40. 悪友
その日、鷹緒は家に帰るなりシャワーを浴び、リビングの定位置に座った。今日は持ち帰りの仕事もなく、沙織も地方ロケで出かけているので、久々に一人きりの暇な夜になりそうである。
そんな時、部屋の固定電話が鳴った。
「はい、諸星です」
『お、珍しい。家にいるのか』
男性の気さくな感じの声がして、鷹緒は目線を上げる。
「ん?」
『ウーッス。俺、五城。この間はどうも』
そう言われて、相手が幼少時代からの友人だということに気付き、鷹緒は微笑んだ。
先日、偶然会ったため、鷹緒も連絡しようと思っていたところだ。
「おまえか。どうした?」
『どうしたじゃねえよ。近々飲もうって言ったろ』
「ああ。なんだよ、携帯に電話してくりゃいいのに。同級生で唯一知ってるはずだろ、俺の携帯」
『おまえの場合、昼夜問わず仕事中が多いだろ。家にかければ確実じゃん』
「なるほどね……」
『それはさておき、今、一人で飲んでんだ。来ないか?』
「今から?」
『夜はまだまだこれからだろ』
鷹緒は壁時計を見上げる。まだというべきか、もうというべきか、二十二時前ということで、心にも余裕がある。
「若いな。まあ、俺も連絡しようと思ってたんだ。今日は暇だったから、ちょうどいい」
『そりゃあ、よかった。じゃあメールで地図送るから、今すぐ来いよ』
「了解」
電話を切るなり、五城から店の地図が入ってくる。割と近くらしいので、鷹緒は急いで向かっていった。
着いた店は洒落たバーで、五城はカウンターで飲んでいた。
五城の切れ長の一重瞼が、鷹緒を見つけて優しげに細められる。
「お、来た来た。諸星」
懐かしい顔に、鷹緒の顔にも笑みが零れた。
「お待たせ」
そう言いながら、鷹緒は五城の隣に座る。
「悪いな。突然呼び出して」
「構わないよ。何飲んでんの?」
「ジントニック」
「じゃあ、俺も同じので」
鷹緒が注文をすると、五城がふっと笑った。
「この間も驚いたけど、おまえ全然変わらないなあ。眼鏡はどうしたよ? 中坊時代のままなんじゃねえの? それとも当時が老けてたのか?」
「くだらねえ。でも、こっちも驚いたよ。おまえが少年サッカーのコーチしてるとは……中高はずっとバスケだったじゃん」
答えながら、鷹緒は店員に差し出されたグラスを受け取る。
「コーチは成り行きでね。じゃあ、まずは乾杯。おつかれさん」
「おう、おつかれ」
二人はグラスを合わせると、互いに飲んだ。
「で、最近どうよ?」
五城の言葉に、鷹緒は眉を顰める。
「どうって……特に代わり映えしねえなあ」
「そんなことはないだろ。最後に連絡もらったのは……あれだ。海外出張から帰ってきた直後」
「そうだっけ」
言いながら、鷹緒は煙草に火を点けた。
「そうだよ。新しい携帯番号教えてくれただけ。あれから飲みに誘っても全然だしよ」
「悪い。帰ってきた直後から一気にスケジュール押さえられたからさ……挨拶回りもしなきゃならなかったし」
「そうか。相変わらず忙しそうだな」
「そっちは?」
今度は鷹緒が尋ねて、五城は苦笑した。
「俺も特に代わり映えしてねえかも」
「なんだよ。奥さんとはうまくいってるのか?」
短い沈黙が訪れ、二人は同時に酒を飲む。
五城は鷹緒の幼なじみになる。社会人になってからめっきり会う機会はなくなっていたが、それでも友達の縁は切れていない。
「……一応な」
「なんだよ、その間は……」
「いやあ、至って順風満帆な人生ですよ。大手の商社に入社して、大学時代の彼女と結婚して、子供はいないけど満足で安定した生活だよ」
五城の言葉に、鷹緒は笑った。
「俺とは大違いの人生だな」
「おまえはその後どうなんだよ? カミさんと別れて、恋人は?」
鷹緒の結婚も離婚も知っている五城は、文字通り友達であるが、最近のお互いについてはまったく知らない。
「あー、うん」
「なんだよ、すかしやがって。この間の……親戚の子だっけ? どうせ付き合ってんだろ」
「……まあ、ね」
「ほら見ろ。仕事でも金がらみでもなく、おまえが好きでもない女連れ歩くなんて考えられないからな」
「親戚は本当だし……誰にも言うなよ。あいつ一応、芸能人なんだから」
それを聞いて、五城は吹き出すように笑った。
「言わねえよ。俺にしてみりゃ、おまえのほうがよっぽど芸能人だし。未だに母校じゃ伝説になってるぞ」
「何の話だよ?」
怪訝な顔をしながら、鷹緒は煙草の火を揉み消した。
「おまえは目立ってたからな」
「悪目立ちだろ。おまえのがモテてたイメージあるけど」
「俺はおまえのオコボレもらってただけだもん」
「はあ?」
「おまえに近付こうとして、俺を利用する女は多かったからな」
それを聞いて、鷹緒は苦笑した。
「それ横取りして食ってたのかよ。鬼畜が」
「少しくらい恩恵あやかったっていいだろ。気になってる女バンバンおまえに取られてた俺の気持ちがわかる?」
「知らん」
「ひでえ」
「ハハハハ」
昔話に華が咲いて、二人の酒も進む。
真夜中を過ぎて、沙織の携帯電話が鳴った。
地方ロケでホテルにいた沙織は、明日も早いためにベッドに入っていたのだが、電話が鷹緒からのようなので、慌てて起き上がる。
「もしもし!」
しかし、電話の向こうから声はしない。
「あれ? もしもーし。鷹緒さん、じゃないの?」
『もしもし……』
やっと鷹緒の声が聞こえて、沙織は電話を持ち直した。
「鷹緒さん?」
『おう、元気?』
「元気だけど……どうしたの? こっち忙しいだろうから今日は電話しないって言ってたのに」
『んー、ちょっと声聞きたくてさあ……』
そう言う鷹緒は、何処か呂律が回っておらず、いつもとは違う甘い声に聞こえる。
「鷹緒さん、もしかして……酔ってる?」
『おお、酔ってる酔ってる』
「珍しい……」
鷹緒が酔っているところなど見たことがない沙織は、単純に感じるままにそう言った。
『酔っ払った俺は嫌いか?』
「え? うーん……酔った勢いで、どうにかなっちゃったりするのは許さないからね」
『ハハッ。可愛いなあ』
そう言われて、沙織は照れながらも口を曲げる。
「やっぱり酔ってる……誰と飲んでるの?」
『五城だよ』
「え、五城さんって、あの幼なじみっていう? 二人で?」
『そうだよ……おう、五城。こっちこっち!』
何処かに行っていたらしい五城と合流したらしく、電話口から離れた鷹緒の声が聞こえる。
『お待たせ。吐いて楽になったわ。もう一軒行こうぜ』
『マジかよ。まあいいけど』
そんな声が聞こえ、沙織は顔を顰める。
「ちょっと、鷹緒さん!」
『おお、もう一軒行くことになったわ』
「もう一軒って……大丈夫?」
『大丈夫、大丈夫』
「ナンパしちゃ駄目だよ。逆ナンされても駄目だよ」
思わず言った沙織に、鷹緒は吹き出すように笑った。
『ハハハ。りょーかい。あとは?』
「うーんと、キャバクラとか、女の子がいる店も駄目」
『それも駄目なのか? でもさあ、沙織……』
急に甘えたような声が、沙織の脳裏を刺激する。
「え?」
『俺は今、女はおまえしか見えてないから、あんま気にしなくても大丈夫だよ』
酔っているとはいえ、鷹緒のそんな言葉を聞いて、沙織は満面の笑みを零す。
「私もだよ。大好きだからね! 鷹緒さん」
それを聞いて、電話の向こうの鷹緒は目を見開いた。まるで一気に酔いでも醒めたように、急に照れて赤くなる。
『諸星。早く行くぞー』
五城の声がして、鷹緒は電話を持ち直した。
『あ、ああ。じゃあ、えっと……ごめん。酔っ払ってて』
本当に酔いも醒めたようで、すっかりいつも通りの鷹緒の声に変わっている。
「ううん、嬉しかったよ」
『うん。じゃあ……』
「待って。鷹緒さんも言って」
『え?』
「だから……好きって言ってほしいなって」
そう言われて、鷹緒はたじろいた。
『ここ、外だぞ?』
「でも急に電話かけてきたんだし。酔ってる勢いで言ってくれても……」
『諸星! 早くしろっての。置いてくぞー』
急かす五城の声が聞こえるが、沙織は許してくれそうにない。
鷹緒は深呼吸すると、静かに口を開いた。
『……好きだ』
それはお互いに、呼吸が止まるほどの衝撃がある。
『じゃあ、遅くにごめん。おやすみ……』
そこで電話が切れ、沙織は放心状態のままベッドに寝そべった。無意識に緩んでしまう今の顔は、誰にも見せられない。
「もう。鷹緒さんってば、反則だよ……」
思ったよりも利いたパンチのある鷹緒の言葉は、沙織の心を輝かせる。
「眠れそうにない……」
沙織はそう言いながらも、鷹緒の嬉しい言葉と行動に、満面の笑みを浮かべたままぐっすりと寝入っていた。