42-3. 特別な日 (3)
次の日。沙織が病室へ向かうと、そこに鷹緒の姿はない。同じ階のフリースペースへ向かうと、隅にあるテーブルでパソコンと資料に向かう鷹緒の姿を見つける。
「鷹緒さん!」
顔を上げた鷹緒の目に、不満そうに口を尖らせる沙織の姿が映った。
「おう……」
「おう、じゃないよ。安静にしててよ」
「べつに激しい運動してるわけじゃないし……」
鷹緒はまったく悪びれる様子もなく、資料の束をまとめて沙織に微笑みかける。すべてを許してしまいたくなるその笑顔に、沙織は苦笑した。
「もう、ずるいんだから……」
「なんか飲むか?」
近くの自動販売機を指差して鷹緒が言ったので、沙織は頷く。
「あ、うん。大丈夫。私が買うよ」
「人を過剰に病人扱いすんなっての」
鷹緒は眉を顰めながら立ち上がり、自動販売機に小銭を入れた。
「じゃあ、冷たい紅茶お願いします……」
「はい、どうぞ」
カップを差し出し、続けて自分のコーヒーを買って、鷹緒は席に着いた。目の前の沙織は、今日も愛らしい。
しかし鷹緒は溜まった仕事のほうも気になるようで、まとめたはずの資料にもう一度目を落とす。
「仕事……忙しい?」
「まあ、退院後の溜まり具合が心配だな……そっちはどう?」
「べつに相変わらずかな。明日から地方ロケでここには来られないのと、誕生日の日も、モデル仲間で花火見に行くことになったけど……」
鷹緒が気を遣うのはわかっていたが、言わないわけにもいかず、沙織は自分の誕生日に予定を入れたことを告げる。
すると鷹緒は、軽く息を吐いて頷いた。
「そっか……モデル仲間って、女だけ?」
「ううん」
その時、鷹緒と目が合って、沙織は身を竦める。
「ううん?」
「べ、べつにタク君とかレオ君とか、うちの事務所の子ばっかりだよ。麻衣子や綾也香ちゃんもいるし……」
「へえ……」
「あ、もしかして妬いてる?」
嬉しそうに笑う沙織に、鷹緒は口を曲げる。
「妬いてるというより、面白くないのは確かだけど……まあ女だけよりは安心かな。俺が連れて行ってやることも出来ないし……」
明らかにふてくされているような鷹緒を見て、沙織は嬉しさを隠しきれないように笑顔が止まらない。
「大丈夫。浮気なんかしないし。でもだから、誕生日の日は来られないし、鷹緒さんも気遣ってくれなくていいからね?」
「……羽目外すなよ」
「はーい」
「俺の分まで祝ってもらえ」
「うん」
それからしばらく話をした後、沙織は去っていった。
沙織が去ってから、鷹緒は資料やパソコンを小脇に抱え、病室へと戻っていく。
夕食を終えた時間で、院内の廊下は静かである。そこを歩いていると、鷹緒は向こうから歩いてくる人物に、ふと驚いて足を止めた。
「……どうして」
ほんの数メートルの距離で、相手もまた立ち止まった。鷹緒と同じような細身のシルエットで、パジャマ姿である。
「驚いたな……こんなところでおまえと会うとは」
相手の言葉に、鷹緒は目を伏せる。
「それはこっちのセリフだけど……どこか悪いんですか?」
「息子のくせに、随分よそよそしいんだな」
苦笑するその相手は、鷹緒の父親であった。政治家の父親は、今ではまったくといっていいほど会う機会すらない。
「親子だとは思っていませんから」
「……母さんが、連絡すると言っていたが……」
「まさかこういう話だとは思っていませんでしたよ」
「いや、別件で相談事があると言ってた。私はただの検査入院だからな。おまえは?」
「他人に言うほどの病気ではないので……失礼します」
露骨に嫌な顔をする鷹緒を引き留めることもなく、二人は互いに別の方向へと歩いていった。
廊下を挟んで対面する大部屋と個室。一番奥の個室の脇に“諸星政司”の名前が見えて、鷹緒はそこから数部屋前にある大部屋へと入っていった。
数歩歩けば会えてしまう人物に、ここから逃げ出したい衝動に駆られる。
「俺も大概ガキだな……」
自嘲しながら、鷹緒はベッドへ横になった。
また次の日。早速、鷹緒のもとに呼んでもいない客が来た。
「鷹緒君。久しぶりね」
地味だが綺麗にまとめた服装の女性は、鷹緒の義理の母親である。だがその印象を焼き付けないかのように、鷹緒はベッドから身を起こすものの目を伏せる。
「……ええ。すみません。何度か家に連絡頂いたようなのですが……」
自宅の固定電話に、その人から連絡が入っていたことを知りながらも、鷹緒は折り返しの電話をする気にもなれなかった。それほどまでに、あまり関わりたくない人物の一人でもある。
「ううん。ごめんね……ちょっと相談があって。お仕事のことで」
「……」
子供の頃からの癖のようなもので、危険回避のためとでもいうように、そこに鷹緒の意識はない。
「鷹緒君。大丈夫?」
心ここにあらずといった様子の鷹緒に、義理の母親の声が響く。鷹緒ははっと意識を取り戻して、目の前の女性を見つめてまた伏せた。
「すみません……少し疲れているみたいで」
「あ……そうよね。挨拶に来ただけなのに、病院で仕事の話なんてごめんなさい。そんなに急ぎでもないし、また連絡させてもらうわね」
「……ええ」
「お父さんは明日退院なの。長期休暇の間に検査しておこうって話だけだから、心配しないでね。鷹緒君は?」
「……気胸なので、あと数日で出られます」
「そう。大変だったわね……なにかあったら、いつでも頼ってくれていいんだからね」
「……ありがとうございます」
社交辞令のような会話が続き、鷹緒は逃げられないベッドに座り直す。
「あとで子供たちも来るんだけど……」
「明美さん」
その時、鷹緒がたしなめるようにそう呼んだ。そして続けて口を開く。
「すみませんが、俺も不意の入院で弱ってるみたいです。これ以上、誰が来てもあまり上手に受け答え出来そうにありません」
ぐっと抑えて鷹緒はそう言った。それを聞いて、義理の母親はそっと俯く。
「ごめんなさい。出過ぎた真似をして……でも本当、お父さんとは仲良くしてもらいたいと思ってるわ」
謝られて、鷹緒は深い溜め息をついた。
「……こちらこそすみません。俺がその都度、親父と向き合ってこなかったことが悪いと思ってます。でも俺にとって親父は……」
その時、携帯電話が震えたことで、鷹緒は条件反射のようにベッドから立ち上がった。
「電話なので失礼します。仕事の話というなら、復帰後に会社へご連絡頂けますか」
「……うん。わかったわ。また今度……ごめんなさいね」
鷹緒は会釈すると、電話が出来るフリースペースへと向かう。
すぐに大人げない態度に後悔するものの、素直にはなれなかった。