35-1. 梅雨空の下で (前編)
「雨か……」
物憂げに、牧が事務所の窓から外を見つめる。季節は梅雨の時期に入っており、このところ毎日のように雨が続いている。
「憂鬱?」
隣にやって来たのは、社長の広樹である。だがその顔は、からかうように楽しげな笑みを浮かべていた。
「ヒロさんは憂鬱じゃないんですか?」
「僕は雨も好きだよ」
「どうしてですか?」
「理由なんてないけど……お、そんなことより、色男たちが帰ってきたみたいだよ」
通り向こうから傘も差さず走ってくる人影に、広樹と牧は苦笑する。
「本当だ。やだ、傘なかったのかな」
やがて帰ってきたのは、鷹緒と俊二だった。二人ともずぶ濡れ状態で、全身から水滴が滴っている。
「ちょっと待って!」
社内に入って来るなり、牧が強く止めてタオルを差し出した。
「それは俺たちを気遣っての言葉じゃねえよな?」
苦笑する鷹緒に、牧もまた苦笑して返す。
「だって絨毯にしみが出来ちゃうと思って……二人して傘持ってなかったんですか?」
「それがさ、鷹緒さんが出先で人に傘あげちゃって、それで僕と相合い傘ってことになったんだけど、僕のビニール傘、ものの数歩で折れちゃって……」
「ついてないね……大丈夫?」
「僕は大丈夫」
温かな雰囲気が流れる牧と俊二の横で、鷹緒が苦笑して視線を送る。
「お熱いことで」
ぼそっとそう言うと、鷹緒は自分の席へと向かった。
「ックション!」
席に着くなりクシャミが出て、近くにいた彰良が露骨に嫌そうな顔をする。
「鷹緒。おまえ、風邪移すなよ」
「風邪じゃないし……でも寒いかも」
そこに、手が空いていた万里が、コーヒーを入れて差し出した。
「コーヒーどうぞ。あと、ちゃんと身体拭いたほうがいいですよ?」
「サンキュー。うん、着替えここにあったかな……」
「私のでよければ、Tシャツ持ってますけど」
「おまえのサイズが合うと思う? 大丈夫。何かしらあるだろ」
そう言って、鷹緒は壁に備え付けられた棚を開ける。正方形の棚がいくつも並んでおり、そこは社員一人一人のロッカーとなっているが、自分の棚を開けてもろくな物が入っていない。
「うーん。地下スタジオなら、なんでもあるんだけどな」
とはいえ、もうこの雨の中を出ていく気にもならず、とりあえず鷹緒はシャツを脱いで上半身裸になった。
「ちょっと、諸星さん! こんなところで……」
女性社員はそう言いながらも、その視線はしっかりと鷹緒を捉えている。
だがそんな中で、鷹緒は気に留める様子もなく、新しいタオルで軽く身体を拭いて肩にタオルをかける。
「キャー。諸星さんってば社内で大胆」
そう言ったのは、社長室から出てきた広樹である。つまらない冗談で、お互いに眉を顰めながら目を逸らした。
「しょうがねえだろ、頭の先からつま先までずぶ濡れなんだよ。それよりおまえ、なんか服持ってない?」
「あるから社長室行け。ったく、客に見られたらどうするんだ。海の家じゃないんだぞ」
「あー、すんません」
反省する様子もなく、鷹緒は社長室へと入っていく。広樹もそれに続いた。
「ックショイ!」
二度目の大きなクシャミをしながら、鷹緒は社長室の窓につけられたブラインドを下ろし、ズボンを脱ぐ。
「大丈夫かよ?」
「着替えればな」
身体を拭いている鷹緒に、広樹が棚からTシャツとジャージを出して差し出す。
「汗臭い……」
「ジョギング用だから仕方ないだろ。Tシャツは洗ったやつだよ」
鷹緒は少し嫌そうにしながらも、広樹の服に袖を通した。
「俊二は大丈夫かな?」
鷹緒の言葉に、広樹は頷く。
「着替え持ってるみたいだからな。おまえもそのくらい置いとけよ」
「地下スタなら豊富にあるんだけど……それにコンビニに行けば何でもあるし」
「ったく、都会っ子だなあ」
「おまえに言われたくない……じゃあ、服借りるな」
そう言うと、鷹緒は自分の席へと戻っていった。
「わあ。諸星さんがジャージって、なんか新鮮」
社員の女性陣の言葉に、鷹緒は苦笑する。
「そう?」
「鷹緒。おまえ、やる気ねえ格好だな」
彰良がそう言って、漢方薬の包みを投げてきた。
「なんですか? これ」
「風邪の引き始めに」
「だから風邪じゃないってのに……」
「いいから飲んどけ。漢方だから」
「ハイハイ……」
言われるままに漢方薬を飲んで、鷹緒はデスクワークに取りかかる。
すると、隣の席に俊二が戻ってきた。
「俊二。おまえ、着替え持ってたんだ?」
「一応置いてあります。急に駆り出されることあるんで」
「まあ、そうだよな」
「鷹緒さんは地下スタジオになんでもありますもんね」
「おかげでこっちには何もないってことに気付いたけどな……」
二人はくすりと笑うと、パソコンへと向かう。
今日は雨ということもあってか社内は人が多く、それでいて客は少なく静かだ。
しばらくすると、鷹緒の右隣に広樹が座ってきた。
「こっち側の全員が揃うって、珍しくない?」
広樹の言葉に、鷹緒は横目で広樹を見つめる。
企画部はいつもほとんど人が出払っているが、今日は部長の彰良を先頭に、広樹、鷹緒、俊二、万里と、人が並んで座っている。それは珍しいことだった。
「なに? 社長室に一人は寂しいんだろ」
「節電です」
「嘘つけ」
「それに今は、重要資料まとめるわけじゃないから」
そう言うと、広樹もまた書類に目を通しながらパソコン画面へと入力作業を進める。
「おまえ……そろそろ秘書でも雇ったら?」
鷹緒の言葉に、広樹は眉を顰める。
「こんな弱小事務所社長の僕に?」
「弱小ってほどの規模じゃなくなってるだろ。秘書じゃなくても、とっとと人員増やせっての」
「あ、それ俺も賛成」
奥から彰良が顔を出して言うので、広樹は口を曲げた。
「わかってますよ。でもどうも時間がなかったりして、今年も新卒取れなかったし……」
「まあ、うちは業務提携してる会社もあるし、あんまり辞めるやつ少ないからいいかもしれないけど、一人でも欠けたらヤバイんだからな?」
脅すような彰良の言葉に、広樹は苦笑する。
「ひい……わかってますよ。でもなんか、みんな頑張ってくれちゃうから回ってていいかなって」
「だからって少なくとも今やってるそれは、おまえの仕事じゃないと思うけど? おまえはなんでも自分でやり過ぎ」
広樹がやっている仕事に、鷹緒が口を出す。
「……そうだね。考えてみるよ」
溜め息交じりの広樹の言葉を聞いて、一同は集中を仕事に戻していた。
それから数時間後。麻衣子を筆頭に、沙織と綾也香が入ってきた。
「おつかれさま」
受付で出迎えた牧の言葉に、企画部の面々も顔を上げる。
「今日は社員さん多いですね」
屈託なくそう言う麻衣子の後ろで、いつもはうるさいほど元気な綾也香が気まずそうに顔を背け、その横で沙織が鷹緒に向けて微笑んだ。
「もうそんな時間か……」
鷹緒は卓上時計を見つめると、静かに立ち上がり、沙織たちに近付いていった。
「おつかれ。今日は雑誌の撮影だっけ?」
「おつかれさまです。うん、三人一緒」
沙織の言葉に頷いて、鷹緒は静かに微笑む。
「まあ……雨も降ってるし、ゆっくりしていけよ」
人の目もあって、鷹緒はそれだけを言うと、廊下に出て喫煙室へと入っていった。
それからほんの少しして、鷹緒がガラス張りになった喫煙室から外を見つめていると、沙織がやって来た。
「おつかれさま……」
少し遠慮がちに入ってきた沙織に、鷹緒は苦笑する。
「あんま人目につくなって言ってるだろ」
鷹緒のきつい言葉に、沙織は一瞬にして口をつぐんでしまった。
「う、ん……」
「まあ社内だから、いいといえばいいけど……なに?」
沙織がやって来た理由はわかっていたが、鷹緒は敢えてそう尋ねた。それと同時に、目に見えて傷ついている沙織を見て、自分の中途半端な態度に後悔せずにはいられない。
「なにってこともないよな。ごめん……」
続けて鷹緒が言うと、沙織は苦笑した。
「ううん。いくら親戚とはいえ軽率だったよね……私、ユウのことで痛い目見たのに、全然進歩ないんだ……ごめんね」
痛々しいような沙織に目を伏せると、鷹緒は窓際の椅子に軽く腰をかける。
二人の交際が秘密である以上、人前で軽率な行動を取るのはやめようと決めたばかりだが、お互いそう簡単に出来るはずもない。
「……今日はもう終わり?」
鷹緒の言葉に、沙織は頷いた。
「うん。麻衣子たちも、もう帰るって」
「そう……雨だから気をつけて帰れよ」
そう言われて、今日は鷹緒と会えないことを悟り、沙織は頷いて背を向ける。
「わかった。じゃあ、ね……」
「沙織」
去っていく沙織を、鷹緒が呼び止めた。
「え?」
「……あと二時間くらい待てるなら、一緒に食事でもしようか?」
「いいの?」
すかさず言った沙織に、鷹緒は苦笑する。
「こっちこそ。あと二時間もかかる上に、俺、ジャージなんだけど……」
恥ずかしそうに言った鷹緒を見て、沙織はただ単純に鷹緒が拒否をしたわけではないと知った。
「そういえば、ジャージなんて珍しいね」
「傘なくて、びしょ濡れで帰ってきたから……ヒロの借りたんだ」
「そうなんだ。なんか体育の先生みたい」
「せめてスポーツ選手とか言ってくれる?」
「あはは」
いつも通りの笑顔に戻って、二人は微笑む。
「まあ……終わったら電話するから、一度家に帰ったら?」
「そうだね。そうする」
「ああ。じゃあまたあとで」
「うん」
去っていく沙織の背中を見つめると、鷹緒も微笑んで社内へと戻っていった。
「おーおー、幸せそうな顔しちゃって」
戻ってきた鷹緒に、からかうように広樹が言う。鷹緒は無言のまま受け流して、パソコン画面へと向かった。