47. 交渉成立
ある日の早朝。鷹緒の部屋のインターフォンが鳴り響いた。
「うるせえ……」
ベッドで熟睡していた鷹緒は、手を伸ばして目覚まし時計を取る。見ればまだ五時台である。
そして尚も鳴り止まないインターフォンに、確かめずとも相手がわかった。
溜め息をつきながらベッドから這い出ると、その足で玄関に向かう。ドアを開けると、ジャージ姿の広樹の顔があった。
「よう! おはよう」
まだ目も開けきらない鷹緒とは対照的に、爽やかな笑顔でそう言いながら、広樹はズカズカと部屋の中に入ってくる。
「なんなんだよ、おまえは……」
「早朝ランニング」
「え? 家から走ってきたのかよ」
「大した距離じゃないよ。最近、運動不足だから、しばらく日課にしようと思って」
「一日坊主になるんじゃねえの?」
二人はリビングに行くと、鷹緒はすぐにぐったりとソファに座り、広樹は水を飲みながらコーヒーを入れ始めている。
「だからか……昨日、俺と沙織が会わないか聞いてきたの……」
昨日のことを思い出し、鷹緒は煙草に火を点けて言った。
「さすがに二人のお邪魔は出来ないからねえ」
「予定変わることもあるんだ。気軽に訪ねて来ないで欲しいね」
「沙織ちゃんには悪いけど、会っちゃったら会っちゃったでいいじゃん。大丈夫だよ、寝室は覗かないから。それに靴があるかないかでわかるでしょ」
「ふざけんな」
そう言われても、広樹は笑って淹れたてのコーヒーを差し出しながら、一人がけのソファに座る。
「前に預けた僕の着替えある?」
「だから預けられたのか。何日がかりの計画だよ」
「ハハハ。今日の午前中は余裕があったからね。前から走ろうと思ってたんだ」
「俺は余裕ないっての。着替えならそこに置いてある」
「そう。ありがとう」
広樹はそう言うと、リビングの片隅に放っておかれた紙袋を手に取った。
「それにしても、なんでここに来るんだよ。会社行けばいいだろ」
「相変わらず冷たい野郎だな。ここならシャワーもコーヒーあるし、ゆっくり着替えられるだろ」
「だったら勝手に入って勝手に出て行けよ。鍵持ってんだし、コーヒー持って隣のスタジオにでもいればいいだろ。俺までこんな早く起きて何しろって言うんだよ」
寝起きで不機嫌そうに言いながら、鷹緒はコーヒーに口をつける。
「じゃあ、もうひとっ走り行く?」
「冗談だろ」
「僕より外回り多いとはいえ、おまえも運動不足じゃないの? ここから僕んちまですら走れなかったりして」
「おまえな……」
「おっと、これ以上不機嫌になる前に、シャワー浴びようっと」
逃げるように浴室へ向かう広樹を尻目に、鷹緒は自分の首筋を掻きながら、窓の外を見つめる。もう夜は明けているものの、早朝の空気が漂っていた。
やがて広樹が浴室から出てくると、すでに鷹緒は着替えており、出かける準備を整えているようだ。
「もう出かけんの?」
暢気に訪ねる広樹に、鷹緒は水を飲みながら横目で広樹を見る。
「誰かさんのおかげで、目が冴えたからな」
「ゆっくりすりゃあいいのに……僕も行くからちょっと待ってて」
「なんでおまえと一緒に出勤しなきゃならないんだよ」
「またまた。待ってたくせに」
「自分の家に黙っておまえ置いていくなんて、そんな危険なこと出来るか」
早朝から軽快なやりとりをしながら、広樹はその場で着替えを始める。
「しかしおまえ……いつも束ねてるから見慣れてたけど、ずいぶん髪伸びたな」
濡れたままの広樹の髪は、すでに肩より遙か長く伸びている。
「何度か切ってはいるんだけどね……今更イメチェンも怖くてさ」
「それって願掛けか何か?」
二人が出会った当初から広樹の髪は割と長かったのだが、社長になってからは短くしたところを見たことがない。
鷹緒の言葉に、広樹は一瞬悲しげに微笑んだ。
「まさか……」
「おまえ結構、少女趣味入ってるもんなあ」
「ロマンチストと言ってくれないかね。まあ、そんなんじゃないけど」
「じゃあ切れよ」
「……切るよ」
互いに思っていることを理解しているように、同時に溜め息をつく。そして二人は支度をして、マンションを出ていった。
「なんか食べる? おごるけど」
広樹の言葉に、鷹緒は口を曲げる。
「おまえのおごりは当たり前だろ。まだ全然、人歩いてねえじゃん」
「まあまあ」
二人はそのままファミリーレストランへと入っていく。
「で、本題は?」
注文を終えてコーヒーを飲む鷹緒がそう言ったので、広樹は苦笑した。
「気付いてた?」
「当たり前だろ。わざわざ早朝に家まで押しかけられて、本当に何もないなら逆に怒るぞ」
「わかってた割には、ずいぶん切り出すの遅いじゃん」
「こっちだって心の準備ってのがあるんだよ。で、なんだよ」
「じゃあこれ」
そう言って広樹が差し出したのは、大金の入った封筒だった。
「……手切れ金か?」
冗談交じりに言う鷹緒に、広樹は苦笑する。
「なんでだよ。おまえには今後もいてもらわないと困る」
「じゃあ何。まさかヤバイ金?」
「実は……」
言いかけて、広樹は拝むように手を合わせた。
「頼む! 一ヶ月、僕をおまえんちに置いてくれ!」
そんな広樹に、鷹緒は目をパチパチさせた後、テーブルに頬杖をついた。
「はあ? なんで……」
「実はさ、姉貴の家をリフォームするって話があって、それで一ヶ月実家に戻ってくるって言うんだ。ご存じの通り、僕んち部屋がいっぱいいっぱいじゃん? 次男は独立したけど、みんな大人になっちゃったから同じ部屋は嫌だとか言うし……」
広樹は五人兄弟で、姉と弟の一人を除いては、まだみんな実家暮らしである。
「……べつにいいけど、ホテルとかいくらでもあるじゃん」
「僕が恐がりなの知ってるよね? しかも仮にも社長がホテル暮らしって嫌味でしょ。マンションスタジオも最近はよく使ってるから、生活臭出せないし」
そう言われて、鷹緒は店員に手を上げる。
「すいません、チョコレートパフェ追加」
鷹緒の態度に、広樹は微笑んだ。
「それはオーケーの合図?」
「まさか……これを機に、おまえも実家出れば?」
「うーん。考えてはいるけど、一人暮らしすると僕、遊んじゃうからさ……」
そんな広樹に、今度は鷹緒が苦笑する。
「若いな、オイ……」
「おまえも知ってるだろうけど、前に一度一人暮らしした時、いろいろやらかしちゃったからトラウマで」
「それこそおまえの素行の悪さが原因だろ。っていうか、三十過ぎてそんなこと出来るなら尊敬するわ」
そこでやって来たパフェを口につけ、鷹緒は広樹を見上げる。
「駄目かな」
可愛らしい広樹に、鷹緒は溜め息をついた。
「そんな捨てられた子犬みたいな目すんなよ、気色悪い……炊事、洗濯、掃除に車の運転するならいいよ」
そう言って、鷹緒は目の前に置かれた封筒の中から、一枚の札を抜き取った。
「プラスこれな」
「そんだけでいいの?」
「うちはホテルじゃねえし。でも、沙織呼ぶ時はスタジオ行けよ」
「ハハ。もちろん覗かないよ」
「どうだか」
笑いながら、二人は朝食を済ませた。