42-2. 特別な日 (2)
「鷹緒が倒れた」
大きな衝撃が沙織を襲う。
「えっ……」
「落ち着くのは僕のほうだよな。僕もまだ詳しくは知らないんだけど、意識もしっかりしてるし、命に別状はないらしいけど……」
その時、広樹の携帯電話が鳴り、すぐに応答する。
「もしもし。ああ、誰でもいいから多めに人員確保して。どうなるかわかんないけど、最低でも一週間は鷹緒の穴埋め出来るように……悪いね。よろしく」
すでに鷹緒がいない状態で仕事を進めることを想定しているらしく、手回しの指示を始める広樹の横で、沙織は顔面蒼白で俯いていた。
タクシーの車内で繰り返しかかってくる広樹の電話に、沙織は結局、何が起こったのかわからないまま、病院へ到着した。
「詳しい説明もないままでごめんね……」
病院の廊下を歩きながら、やっと電話から解放された広樹が言った。沙織はすがるような目で広樹を見つめている。
「いえ。でも、何が起こったのか全然わからなくて……」
「そうだよね。さっき鷹緒から胸が苦しいって直接連絡があってさ……そのまま病院に行くって言うから、僕も驚いたよ。あいつが自分から病院行くなんて、余程のことだと思ったから……その後の連絡じゃ、そのまま入院だっていうから、僕も慌てちゃってね……思わず沙織ちゃんも連れて来ちゃったけど、本当はもっと状況を把握した後のがよかったよね」
「いいえ! すぐに教えてくれて嬉しかったです」
「うん。よかった」
教えられた病室へ行くと、半身起こしたベッドの上で、笑っている鷹緒が見えた。
「鷹緒さん!」
その姿が見えるなり、叫ぶように呼んだ沙織に、鷹緒は驚いた表情を見せた。
「沙織……?」
そう言いながら広樹を見つめ、鷹緒は溜め息をつく。
「ヒロ。大ごとにしてるんじゃねえだろうな? まだ沙織連れてくる段階じゃねえだろ」
いつもと変わらぬ口調の鷹緒に、広樹はほっとするように苦笑した。
「ったく、病人なんだから悪態つくな。沙織ちゃんはすぐに知らせるべき人だろ」
「俺から連絡しようと思ってたんだよ……」
その時、沙織は鷹緒の側に立っていた理恵の姿にようやく気がついた。
「理恵さん……?」
「処置はしたし、心配ないって。一週間くらい様子を見て、退院出来るそうよ」
「あ……そ、そうですか。よかった……」
沙織は悲しくなった。仮にも鷹緒の前妻だった理恵のほうが、沙織よりも早く鷹緒に駆けつけることになっていたことに、自分は仕事中だったとはいえ不満すら募る。
「本人としてもだいぶ楽になったから、心配しなくていいよ。気胸だってさ」
鷹緒の言葉に、広樹は溜め息をついた。
「おまえ、煙草の吸いすぎなんだよ」
「関係ねえよ。しばらく管通ってるけど、なんなら外出用に小型の機械もあるらしくて、三日後くらいからは仕事も出来そう」
「馬鹿。これを機にゆっくり休め。ついでに他の検査もしてもらえ。社長命令」
「なんだよ。クソ忙しい時だって言って、休みも取らせてくれない鬼社長だったくせに」
「無理してまた倒れられたらこっちが困るんだよ。人員の手配はなんとか出来そうだから、心配せずにゆっくり休め」
「……じゃあまあ、デスクワークだけでも片付けるか。あとでパソコンと机の上にある資料一式持ってきて」
「おまえな……」
「じゃあ私はそろそろ戻ります」
その時、理恵がそう言った。
「ああ、悪かったな」
「いいわよ。じゃあお大事に」
去っていく理恵に、広樹は鷹緒を見つめる。
「思ったより元気そうでよかったよ……ったく、心配かけやがって」
「悪い。でも、自力で病院行けただろ? あいつよこさなくても大丈夫だったのに」
「誰か付き添いがいたほうが安心だろ。理恵ちゃんの手が空いててよかったよ。僕は会議あったからさ……でも見知らぬところで意識失ったんじゃなくてよかった。手続きは終わったんだよな?」
「ああ、全部理恵がやってくれた。副社長って肩書きがあってよかったよ」
苦笑する鷹緒に、広樹も察して苦笑した。同じ会社でなければ前妻という続柄しかなくなる理恵が、代わって手続きすることなど気分として考えられない。
「じゃあ、またあとで様子見に来る。何か必要な物は?」
「パソコンと資料」
「わかったよ……あとは? 着替えとか必要だろ」
「売店で買えるから困らないけど……地下スタに持って行ったばかりの着替えとかあるから、それ一式持って来てくれてもいいかも。ソファ上のバッグに入りっぱなし」
「了解。他にあればメールして。じゃあ、僕も一先ず戻るから」
そう言った広樹に、鷹緒は口を開く。
「ヒロ。ごめん」
「そう言うなら早く治せよ。こっちの心配はいらないから」
優しく微笑む広樹を見て、鷹緒も頷いた。
「ありがとう」
「素直なおまえも気持ち悪いな。じゃあな」
広樹は背を向けると、沙織に微笑みかけて去っていった。
残された鷹緒と沙織は、互いに言葉でも探すように気まずい雰囲気を流す。
「……そばに来て」
やがて鷹緒がそう言って、沙織は枕元に立つ。その時にはもう、沙織の目は涙で潤んでいた。
「……ごめん。心配かけたな」
「鷹緒さん……」
そっと腕を引っ張られ、沙織はベッドへ座る形になった。そんな沙織を、鷹緒は横から抱きしめる。
「誕生日も……外で祝ってやれそうにないな」
数日後に控える沙織の誕生日。無理に外出することは可能だが、そんなことをしても沙織は喜ばないことを鷹緒は知っている。
そんな鷹緒に、沙織は大きく首を振った。
「いいの。誕生日なんか、いつでも祝ってもらえるもん。鷹緒さんが生きててくれてよかった……」
「おいおい。ずいぶん大げさだな……勝手に殺すなよ」
「だって……本当に心配したんだよ。それにひどいよ。理恵さんが先にいることはしょうがないにしても、せっかくヒロさんが連れてきてくれたのに、来てほしくないみたいな……」
「ごめん。でも俺にだって心の準備ってもんが欲しかったし……おまえの前では、格好つけたいんだよ」
「だからって……」
「ごめん。でも本当、心配しないで。大丈夫だから」
「無事でよかった……」
「うん……ごめん」
沙織の髪を撫でながら、鷹緒は沙織を抱きしめる。心配をかけてしまったことはもちろん、沙織の誕生日を祝うことが出来ないのが悔しくも思える。
「もう謝らないで」
その時、沙織がそう言った。その声はもう切り替わったように、先程までの不安な様子は見受けられない。
「沙織……」
「誕生日はここでも祝ってもらえるし、退院したらちゃんと祝ってもらうもん。ね?」
自分を見上げる顔はどこか明るく、鷹緒はつられるように笑った。
「ああ。もちろん」
二人はそっとキスをして、そのまま話を続けていた。