32. 転換期
「以上、原田麻衣子と……」
「小澤沙織でした!」
WIZM企画の会議室。テレビの中に見知った顔を見て、鷹緒はそっと微笑んだ。
沙織は同じ年のモデルである麻衣子とともに、今春からテレビの情報バラエティ番組で準レギュラーとなっている。同じ立場の準レギュラー四チームでの入れ替え制なので、生放送の収録自体は月一回ほどのペースで参加することとなっているが、ロケ収録などもあって前よりも忙しそうにしているらしい。
「あ、二人のコーナー、終わっちゃった?」
そこに広樹がやってくる。広い会議室では、鷹緒が仕事の手を止めて食事中だ。
「うん。たった今」
「録画してるからいっか……この後も出てくるだろうし」
「おまえもメシ?」
「うん、いい?」
「どうぞ」
離れたところに座り、広樹は弁当を広げる。
「……準レギュラーの中でも、うちのチームが一番評判いいらしいよ」
自慢げに言う広樹に、鷹緒は眉をひそめた。
「身内の社交辞令だろ」
「僕の感想も入ってるけどね」
「へえ?」
「まあ本当に人気が出たら、もっと露出も多くなるだろうし、麻衣子ちゃんと一緒とはいえ、沙織ちゃんがこんなに早く出世してくれるなんて嬉しいよ」
それを聞いて鷹緒は軽く笑みを零しながら、食べ終えた弁当を片付け、間髪入れずに仕事に戻る。今日はデスクワークのようだが、地下スタジオは撮影中で集中出来ず、オフィスのデスクでは場所がないということで、広い会議室を独り占めしているらしい。
「……今後の二人の営業戦略は?」
広げた写真を見比べながら、鷹緒が口を開いた。
「ビジョンとしては、モデル系マルチタレントかな」
「なんだ、それ」
「麻衣子ちゃんは女優とかやりたいみたいだけど、沙織ちゃんはまだそういうのわからないみたいだから、新境地を広げようとしてるよ。汚れ仕事をやらせるつもりはないけど、せっかくテレビにも出たんだし、モデルだけじゃもったいないとは思ってる」
「ふうん……」
「なんだよ、心配?」
からかうように不敵に微笑む広樹の顔が想像出来て、鷹緒は手を止めるものの顔を上げようとはしない。
「心配っつーか……そうだな。そろそろ軽率な行動は避けないと……」
鷹緒の言葉に、広樹は苦笑した。
「うちの会社は恋愛自由だよ?」
そう言われて、鷹緒はやっと顔を上げた。鷹緒の目に、苦笑しながらもからかうような表情をした広樹が見える。
「……まあ、べつに俺は一般人だし、ユウの時ほど神経使う必要はないと思うけど」
「それにおまえには強みがあるだろ。本当の親戚なんだから、いくらでも言い逃れ出来るじゃん。すでにやってきてるだろ」
「忠告か?」
「まあね……」
軽く息を吐いて、広樹は続けて口を開く。
「僕もいろいろ経験してきてるし、何かあった時は対処出来るように頑張るけど、沙織ちゃんの将来のことを考えたら、言い逃れ出来ないようなことは外でするなよ」
「路上でキスしたり、ホテル入ったり?」
具体的に言う鷹緒もまた、複雑な表情を浮かべながら苦笑している。
「それはともかく……今まで以上に気をつけろよ」
「……わかってるよ」
返事をしながら鷹緒はテレビの電源を切り、仕事を続行した。
その日の帰り。沙織と待ち合わせをしていた鷹緒は、とあるカフェへと向かった。そこにはすでに、沙織と麻衣子がいる。
「おう、おつかれ。麻衣子も一緒だったのか」
軽く言ったつもりの鷹緒の言葉に、麻衣子は口を尖らせた。
「邪魔者はすぐ消えますよーだ」
「ハハ。そういう意味で言ったんじゃないよ。一緒に夕飯行こう」
鷹緒の言葉に、沙織と麻衣子は軽く目配せする。
「え、いいですよ。本当、諸星さんが来るまでの間、一緒にお茶してただけだから……」
遠慮する麻衣子の横で、沙織はどちらとも取れずにいた。麻衣子と一緒にいたいという気持ちもあれば、なかなか会えない鷹緒と二人きりで過ごしたいとも思う。
しかし鷹緒の気持ちはもう決まっているようで、カフェの伝票を取り上げた。
「いいから行くぞ」
強引なまでにそう言われ、すでに鷹緒は二人のお茶代を払っている。
「諸星さん、いいですよ。おごってもらう理由ないです」
財布を出している沙織と麻衣子に、鷹緒は苦笑した。
「俺は一応、会社の重役。おごる理由なんて十分あるだろ。それにたかだかお茶代くらいでゴチャゴチャ言うなよ」
苦笑しながら、三人はカフェを出ていく。
「で、何食う? 腹減ったんだけど」
「あ、じゃあ……」
と言いかけたところで、麻衣子は沙織を見つめる。沙織はもう迷っていないようで、麻衣子に笑いかけた。
「遠慮しないで、一緒に行こうよ」
「……いいの? あんまり二人きりで会えないんでしょう?」
「そうだけど……麻衣子と一緒なのも嬉しいもん」
「もう、沙織ってば!」
抱きつく麻衣子を抱き返しながら、沙織は鷹緒を見つめると、苦笑しながら鷹緒が口を開いた。
「それ以上、遠慮するなら、誰かもう一人くらい呼んでもいいけどね……」
「いえ。今から呼ぶのはキツイから、今日のところはいいですよ。私もおなかすいちゃった」
「じゃあ、さっさと店入ろうぜ」
三人はそのまま近くのレストランへと向かっていった。
「え! 鷹緒さん、今日の放送見てたの?」
レストランでは、沙織がそう叫んでいた。
「ああ。ちょうど昼飯時だったから、リアルタイムで見たよ。よかったんじゃない?」
「本当にそう思ってる?」
「うん、なんで?」
首を傾げる鷹緒に、麻衣子が歯を見せて笑う。
「沙織ってば、最初のほうカミカミだったから落ち込んでるんだよね」
「麻衣子……」
「私だってまだまだなのに、沙織の落ち込みよう見てたら、こっちが落ち込めないよ」
「ごめん……」
沙織と麻衣子のやり取りに、鷹緒は静かに笑う。
「最初から完璧だったら気持ち悪いよ。上は目指さなきゃいけないけど、反省出来る気持ちがあればいいんじゃねえの?」
「お、諸星さん、いいこと言う!」
「バーカ。そう思うんなら落ち込むことないっての」
それから三人は、仕事のことなどいろいろな話をして食事を終えた。
「ごちそうさまでした」
店を出るなり、麻衣子が言う。
「いいえ。駅まで送るよ」
鷹緒の言葉に、麻衣子は慌てて首を振った。
「いえ、タクシー拾うんで大丈夫。これ以上お邪魔は出来ないし」
「は?」
「じゃあまた!」
逃げるように去っていく麻衣子を尻目に、鷹緒は沈黙している沙織を見下ろした。沙織もまた今まで騒がしかった分、二人きりになって緊張でもしているように見える。
「……行くか」
「うん……」
微妙な距離を保ちながら、二人は駅へと向かっていく。気がつけば雰囲気の良い並木通りで、ライトアップされた夜は恋人たちで溢れかえっている。
「カップルばっかりだな」
苦笑する鷹緒の横で、沙織はそっと鷹緒の手に触れた。
すると鷹緒はそれを軽く受け流し、静かに立ち止まる。
「鷹緒さん?」
「……沙織。これからは、外でこういうのはしないようにしよう」
それを聞いて、沙織の目が悲しそうに曇る。
「え……?」
「おまえ、これから本格的に芸能人って呼ばれる類いの人間になるんだ。俺だけのおまえじゃないし、外で軽率な行動はしない」
「……手を繋ぐのも?」
「ただの親戚が、大人のおまえと手を繋ぐのか?」
鷹緒の顔は真剣で、まるで別れ話でも切り出されたように、沙織はショックを受けていた。
何も言えない沙織に、鷹緒は歩き始める。
「待って……もうちょっと話したい」
思い詰めた表情をする沙織を見て、鷹緒は顔を顰めた。
「……わかった。じゃあ、部屋まで送るよ」
そう言われて、沙織は少しほっとした。もうお互いの家にも行けないと言われるかと思ったのである。
「うん……」
「じゃあ行こう」
二人はそのまま、沙織のマンションへと向かっていった。
「沙織、ごめん。そんな顔しないでくれよ」
部屋に上がるなり、鷹緒は思わずそう言った。沙織は今にも泣き出しそうな顔で、辛そうに俯いている。
「ごめんなさい。わかってはいるんだけど……」
鷹緒は息を吐くと、立ったまま沙織を抱きしめた。
「べつに……距離を置こうとかそういう話じゃないぞ? ただ人から見られるところでは今まで以上に注意しようってこと。幸い俺たちは親戚だし、普通の関係よりは逃げ道もあるよ」
「うん……」
「……何も変わらないよ」
安心させるような鷹緒の声は、沙織の心に溶け込むように響いてくる。
やがて二人は離れると、ラブソファへと座った。鷹緒の手は沙織の肩を抱いており、沙織は鷹緒に寄りかかっている。
「……認めたら駄目なの?」
しばらくして、沙織がそう言った。
「え?」
「私たちが付き合ってること……そんな内緒にしなきゃいけないこと?」
「……」
押し黙った鷹緒に、沙織は尚も尋ねる。
「だから今日は、麻衣子も誘ったの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……それもあったかもな」
「……そこまで気にして、内緒にしなきゃいけないこと?」
もう一度そう言われ、鷹緒は小さく溜め息をつく。
「おまえも仕事続けたいんだろ?」
「そりゃあ、今はすごい楽しいけど……でもそれで鷹緒さんと付き合えないなら、私……」
「じゃあ今もし結婚したら、主婦になるのか?」
「そこまでは……まだ考えてないけど……」
「だろ? おまえはまだ若いんだから、いろんなことに挑戦してほしいし、変な潰され方してほしくないんだよ。ただでさえおまえはユウと付き合ってた過去が知れ渡ってるんだから、また恋愛沙汰で何かあったら、今度こそ干されるかもしれないんだぞ。それで結婚もいいけど、軽薄だのだらしないだの近所の人間にありもしないこと噂されて家に閉じこもるなんて、おまえには無理だろ」
明らかに自分よりも深く先のことを考えている鷹緒に、沙織は目を伏せた。
「よく考えてなかった……」
「……それに俺は一般人だからな。何かあっても記者会見開くほどのもんじゃないし、おまえだってそこまでのタレントじゃないだろ。だから俺は公におまえのこと守れないし、それでもマスコミは騒ぎ立てるかもしれない。いっそおまえが魔性の女にでもなれるならいいけど、そういうキャラじゃないんだから、出来るだけ波風立てないようにするのが得策だろ」
鷹緒の言葉に納得しつつも、沙織は鷹緒に抱きついてその胸に顔を埋める。
「でも寂しい……手も繋げないなんて……」
「それがおまえのいる世界だろ」
冷たく聞こえる鷹緒の顔を見上げると、鷹緒は無表情を装って遠くを見つめていた。
「……怒ってる?」
そう聞かれて、鷹緒は沙織の肩を抱く手を一層強く抱いた。
「ごめん……みんなおまえのせいみたいに言ったな。もちろん俺の仕事のこともある。カメラマンとモデルがくっつくことはよくあるにせよ、俺だってまだ若造の類いだし、色恋沙汰で冷やかしもあれば敬遠されることもある。少なからず仕事に響くのは確かだから、出来れば公表はしたくない」
はっきり言った鷹緒に、沙織は静かに頷く。
「わかってる……会えないってわけじゃないから我慢する。でもたまにはこうして会えるよね?」
「ああ……だから言ってるだろ。何も変わらないって」
「それでも、なんか怖い……」
抱きつく沙織が愛しくて、鷹緒は先の見えない将来を思い浮かべる。いっそ公表して世間に認められる恋人になれればいいとも思うが、未だに手探りで付き合っている以上、そこまでの度量は鷹緒にはまだないと言えるだろう。
「……好きだよ」
鷹緒の声が響く。自然と出てきた言葉に、鷹緒自身も少し驚きながら、言葉を噛みしめるように沙織を抱きしめる。
沙織もまた幸せに包まれたように、不安など消え去ったようだ。
「大好き」
お互いにぎゅっと抱きしめ合い、やがて鷹緒は意地悪げに笑った。
「じゃあ、DVDで見ようか」
何の脈絡もなく、鷹緒はバッグから無地のDVDーROMをひらひらと見せつける。
「え? なんの……」
と言いかけて、沙織は顔を真っ赤にした。
「まさか!」
「そう。今日のおまえの収録。家で録り忘れてたから、会社で録ったのもらったんだ」
「やだやだ! 鷹緒さんだって、自分が出たやつ見ないくせに!」
恥ずかしがる沙織の頬にキスをして、鷹緒はDVDをバッグにしまう。
「ハハハ……そうだよな。じゃあ、そろそろ帰るよ。帰って見なきゃ」
「見ちゃ嫌だよ……」
「そのくらい慣れなさい。おまえはもう、ゲーノー人でしょ?」
からかう鷹緒の腕に抱きつき、沙織は離れようとしない。
「意地悪……今度はいつ会える?」
「うーん。明日も夜なら空いてるけど。おまえのほうが忙しいんじゃねえの?」
「そんなことないけど……私は明日、昼間は空いてて夜は撮影があるの。もうすぐ海外の撮影もあるし、このままだとどんどん会えなくなっちゃうよ……」
すれ違う環境に溜め息をつく沙織の頭を、鷹緒がそっと撫でた。
「まあ、会おうと思えばいつでも会えるだろ。今は仕事頑張る時期でもあるんだから、それに打ち込めばいいよ」
そう言って、鷹緒は玄関へと向かっていく。
沙織は少し不満に思いながら、鷹緒の後ろ姿を見つめて口を開いた。
「鷹緒さんは……寂しくないの?」
言った途端振り向いた鷹緒に、沙織は口をキスで塞がれていた。
「んっ……」
やがて離れた鷹緒の顔はほんのりと赤く染まり、口を曲げている。
「……寂しいに決まってんだろ。何かあったら言えよな。じゃあ、おやすみ」
そのまま鷹緒は照れを隠すように、急ぎ足で沙織の部屋を後にした。
残された沙織は顔を赤くして部屋へと戻ると、ベランダへと出て通りの下を見つめる。マンションから出てきた鷹緒が振り向くことはなかったが、その姿を見ただけで、沙織の顔は緩んでいった。
「寂しいに決まってんだろって……おやすみって……」
可愛らしい鷹緒の顔を思い出しながら、沙織はベランダから部屋に戻ると、緩む顔を隠すように手を当てた。
正直なところ心の奥底に不安や寂しさは常にあるのだが、いろんな鷹緒の顔を見る度に、それが覆い被さって薄れさせてくれている。
「よし、恋も仕事も頑張るぞ!」
急にやる気を取り戻したように、沙織は明日の支度を始めた。