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45. 渾沌

 夕方。鷹緒は会社に戻るなり、喫煙室へと入っていった。今日は沙織も撮影で会う予定がなく、また溜まってしまった仕事を片付けるために、今から残業しなくてはならない。

 根を詰める前に一服と思ったのだが、思わぬ人物が目の前のエレベーターホールに見えて、鷹緒は吸おうとしていた煙草を箱に戻した。

「豪……」

 相手もまた鷹緒に気付いて、喫煙室のドアを開ける。

 入ってきたのは、内山豪うちやまごう。鷹緒にとってはあまり会いたくない人物である。

「先輩! お久しぶりです」

 変わらぬ口調と笑顔で、豪はそう言った。

 途端に鷹緒の表情が硬くなり、無意識にも顔が歪む。

「ああ……何の用だ?」

 鷹緒の言葉に、豪はにこりと微笑んだ。

「今日はお宅の会議室借りることになってるんです。取材や作業も兼ねてなんで、広いスペースが必要なんで」

「へえ……」

 鷹緒はやっと煙草に火を点け、落ち着きを取り戻した。

 WIZM企画は大きな会議室を所有しているため、外部に貸し出すことも珍しくない。

 豪は出版社に勤めていると聞いているが、実際のところ最近どうしているのか、理恵とどうなっているのかなどは、まったく知らない。また気になっていても聞くことなど出来なかった。

「先輩。この後、一緒に飲みませんか?」

 思わぬ誘いに、鷹緒は顔を顰める。

「なんでおまえと……」

「だって全然会ってないし、話もしてないじゃないですか。お互いの近況報告兼ねて、たまにはいいでしょ?」

「おまえに報告することなんかねえよ。それに俺は残業だし」

 いつになく冷たい目で豪を見つめると、鷹緒は煙草をもみ消した。

「僕らのこと、気にならないんですか?」

 立ち去ろうとした鷹緒は、横目で豪を見つめる。

「おまえ……また何かしでかしたんじゃねえだろうな?」

 そんな鷹緒の言葉に、豪は高らかに笑った。

「あははは! 信用ないなあ、僕って」

「当たり前だろ。おまえには前科がある。それに、おまえが俺に理由もなく近付いてくる時は大抵、重大発表があったからな」

 すると突然、豪は真剣な顔をして、静かに笑った。

「僕だってもう大人ですよ? 理恵とちゃんと向き合って付き合ってるつもりだし、仕事だって順調です。ただ純粋に先輩と飲みたいだけですよ」

 落ち着かせるように言った豪を見て、鷹緒は腕時計を見つめる。

「……三時間はかかる。その後で良ければ」

「ありがとうございます。あの店で待ってます」

「ああ……わかった」

 そう言い残して、鷹緒は喫煙室を出ていった。


 それから数時間後。鷹緒はとある居酒屋へと入っていった。行きつけというほどでもないが、豪と会うといえばこの店というくらい、昔はよく来ていた店である。

 広めの個室には、すでに豪がいた。

「先輩。おつかれさまです」

 いやらしいくらい満面の笑みの豪は、計算なのか心からの笑顔なのかはわからない。

「悪いな……遅くなった」

「いえ。でも相変わらず、忙しそうですね」

「そっちは?」

 いきなり本題に入ったかのような鷹緒に、豪は笑顔を崩して苦笑した。

「まずは注文しません?」

「もうしてきた」

 鷹緒がそう言うと同時に、ビール瓶が運ばれてくる。

「早いなあ」

「おまえはどうせ酎ハイだと思って。入る前にな」

「酒の趣向はそんなに変わりませんもんね。あ、料理の注文もお願いします」

 運んできた店員へ適当に注文を済ませると、豪は鷹緒にビールを注いで、飲みかけの酎ハイを持った。

「じゃあ、久しぶりの再会を祝して――」

 豪が言っている間に、鷹緒は無言のまま口をつけていた。

「もう、先輩。つれないなあ」

「べつにめでたい席でもないんだから、さっさと話進めろよ」

「はあ……まあ、僕はそこそこ順調ですよ」

 苦笑しながらそう言って、豪はすでに頼んでいたつまみを口にする。

「そこそこって? 言っとくけど俺、おまえのこと全然知らないからな?」

「誰からも聞いてないってことですか?」

「この間、嵐がちらっと言ってたくらいで、おまえの話なんか出るわけないだろ」

「ああ、嵐ね。またかち合うようになったんでしょ? でも寂しいなあ……僕だって頑張ってるのに」

 口を尖らせる豪に、鷹緒は微笑した。

「おまえも相変わらずみたいだな」

「どこがです? 出版社に就職したし、ファッション系のライターとして認めてもらえるようにもなったし、アラサー雑誌のモデルまで頼まれることも出てきて、もうフラフラしてる子供じゃないっすよ」

「じゃあなんで理恵と収まってないんだよ」

 真顔の鷹緒の目は、鋭いまでに豪を射貫いている。

 豪はそんな鷹緒を見て苦笑したかと思うと、目を逸らして天井を見上げた。

「収まるってなんですか? 僕、結婚がゴールだと思ってませんから」

「俺だってそうは思ってないけど、おまえには子供がいるんだってこと忘れてないか? いつまでも恋人気分でいられる立場じゃないんだぞ」

「古い考えだなあ。今時、籍入れてない事実婚の人だってたくさんいるし、週末婚や通い婚だってあるくらいなのに」

「じゃあおまえは今、そのどれに当たる付き合いをしてるんだよ?」

 苦い顔のまま、鷹緒は煙草に火を点ける。

「そうですね……そう言われると、確かにまだ恋人のままかな」

「フラフラしてんじゃねえよ」

「してませんってば、人聞きの悪い……」

「俺は……俺がアメリカ行ってる間に、とっととくっついてるもんだとばかり思ってたよ……」

 それを聞いて、豪は真顔になって俯いた。

「僕だって……そう思ってましたよ」

 豪の言葉に、鷹緒は黙ったまま真っ直ぐに豪を見つめる。

「僕が日本に帰ったら、真っ先に理恵に会って、すぐに一緒に住んで結婚してって……そう考えてましたよ」

「……あいつが嫌がってるのか?」

 眉間にしわを寄せたまま、鷹緒はそう尋ねた。しかし豪は静かに首を振る。

「いえ……やっぱり僕がフラフラしてるように見えるからでしょうね。ちゃんと住む場所が決まったら、就職が決まったら、少し落ち着いたら、恵美がもう少し僕に慣れたらって……お互いに歩み寄ったり離れたり、のらりくらりとかわしかわされ、そうこうしているうちに、あっという間に年月が経ってしまったって感じですよ」

 溜め息をつく豪を見て、鷹緒はそっと目を伏せる。

「悪い……」

 突然謝った鷹緒に、豪は目を見開いた。

「え?」

「……あいつだってバツイチになるからな。子供抱えて、そりゃああいつも慎重になるだろうし、そう簡単なわけがないよな」

 それを聞いて、豪は深い溜め息をつく。

「ムカつくなあ」

「は?」

「なんかいつも余裕に見えますもん、先輩。その度に僕がどれだけ惨めな思いしてるかわかってますか?」

 冗談交じりの柔らかい表情ながらも、豪の目は真剣だ。そんな豪を前に、鷹緒は苦笑する。

「なに言ってんだよ。余裕なんてねえけど……でもまあ、俺たちはもう過去のこととして清算出来てるからな。昔の女の幸せだって願えるし、そのためにこうして首突っ込んでることが余裕に見えるなら、どうとでも思ってくれていい。でも……」

 続く鷹緒の話に、豪はぴくりと眉を動かした。

「でも、おまえは余裕なんか見せるなよ」

「……え?」

「格好つけたい気持ちはわかるけど、おまえはケジメつけるために日本に戻ってきたんじゃないのか? 俺がアメリカに行ってる二年半、ちゃんと理恵や恵美と向き合ってきたのか? 偉そうなこと言うようだけど、おまえは這いつくばってでもがむしゃらに誠意ってもんを見せなきゃいけないだろ。じゃなきゃあいつも、おまえに頼ることなんて出来やしない。またいつ何処に行くかもわからない男のことなんて……」

「僕はどこにも行かないよ!」

 説教じみた言葉を続ける鷹緒に、思わず豪がそう言った。だが鷹緒は静かな目で、豪を見つめている。

「……それをあいつは知ってるのか? 言ったのか?」

「何度も言ってますよ……」

「おまえ、自分がオオカミ少年だってこと忘れてるだろ。言葉だけじゃ伝わらないもんもあるんだよ」

 言いながら自分の心も痛んで、鷹緒はビールに口をつける。タイミングよく最後の注文品が届いたので、それもまたすぐ口に入れた。

「理恵は……まだ先輩のことが忘れられないんですよ」

 豪の言葉に、鷹緒の瞳が一瞬揺れた。そして静かに顔を上げ、豪を見つめる。

「……馬鹿言ってんなよ。そんなわけないだろ」

「じゃあ先輩は、理恵のこと完全に忘れられてますか?」

 またも一瞬、鷹緒の瞳が揺らいで、やがて息を吐いた。

「そういう意味では、忘れられてないかもな……」

「ほら、そうでしょ?」

「でも、みんながみんな、おまえみたいに綺麗さっぱり忘れられると思ったら大間違いだぞ。そういう意味では俺、過去は全部引きずってると思う」

「そういうの、僕はよくわかんないんだよなあ……ちょっとでも前の人が残ってるのに、次にいくなんて浮気じゃん」

「おまえが言うな。馬鹿が」

 まったくもって話の合わない二人は、互いに息をついて飲み物を口にする。

 やがて沈黙を破ったのは鷹緒だ。

「まあ結婚どうのはいいや。でも、恵美のことはちゃんと考えてるんだろうな?」

「……考えてますよ。貯金だって積み立て始めたんです。養育費出すって言ってんのに、理恵が受け取ろうとしないから……やっぱ僕、父親としては理恵にも認めてもらえてないんだなあ……恵美も全然懐いてくれないし」

 それを聞いて、鷹緒は眉を顰めた。

「おまえ、ちゃんと恵美と向き合ってる? 反抗期に差し掛かってることはあるけど、あいつは空気は読むし、ちゃんと話せばいくらでも溝埋められるだろう」

「僕、子供嫌いですもん」

 悪びれもせずそう言った豪に、鷹緒の顔つきが変わる。

「ふざけるな」

 静かな口調ながらも、鷹緒の顔は険しい。そんな鷹緒に、豪は口を尖らせて俯いた。

「もう、こればっかりはしょうがないでしょ。体質なんだから……」

「あのなあ。俺だって子育てに関しては手探りで今日まで来てんだよ。実の父親であるおまえが頑張らないでどうすんだよ」

「頑張ってますよ。最初の頃はうまくいってたんですよ。でもやっぱ女の子だからかな……いろいろ取り繕う僕の本質を見抜くんですよね。僕が子供を苦手意識してることも、理恵と二人きりになりたいことも」

 包み隠さず話す豪は、鷹緒の神経を逆なでするだけである。だが沸き上がる怒りをなんとか押し込めるように、鷹緒は深い溜め息をついた。

「理恵にも言ってあるけど……おまえたちにとって恵美が重荷なら、俺にくれないか」

 それを聞いて、豪は目を見開いた。

「先輩……」

「と言っても、理恵が恵美を手放すことはしないと思うけど……でも二人きりで向き合う時間が欲しいなら、俺はいつでも恵美を引き取りたいと思ってる」

 豪はしばらく目を泳がせたかと思うと、目の前でビールに口を付ける鷹緒を見つめ、静かに口を開いた。

「……先輩が、そんなに子供好きなんて知りませんでした」

「どうかな……子供好きではないと思うけど。強いて言うなら責任感かな」

「責任感、ですか」

「おまえがもっとも欠落している部分だろ」

 皮肉に笑って、鷹緒は豪を見つめる。

「どうせ僕は……」

「乗りかかった船とはいえ、俺も父親だった時期がある。離婚したからおしまいだなんて出来ないし、おまえが帰ってきたから終わりだとも出来なかった。俺のこと邪魔だとは思うだろうけど、恵美のことくらいは頼ってくれてもいいんじゃねえの?」

 鷹緒の言葉に、豪は静かに顔を上げた。

「じゃあ……ひとつだけ甘えてもいいですか? お願いがあるんです」

 それを聞いて、鷹緒もまた真剣な顔で豪を見る。

「先輩、理恵とよりを戻してください」

 突拍子もない言葉に、鷹緒は顔を顰めた。

「は……?」

「僕がいまいち燃えないのは、先輩の優位に立てないから……いや、立って達成したから気持ちがブレてるんです。二人がもう一回付き合ったら恵美だって喜ぶだろうし、理恵も僕の良さがわかるだろうし、僕も奪う楽しみが……」

 テーブルを隔てて鷹緒の手が伸びる。その手は豪の胸ぐらをしっかりと掴んでいた。

「俺はおまえのおもちゃじゃねえんだよ。理恵も恵美も……そんな態度取るなら即刻別れろ。お望み通り、あいつらは俺が……」

 そう言ったところで、鷹緒は思い直して手を離した。

 豪はいつもの笑みを零すのかと思えば、辛そうに目を伏せている。それを見て、鷹緒は静かに口を開いた。

「おまえ、何考えてんだ? 回りくどいことしやがって」

「……僕には秘密があります。でもそれを先輩が知ったら、もう本当に僕は日本にいられないかもしれない……」

 ぴくりと眉を動かして、鷹緒は豪を見つめる。

「俺は……殴らないから言えなんて言わないぞ」

 鷹緒の言葉を聞いて、豪はやっと笑みを零した。だがその表情は辛そうだ。

「先輩……僕、理恵が好きですよ。大好きですよ。恵美のことだって可愛いと思ってます。それなのに、どうしてこんなことに……」

 いつになく落ち込む豪に、鷹緒は顔を顰める。

「……何があった?」

 ざわつく心を抑えきれずに、鷹緒は豪を見つめる。やがて豪は重い口を開いた。

「……帰ります」

「豪」

「すみません。まだ言えない……時間をください」

 逃げ出したい衝動に駆られている豪の肩を叩いて、鷹緒は空いた豪のグラスにビールを注いだ。

「……ビール飲めない……」

「うるせえ。酎ハイ頼んでやるから、とりあえず飲めよ」

 そう言うと、鷹緒は豪の飲み物を頼んで、うなだれる豪を見つめる。

「豪……頼むからしっかりしてくれよ」

 やがて漏れた鷹緒の本音に、豪は静かに顔を上げた。そこにある鷹緒の顔は真剣で、どこか痛々しい。

「先輩……」

「これからも一生、俺はおまえを許せないと思う。でも理恵には必要な人間なんだとも思ってる。俺から奪ったなら、ちゃんと責任を果たせ。もう子供じゃないんだろ。人の親なんだぞ」

 静かな鷹緒の言葉に、豪の目から涙が溢れる。

「馬鹿。俺のほうが泣きたいっつーの」

「すみません……」

 それからしばらくの間、二人は静かな酒を飲んでいた。

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