのもとへ駆け寄る。

「牧ちゃん。話は聞いた?」

「はい。明日撮影の人手はなんとかなりそうです」

「近日中の人員もなんとかして。そろそろ副社長も戻さなきゃならないし、僕も様子を見に行ってくる。でもこの後も打ち合わせがあるから、すぐに戻るよ。鷹緒の様子確認したら今後のスケジュール組み直すから、人員だけは多めによろしく」

「わかりました」

 その時、社内の電話が鳴り、牧ちゃんが手を伸ばしたので、僕は会釈をして会社を出ていった。


 ちょうどタクシーが通りかかり、僕はそれに飛び乗った。

「総合病院まで……」

 そう言いかけて、僕は不意に腕時計を見つめる。脳裏に鷹緒の顔ともう一つ、沙織ちゃんの顔が浮かんだ。ちょうど朝からの撮影が終わったところのはずだ。

「すみません、その前に寄りたいところが」

 僕もそう時間があるわけではない。それでも沙織ちゃんを連れて行かなければならないという衝動に駆られ、脇目も振らずに地下スタジオへと向かっていった。

 女性楽屋を躊躇いなく開ける。そこでは案の定、撮影が終わって落ち着いたところの、のんびりとした女性陣の顔が見える。

 かつての元カノの顔も見えたが、その時の僕は沙織ちゃんのことしか頭になかった。

「沙織ちゃん!」

 突然呼ばれて驚く彼女の手を取って、僕は鷹緒のいる病院へと大急ぎで向かっていった――。

広樹目線での第42話「特別な日」直前のストーリーでした。

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