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38. 白薔薇のゆくえ

 夏は嫌いだ――。

 俺は額に滲む汗を拭いながら、時計を見つめた。

「諸星さん。ゲストの到着が遅れるようなので、休憩にしちゃいましょうか」

 スタッフにそう言われて、俺は頷いた。今日は屋外での撮影なのだが、もともと被写体であるゲストの到着が微妙と聞いていたので、遅刻は想定内である。

「そうだな。少し早いけど、食事兼ねて休憩にしよう」

「わかりました」

「じゃあ俺、行きたいところあるから、ちょっと出てくる」

 そう言い残して、俺は真夏の太陽が降り注ぐ外へと飛び出した。

「あっちー……」

 無意識に出てくる言葉はそればかりで、俺はひんやりとした花屋へと入っていった。

「いらっしゃいませ」

 店員に出迎えながら、俺は花屋の中をぐるりと見回す。目当ての花は、ケースの中で咲いている。

「プレゼントですか?」

 そう言われて、俺は苦笑した。脳裏に出てくるのは沙織の顔である。もうすぐ沙織の誕生日ということもあり、無意識に下調べをしようという頭が働いているが、今日の用事はそれではなかった。

「いえ……簡単でいいので、その花を包んで頂けますか」

 柄にもなく花束を手にして、俺は足早にとある場所へと向かっていった。


 そこは俺にとってなんの感情も湧かない場所で、それでいて大切な場所である。最後に来たのは去年の同じ日。海外出張から帰ってきた報告も兼ねての訪問だった。

 ある場所で足を止めると、俺はそこに刻まれた“諸星家”と書かれた墓石を見つめた。俺の実母が眠る場所だが、母親はここに入りたかったのか、入ってよかったのか、今でもわからない。

 ふと視線を落とすと、みずみずしい真っ赤な薔薇の花が生けられているのを見て、俺は視線を逸らした。自分の手には、白い薔薇の花束。なんだか妙な気持ちになる。

「親父が来たのか……」

 ぼそっと呟きながら、俺は花束ごとそこに置いた。親父の花と一緒にすることは、母親にとって野暮なことだと思ったのだ。

 手を合わせて母親を思うと、すぐに立ち上がる。

(……また来るよ)

 心でそう呟いて、俺は墓地を後にした。

 母親の死から、もう何年が経ったのだろう。あまりに遠い日のことで、思い出すのは母親の命日よりも、葬式の思い出のほうが未だに強い。

「暑い……」

 夏は嫌いだ――そう思いながら、俺は寺にある人工池の縁に座り、そばにあった自動販売機で買ったばかりのお茶に口をつけた。

 ふと物思いに耽ると、あまりの暑さに意識が飛んでしまいそうになる。


 あの日――俺は泣かなかった。高学年とはいえまだ小学生。実の母親が死んだというのに、まるで実感なんてなく、自分の心だけどこかに置いていかれたように、必死に現実を受け入れようとしていた。前々から覚悟はしていたのだが、心にはぽっかりと穴が空いている、そんな感じだ。

「美容院に行って来なさい」

 放心状態の幼い俺にそう言ったのは、父親だった。何かの聞き間違いだと思ったのだが、父親は札を渡してもう一度言った。

「通夜までに、髪を整えてくるんだ。わかったな?」

 父親の言葉に軽く頷き、俺は行きつけの美容院へと向かい、髪を整えた。べつに今までだってぼさぼさ頭でもなかったのだが、気がつけば綺麗に整えられ、子供用の礼服に着替えさせられ、葬式会場の片隅に座らされていた。

「まだ小学生でしょう? 可哀想に……」

 どこからかそんな声が聞こえ、俺は眉をひそめた。そうか、俺は“可哀想な子供”になったのか。そう思い知らされた瞬間である。

 通夜の席で、親父の涙声が聞こえた。周りには親戚よりも政治家や企業の重役が多く、情けないまでの父親の涙声につられるように、すすり泣く声が聞こえる。だが、父親の目から涙などは一切流れていなかった。

「諸星さん。大変だろうけど、気を確かに……」

「ありがとうございます」

 輪の中心にいる父親を遠目で見つめながら、俺は通夜の会場から真っ暗な外を見つめた。

「鷹緒君……」

 その時、女性のそんな声が聞こえて、俺は振り返る。そこにいたのは親父の秘書という女性だった。何度か会ったことがあるものの、そう面識はない。

「大丈夫? 困ったことがあったらすぐに連絡してね」

 その時すでに、親父とその人に関係があったのかはわからない。だが俺はなんだか嫌悪感すら感じていて、その人だからというわけではなく、今は誰ともしゃべりたくなかった。

 だから俺は、不躾に返事すらせず、逃げるように会場を出ていったのである。


     ◇     ◇     ◇     ◇


 そんな遠い日を思い出しながら、俺は静かに寺を出ていった。

 するとその時――狭い通り向こうのビルの出入口で、考え込むように立っている沙織の姿を見つけた。

「沙織……?」

 思わず声をかけると、沙織は慌てたように目を泳がせている。

(そうか、どこかで俺を見かけて、ついてきたのか――)

 そう思うと、咎める気になどなれずに笑みが零れた。

「あの……」

「暑いな。そんなところで俺を待ってたのか?」

「……ご、ごめんなさい。花屋さんから出てくるの見えて、思わずついてきちゃった……」

 そんな前からいたのかと思いつつ、花束を見れば彼女としては気になるところなのだろう。

「そうか。もっと早く声かけてくれたらよかったのに……」

 言ってはみたものの、一人で墓参りしたかったのは事実かもしれない。だが今、不意に沙織が現れたことで、確実に俺の心は癒やされている。

「なんか、声かけづらくて……」

「そうか……そろそろ戻らないと」

「わ、私も行っていい? 撮影場所までは行かないから……」

「いいよ。それよりおまえ、どうして来たの?」

 歩きながら尋ねてみると、沙織は目を伏せる。

「今日、お休みだから……外で撮影だって聞いてたから、お昼時であわよくば一緒にごはんとか出来るかなって、とりあえず様子を見に行こうと思ってたら、鷹緒さんが花屋さんから出てくるのが見えて、そのまま尾行を……」

「俺が浮気してるって?」

「違うよ。でも、薔薇の花束なんて持ってたから……お墓参りなんだよね?」

 恐る恐る言う沙織が、可愛らしいと思う。

「うん。母親の命日なんだ」

「そう、なんだ……」

 家族の話を避けている自分に触発されるように、沙織もまた気まずそうに返事をするだけだ。

「……好きだったんだ。薔薇の花が」

「え? あ、お母さん?」

「うん。だから遺言じゃないけど……死んでも菊の花とかは嫌だとか言ってて。まさかあの人がそれを覚えてるとは思わなかったけど……」

 意味深に話を切ってしまい、俺は目を伏せた。

“菊の花より薔薇がいいな。死んでしまったら、白い薔薇が……あ、でもお父さんからは、いつでも赤い薔薇が欲しいわ”

 病室で屈託なく笑う母親の顔は、今でも忘れられない。

「あの人って……」

「沙織」

 話を遮るように、俺は沙織を見つめた。

「え……?」

 不安げに見上げる沙織に、俺は微笑む。

「まだ時間あるから、誕生日プレゼント見に行こうか」

「え?」

「もうすぐおまえの誕生日じゃん。欲しい物探しとこうぜ」

 そう言うと、沙織も付き合うように微笑んでくれた。

「うん」

 軽く頭を撫でると、同じ歩調で歩き出す。沙織の存在が今の俺を支えてくれている……そう実感している。

 やがて俺は、静かに口を開いた。

「……俺、夏が嫌いだったんだ。母親の命日もあれば、あんまりいい思い出もないし……でもおまえの誕生日があるおかげで、そんなの吹っ飛びそうだよ」

 そう言うと、沙織は心底嬉しそうに笑った。

「嬉しい。今年の誕生日は、去年より一緒にいられるよね?」

「ああ。忙しい時期だから、休みは取らせてもらえなかったけど……でも夕方からは、丸々空けてあるからな」

「楽しみだよ」

「俺も」

 沈みかけた心に気付くと、常に沙織が俺を引き上げてくれる。不甲斐ない俺に、すでに苦労しているはずだけど……。

 沙織――ずっと隣にいてほしい。それが今の俺の本心なんだよ。

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