34. Father's Day
六月中旬のある日。夕暮れ時に、沙織は鷹緒へ電話を入れた。
「沙織です。今、大丈夫……?」
『ああ。ちょうど休憩中だけど』
鷹緒の声が聞こえ、また休憩中という言葉に、沙織はほっと胸を撫で下ろす。
「今日、雨で早くロケ終わっちゃって、もう帰れることになったんだけど……」
『そうなんだ? こっちは通常通りだけど……二十時過ぎには帰れるかな』
「会える……?」
恐る恐る尋ねてみると、鷹緒の笑顔が見えるように息が漏れた。
『ははっ。そんな怖々言わなくても大丈夫だよ。待たせることになるけど、それでよければ』
「そんなの全然いいよ」
『じゃあどうするかな……帰るなら寄るし、それとも俺の家で待ってる?』
そう聞かれて、沙織は頬を染めた。
「たまには……鷹緒さんの家に行きたいな」
このところ家で会う機会がなくなっているため、沙織はそう言ってみた。すると鷹緒は、なんでもないように答える。
『そう。じゃあ家で待ってて。最近おまえ来ないから、ちょっと汚いと思うけど……まあ我慢して』
「うん。じゃあ、ごはん作って待ってるよ」
『マジで? じゃあ弁当食わずに帰るよ。じゃあな』
鷹緒の言葉がいちいち嬉しくて、沙織は綻ぶ顔を隠しきれずに、鷹緒のマンションへと向かっていった。
途中のスーパーで買い物をしたが、いつものごとく多めに買いすぎてしまったために、沙織は自らの身体を雨で濡らしていた。
「こんな土砂降りの中で買い過ぎちゃうなんて……」
独り言を言いながら、沙織は鷹緒の部屋のリビングへと入っていく。特に変わった様子はないが、定位置であるソファ前のテーブルには、仕事のファイルや手紙などが無造作に積み上げられている。
「女性の影はなさそうだよね……」
ふと沙織は気になっていたことを口にしていた。鷹緒のことを信じていないわけではないのだが、お互いに忙しく会えない日が続くと、不安になるのも事実だ。
しかし鷹緒には、相変わらず仕事の文字しかないらしく、沙織は少し安心する。
「寒い……」
ふと濡れた服が気になって、沙織は廊下に出ると、寝室の隣にある部屋へと入っていった。そこは鷹緒の書斎というべき部屋で、机が置かれているほかは過去の資料などが棚という棚に詰め込まれているらしい。
沙織にとってはほとんど入らない部屋なのだが、急に泊まる時のために預けていた服は、この部屋の片隅に置いたのだと思い出す。
「あった、あった」
そう言いながら、沙織は濡れた服を着替えた。
その最中にも部屋を見回し、あまり入ったことのない部屋に興味が湧く。しかし棚の中にはあまり興味の湧かない難しそうな書籍や専門誌が並んでおり、手を出すまでには至らない。
ふと机の上に目をやると、大きめの箱が置かれており、それが半分開いているのがわかる。
「開いてるから……ちょっとだけ!」
悪いとは思いつつ、好奇心を隠しきれずに、沙織はその箱を覗いた。すると中には、子供の字で書かれた作文や絵、写真などが入っているのがわかる。
「これは……」
蓋を開けると、中には恵美からと見られる手紙や絵が入っており、一番上には折り紙で作った黄色い薔薇と、メッセージカードが入っている。
“大好きなパパへ。父の日だから、折り紙で黄色い薔薇を作ったよ。いつもありがとう。今度またドライブ連れてってね。恵美より”
それを見て、沙織は微笑ましい父子の姿を想像すると同時に、胸が締めつけられる思いになった。
きっとこの大きな箱の中には、鷹緒と恵美の思い出がたくさん詰まっているのだろう。血が繋がらないとはいえ、鷹緒と恵美は本当の父子なのだと思い、その間に入る気にもなれなかった。
勝手にしんみりとしながら、沙織は箱を元通りに戻して、リビングへと戻っていった。そして気を取り直して、料理を始める。
しばらくすると、鷹緒から電話が入った。
『ごめん、今終わった』
鷹緒の声にほっとしたように、沙織は時計を見つめる。
「うん、時間通りだね。もうすぐごはん出来るよ。今日はビーフシチューだからね」
『おう。なんか買っていくものある?』
「ううん。特にないよ」
『じゃあ、今から会社出るから』
電話を切ると、沙織はそわそわしながらキッチンに立った。鷹緒が帰ってくるのが待ち遠しく思う自分がいる。
その時、鷹緒の部屋にある固定電話が鳴った。もちろん沙織が出られるはずもなく、ただ居留守を使うようで後ろめたい気持ちが入り混ざって、部屋の隅に置かれた電話を見つめる。
すると、留守番電話に切り替わった。
『――です』
女性の声がして、沙織は目を泳がせた。肝心の名前も聞き取れず、その先の言葉に耳を傾けることしか出来ない。
『元気にしてますか? いつかけても出ないから、少し心配しています。話したいことがあるの……またこちらからもかけますが、どうか一度連絡ください。よろしくね』
そんな女性の声に、沙織は少し放心状態でいた。仕事関係からかもしれないが、家にかけてくるような間柄というのも不思議な感じで、なんだか胸騒ぎのようなものがする。ここでは沙織の目が届かないというのを思い知らされたように、急に不安感が襲った。
すると居ても立ってもいられず、相手の名前だけでも聞こうと、沙織は電話の親機に駆け寄ろうとした。
その時、もう一度電話が鳴り、今度は後ずさる。
『奈々子です』
今度はさっきとは別の女性の声が聞こえた。
『最近、全然顔出さないけど、元気にしてる? 先日手紙を出したんだけど、見てくれたかな? 来れなくてもいいので、連絡くれたら嬉しいです。よろしくね。じゃあまたね』
ちょうどその時、玄関から物音がして、沙織は振り返る。すると鷹緒の姿が見えた。
「おう、ただいま」
「お、おかえりなさい……」
「ん」
沙織の頭を軽く撫で、鷹緒の笑顔が見える。
「……」
「どうした?」
「……今、何度か電話あって……あ、出てないんだけど、留守電聞こえたから……」
盗み聞きをしてしまったことで、申し訳なさそうに沙織が言った。しかし鷹緒は気にしていないようで、軽く首を傾げる。
「ふうん……誰から?」
「今のは、奈々子さんって……」
「奈々子? ああ、そっか……この間、手紙来てたな。ヤベ……連絡してねえや」
鷹緒はソファに座り、書類で散乱したテーブルの上を片付ける。
「……誰?」
心配そうな沙織に、鷹緒は苦笑した。
「同級生だよ」
そう言いながら、鷹緒はテーブルの上に投げ出してあった郵便物の中から、往復葉書を取り出して見せる。そこには“祝賀会のお知らせ”と書かれており、主催者には加藤奈々子という文字がある。
「祝賀会……?」
「うん。神奈川で店出してる友達がいるんだけど、都内に移転してくるらしいから、そのお祝いすんだって。俺、仕事で行けないからって、連絡するのすっかり忘れてた……明日にでもしておくよ」
包み隠さず話す鷹緒に、沙織は安心するように微笑んだ。
「そうなんだ……」
「ああ。落ち着いたら一緒に行こう。イタメシ屋だったと思うよ」
「……いいの?」
「うまいかどうかは知らないけどな」
笑いながら立ち上がると、鷹緒は洗面所へ向かい、タオルを頭にかけて戻ってくる。
「あ……まだ雨降ってるんだ?」
鷹緒の髪が濡れていたことに気付き、沙織は頭を切り換えてそう尋ねる。すると鷹緒は頭を拭きながら頷く。
「うん。でも少しやんできたし、ちょっと濡れた程度」
「そう……私が来た時は土砂降りでね。結構濡れちゃったんだ」
「へえ。ちゃんと拭いて着替えたのか? 風呂とか勝手に入っていいからな?」
「ありがとう」
沙織の返事を受けながら、鷹緒はどかっとソファに座った。
「腹減った。すぐ食える?」
「うん。今用意するね」
「ああ」
「あと……他にも電話、鳴ってたみたいだよ」
「あ、そう」
キッチンへ向かう沙織を尻目に、鷹緒は電話を見つめる。確かに留守電が入っているのか通知ランプが点滅しており、その他にもいくつかファックスが届いているようだ。
だが一瞬見えたファックスが仕事関係だったのがわかり、鷹緒はうんざりしたようにソファへと座り直した。
「留守電、聞かないの……?」
遠くから沙織が尋ねるが、鷹緒はタオルを肩にかけながら、煙草に火を点けている。
「どうせ仕事だろ。家にかけてくるやつなんて、ろくなのいないもん。今は仕事のことより、メシが先。弁当出たのに、手をつけずに帰ってきたんだからな」
電話でかかってきた他の女性のことも気になったが、自分のために早く帰ってきてくれた鷹緒が嬉しくて、沙織は頷いて料理をテーブルに持っていく。
「はい、どうぞ」
「サンキュー。いただきます」
早速口にする鷹緒に、沙織は吹き出すように笑った。
「そんなにおなか空いてたんだ?」
「昼から食ってねえもん。お菓子はつまんだけど」
「駄目だよ。そんな食生活」
「まあな……今日は割と大変な撮影だったから」
そう言いながら、鷹緒はあっという間に完食してしまった。
「早い!」
「おかわりある?」
「え、うん」
「じゃあ、おかわり」
それがたまらなく嬉しくて、沙織は明るい笑顔で頷いた。
「うん! どのくらい?」
「さっきの半分くらい」
「了解。すぐよそるね」
その後も鷹緒はぺろりとおかわりを完食すると、やっと食べ始めた沙織に苦笑する。
「悪い。時間かけてくれたのに、一気に食っちゃって……」
「ううん。嬉しかったよ」
「そう? だったらいいけど……」
短い沈黙の後、続けて鷹緒が口を開く。
「……久しぶりだな。こうして家に来るのも、食事作ってもらうのも」
「鷹緒さんの誕生日以来かな」
「うん」
やっとお互いの顔をじっくりと見つめ合うように、二人はそっと微笑む。だがそれが気恥ずかしくて、沙織は頬を紅く染めて俯いた。
その時、鷹緒の胸元で携帯電話が鳴った。
鷹緒は少し気まずそうにしながら、液晶画面を見つめる。大きな画面は、隣に座る沙織からも名前が見えた。
「恵美ちゃんだ」
思わず口に出してしまった沙織に、鷹緒は軽く目を泳がせている。
「……出ていい?」
自分に気を遣う鷹緒が、少し寂しくも嬉しくも感じ、沙織は安心させるように笑顔で頷いた。
「もちろんだよ。早く出て」
「悪い……」
沙織に促され、鷹緒は電話に出た。
『恵美だよ。今、電話いいですか?』
他人行儀な恵美の声が聞こえ、鷹緒は水を一口飲んで答える。
「ああ、大丈夫だよ」
『よかった。ママから父の日のプレゼント、受け取ってくれた?』
「うん。手紙読んだよ。ありがとう」
『ううん。パパもありがとう。いつも恵美のこと大事にしてくれて』
ぐっとくるような恵美の感謝の言葉に、鷹緒は優しく微笑み、息を吐いた。
「うん……新学期はどうだ? 何か困ったことないか?」
『大丈夫だよ。仲の良い子とも一緒だし。仕事もね、中学生向けの雑誌に出させてもらえるようになってきたんだ』
「そうか。出世したじゃん」
沙織の横で会話を続ける鷹緒は、本当に優しそうな顔をしている。それは、どこから見ても父親の顔に見えた。
『えへへ……パパ、また今度どっか連れてってね』
「ああ。またドライブも行こうな」
『うん! 沙織ちゃんも一緒にね。でも……たまには二人きりでも行きたい』
「わかった」
『じゃあ、今日はそれだけ。またね』
「おう、ちゃんと勉強しろよ」
『はーい。おやすみなさい』
「おやすみ」
鷹緒は電話を切ると、優しい笑みを隠しきれないまま、横目で沙織を見つめる。
「また沙織も一緒にドライブしようってさ」
「うん。嬉しい……恵美ちゃん、大人だよね」
「……うん」
突然しんみりしたようになり、鷹緒は軽く息をついて料理をつまんだ。
「あ……父の日のお祝い?」
沈黙に耐えきれず、沙織が言った。
「うん」
「あっ」
そう言ったところで、沙織は自分の父親に何もしていないことに気がついた。
「なんだよ?」
「いや……私、お父さんに何もしてあげてない……」
そんな沙織に、鷹緒は苦笑した。
「電話でもしてあげれば? 物もらうより嬉しいもんだよ」
沙織は頷くと、恥ずかしそうに立ち上がり、窓の近くで電話をかけ始める。
「あ、お父さん?」
久しぶりに話す父親の声に、沙織は照れくさそうに笑った。
「うん……ほら今日、父の日でしょ? いや、確かに今まで父の日に何かしてきたわけじゃないけどさ……だからたまには、ちゃんと伝えておこうと思って……お父さん、いつもありがとう。それだけなの……うん、また近々帰るからね。うん、おやすみ……」
短めの会話をして電話を切ると、沙織はくるりと振り返る。ソファの上では、優しく微笑む鷹緒がこちらを見つめていた。
「父の日祝うのは久々なんだ?」
会話の内容から、沙織が毎年祝ってこなかったことを知り、鷹緒は苦笑しているようである。
「そ、それは、お父さんがいつも単身赴任でいなかったからで……電話くらいはたまにしてたもん」
「たまにね……でも喜んでたろ?」
「そうだね。お互いちょっと気恥ずかしかったけど」
照れるようにはにかむ沙織に、鷹緒は手を広げた。
「おいで」
離れたことで少し隣に戻りづらそうな沙織を、鷹緒がそう呼ぶ。すると沙織もまた静かに手を伸ばした。
鷹緒の膝に引き寄せられるように乗せられた沙織は、照れながらも鷹緒に抱きつく。
「ねえ、鷹緒さん……」
「ん?」
「さっき電話に出るのためらったりしてたけど……私に気を遣わないでね。恵美ちゃんのお父さんの顔してる鷹緒さんも、ちゃんと好きだから……」
それを聞いて、逆に沙織が寂しさを感じていることに気付き、鷹緒は沙織を強く抱きしめる。
「沙織。覚えておいて……」
抱きしめられたまま、沙織の耳元で鷹緒の声が聞こえる。
「え?」
「俺には恵美みたいな大事な存在もいるけど……ずっとそばにいてほしいのは、沙織だけだから」
顔も見えないほど更に強く抱きしめられて、沙織もまた嬉しさに抱き返す。
「私もだよ。鷹緒さん……」
お互いに寂しさやチクチクと痛む心の傷はあるが、それをカバーするかのように、二人はしばらくの間、抱き合っていた。