35-2. 梅雨空の下で (後編)
「それはそうとおまえ、来週のスケジュール修正案、まだ出てないんだけど」
続けて言った広樹に、鷹緒は目を見開いた。
「そうか、それもやらなきゃいけないのか……」
「ったく、こっちはギリギリまで待ってやってるんだから、しっかりしろよな。牧ちゃんも困ってたぞ」
「了解……」
「あと来月の予定も。どうせもう修正出てんだろ」
「んー、わかった」
片手で頭を抱えながら、鷹緒はスケジュール帳を開く。近日中の予定はもう真っ黒で、軽い打ち合わせすら入る余地が見られない。
「相変わらず売れっ子ですねえ。そろそろスケジュール管理、デジタル化しろよ」
「出先で打ち込む時間のがもったいない」
「おまえのほうが秘書いりそうだな」
「そうだなあ。もう俊二も助手ってわけじゃないもんな」
そんな会話に、突然俊二が振り返る。
「僕、鷹緒さんのスケジュール管理くらいなら出来ますよ」
「いいよ。おまえだってもう独り立ちしてんだから……それに月末のおまえのテンパり具合見てたら、とてもじゃないけど頼めない」
鷹緒の言葉に、俊二は口を曲げる。
「そりゃあ、月末はこっちも忙しいですけど……」
「気にすんな。今までだってやってこれたことだから」
そう言って、鷹緒はパソコン画面へと視線を戻した。
それから数時間後、鷹緒は仕事を終えて立ち上がった。すでに社内には数人しか残っていない。
するとそこに、社長室から広樹が出てきて口を開いた。
「みんな。悪いけど僕、今日は先に帰るからね」
「なんかあるのか?」
帰り支度をしながら、鷹緒が尋ねる。
「家でちょっとゴタゴタしてて」
「え?」
「ああ、べつにトラブルとかそういうんじゃないから。おまえも帰るの?」
「うん」
「そう。じゃあ一緒に出る?」
「ん。じゃあ、お先――」
そう言い残して、鷹緒は広樹とともに会社を出ていった。外はもう真っ暗で、昼間ほどではないが雨が降っている。
「梅雨って感じだな……」
鷹緒の言葉に、広樹は微笑む。
「でも雨ってなんか、ワクワクしない?」
「どこぞの中坊だ」
呆れた様子の鷹緒も、笑った口元は柔らかい。
「ジャージ姿もサマになってきたじゃない」
「アホか。家の近所ならともかく、こんな格好でオフィス街歩くなんて、なんの罰ゲームだよ」
「じゃあとっとと帰れ……と言っても、どうせデートなんだろ? 仕事もそこそこに帰るなんて」
「お見通しか……」
「まあね」
「あーあ。何処で会おうかな」
溜め息をつく鷹緒に、広樹は苦笑する。
「モデルちゃんと付き合うのも大変だな」
「それはおまえも知ってるだろ」
「痛いなあ……あ、ジャージだけど、洗っておまえんち置いといて」
そう言われて、鷹緒は首を傾げた。
「え、なんで?」
「近々取りに行くから」
「ええ? いいけどおまえ、アポなしで来んなよ」
「僕、彼女がいても気にしないよ」
「こっちが気にするっつの」
「あはは。じゃあまあ、とりあえず置いといて。じゃあね」
駅が見えると、広樹は手を振って去っていった。
そんな広樹を見送って、鷹緒は沙織の家へと歩き出しながら電話をかける。
『もしもし!』
すぐに出た沙織の声に、鷹緒は軽く頷いた。
「おう……今、会社出たとこ。そっちすぐ出れる?」
と言ったところで、自分の姿に溜め息をつく。
『うん、出られるよ』
「いや、やっぱそっち行く。俺の着替えあったよな?」
『あるけど……うち、食べるもの何もないよ?』
「んー、着替えて出かけてもいいし、なんなら何か買って行こうか?」
鷹緒がそう言うと、沙織の明るい声が聞こえた。
『うん! よかったら、たまには家でゆっくりしたいな』
普段から我慢している沙織の気持ちが痛いほど伝わって、鷹緒は目を伏せる。
「わかった。何が食べたい?」
『なんでもいいよ』
「そういうのが一番困るんだよなあ。あっさり? こってり?」
『さっぱり』
「……わかった。じゃあデパ地下寄って行くから待ってて」
『うん!』
明るい沙織の声に、鷹緒は軽く微笑むと、駅に隣接したデパートの地下へと入っていった。
それからしばらくして、沙織の部屋に鷹緒がやって来た。沙織はそれを嬉しそうに出迎える。
「おかえり……なんて」
顔を赤らめて出迎える沙織に、鷹緒は苦笑するように微笑んだ。
「ただいま」
まるで新婚夫婦のように、二人は部屋の中へと入っていく。
「雨大丈夫だった?」
「ああ。腹減った?」
「うん、ちょっと……何買ったの?」
「いろいろ買ってみた」
買い物袋を受け取って、沙織はその中を覗いてみた。中には数種類の総菜が入っている。
「お総菜買ったんだ。チョイスのセンスいいね」
「そう? 気に入った弁当がなくて」
「今、お皿出すね」
嬉しそうに微笑みながら、沙織はテーブルに総菜を並べ、皿を差し出す。
「なんかお風呂上がりみたいだね」
ジャージ姿の鷹緒を見て、沙織が笑った。
「悪かったな。気合い入ってない格好で……」
「新鮮でいいよ? 麻衣子たちもカッコイイって言ってたもん」
「相変わらずアホなことを……で、おまえは?」
そう聞かれて、沙織は目を逸らす。
「だから……新鮮でいいってば」
いちいち赤くなる自分が嫌で、沙織は座りかけた身体を起こして冷蔵庫へと向かう。
「……カッコイイとか何だとか、俺は彼女一人に言われりゃ、それで満足なんだけど」
ぼそっと言った鷹緒の声が届いて、沙織は振り向いて笑う。
「鷹緒さんは言わなくてもカッコイイよ。でも他人が言うのも嬉しい。だって自慢の彼氏だもん」
屈託なく笑う沙織に、鷹緒もそっと微笑む。沙織も自慢の彼女だ……と、心では思っても口には出来なかった。
「なに笑ってるの?」
口をつぐんだ鷹緒に、沙織は首を傾げながら隣に座る。
「いや……腹減った。食べよう」
「うん。いただきます」
食べ始めた二人は、小さめの音量で流れたテレビを見つめながら、他愛もない会話を続ける。最近あった仕事のこと、友人のこと、話が尽きることはないようだ。
「よかった。今日はこうして会えて……」
やがて沙織が、ぼそっとそう言った。
「そうだな。たまにはこうしてゆっくり出来るといいな」
「うん」
食事を終えた沙織は、鷹緒の腕を抱くようにすり寄る。
「なに?」
未だ食事を終えていない鷹緒は、甘える沙織に苦笑して尋ねた。
「充電してるの」
「へえ……?」
「だってこのところ毎日のようには会えないし、ただでさえ梅雨で気持ちまで落ち込んじゃってるんだから」
そう言われて、鷹緒はふと窓の外に目をやる。まだ雨が降っており、吹き込む雨がパタパタとベランダの手すりを叩いている。
「確かに……これがもうしばらく続くんだよなあ」
ぼうっとして目を伏せる鷹緒を、沙織は膨れっ面で見上げた。
「あ、仕事の顔してる」
「目ざといな……ちょっと考え事してただけだろ」
「どうせ雨の中どんな構図で写真撮るかとか、そういうことでしょ」
沙織の言葉に、鷹緒はふっと笑う。
「おまえ、だいぶ俺のことわかってきたな」
「全然嬉しくないんですけど……」
膨れる沙織に、鷹緒は箸を置いて、その身体を抱きしめた。
「ちゃんとおまえのことも考えてるっつーの」
「……うん」
本当に充電でもするように、沙織は鷹緒の背中に手を回す。
しばらく抱き合うと、やがて鷹緒は沙織から離れた。
「さて、じゃあそろそろ行こうかな」
「え……もう?」
「俺、明日から出張だから」
「ああ、そうだっけ……」
今までの幸せの時間が一瞬にして吹き飛んだように、沙織はしゅんと肩を落とす。
そんな沙織の頭を、鷹緒が軽く撫でた。
「明後日には帰るから、そんな顔すんなって」
「うん……」
沙織の唇にそっとキスをして、鷹緒は微笑む。
「おまえも仕事だろ。無理せず頑張れよ」
「うん……明日は収録があるんだ。少しはスタジオの雰囲気にも慣れてきたよ」
「そっか。まあ肩肘張らずに、いつも通りでいること」
「はい。いつも通りプラス、ちょっと頑張る」
「おう。じゃあな」
「あ、待って……」
玄関に行きかけた鷹緒の腕を、沙織が取って言った。
「うん?」
「あの……コンビニ行きたいの。途中まで送らせて」
「すごい雨だぞ? 濡れるから明日にしろよ」
「ううん。今日欲しいの。行こう」
半ば強引に、沙織は鷹緒とともにマンションを出ていく。もちろんコンビニに行くなど口実だったが、もう少し一緒にいたかった。
「本当、雨ばっかりで憂鬱になっちゃうけど……新しい傘買ったんだ」
自慢げにそう言いながら、沙織は新しい傘を見せる。明るい色で大きめの傘だ。
「へえ」
すると鷹緒は沙織の傘を持って、自分の持っていたビニール傘を閉じる。
「え?」
「コンビニまで送る」
相合い傘の形で、二人は雨の中を歩いていく。
「け、軽率な行動は……」
「折れてんだよ」
鷹緒が自分の傘を見せると、確かに数本の骨が折れ、ビニール部分がめくれ上がっている。それを見て、沙織は苦笑した。
「送るのは私なのに……」
そう言いながらも、沙織は嬉しさを隠しきれないでいる。
「いいけど本当、帰ったらあったかくしろよ」
「うん」
やがて通り向こうにコンビニが見えて、二人は信号待ちで立ち止まった。
「……もう着いちゃったね」
寂しそうに目を伏せる沙織の視界が、突然遮られた。
「え……」
ふと顔を上げると、傘が顔の前で傾いており、その隙に温かな鷹緒の唇が、沙織の頬に触れた。
それはほんの一瞬の出来事で、沙織には何が起こったのか瞬時に判断出来ないほどである。
「た、鷹緒さん?!」
やっと状況を把握した沙織は、真っ赤な顔のまま鷹緒を見上げた。
「悪い……ちょっと我慢出来なくて」
苦笑しながら、鷹緒は自分の傘を広げる。
すぐに信号が青信号に変わったので、二人は渡り始めた。
「信じられない……鷹緒さんが軽率な行動はやめようって言ったのに、外でこんなことするなんて」
「軽率だったけど、誰も見ようがなかっただろ?」
確かに先程の状況では、後ろはビルが壁となっており、横には鷹緒がいた。前と反対側の横部分は傘で塞がれており、一瞬の間に傘の中で二人が何をしていたのかなど見せようがない。
「そうだけど……」
「ごめん……嫌だった?」
不敵に微笑む鷹緒だが、少し後悔の念も見られる。
「嫌じゃないよ!」
思わず勢いで言った沙織に、鷹緒はふっと微笑んだ。
「おまえ、可愛すぎでしょ」
鷹緒の言葉に反応出来ないでいる間に、二人はコンビニの前に着いており、すかさず鷹緒は手を上げる。
「じゃあ、ここで。早く帰れよ」
「う、うん……」
「おやすみ」
余韻もなく去っていく鷹緒の背中を見つめながら、沙織は火照る顔を押さえた。
そして軽く傘から顔を出すと、静かに降り注ぐ雨を見上げてみる。
「雨もいいかも……」
沙織はそう呟くと、いつまでも収まらない顔の火照りを隠すように、傘を傾ける。
とてもこんな顔で店に入ることなど出来ず、沙織はそのままコンビニにも寄らずに家へと帰っていった。