31. 彼の誕生日
五月初旬の夜。鷹緒のマンションでは、鷹緒と沙織がテレビを見ながら、まったりとした時間を過ごしていた。最近はお互いに仕事が忙しく、自宅で会うのも久しぶりである。
「鷹緒さん。何か欲しいものある?」
なんの脈絡もなく突然そう言われて、鷹緒は眉をひそめた。
「こんな時間に、なんか買いに行くのか?」
「違うよ。ただ鷹緒さんの欲しいものって何かなって」
そんな問いかけに、鷹緒は天井を見上げる。
「うーん。煙草ワンカートン」
鷹緒の答えを聞いて、沙織は口を曲げた。
「ええ? そんなんじゃなくて、もっと他に!」
「じゃあ、台所洗剤とトイレットペーパーも切れそうだけど……」
「もう! そんな日用品じゃなくて」
そこまで言われて、鷹緒もまた口を曲げる。
「なんなんだよ、突然……」
「ほら、だって……もうすぐ誕生日じゃない」
「誰の……」
と言いかけて、鷹緒は自分の誕生日が迫っていることを、ようやく思い出した。
「ああ、俺のか……」
「もう。忘れてたの?」
「いや……ちょくちょく思い出すことはあるけど、何するわけでもないし。べつに何もいらないからな? この年で喜んでたら気持ち悪いだろ」
そう言われ、沙織は口を尖らせる。
「……年なんて関係ないよ。付き合って初めての、鷹緒さんの誕生日だよ? 年に一度の記念日だよ?」
「なに。おまえ、記念日大事にするやつ? 付き合って何ヶ月記念日だとか、初めてデートした記念日だとか」
「そこまで大事にしてるわけじゃないけど……誕生日はまったく別じゃない」
面倒くさそうに溜め息をつく鷹緒だが、沙織は見つめることをやめない。
「あーでも、その日も仕事で遅くなるだろうし……」
「ええ? 私は泊まりがけの仕事だったんだけど、スケジュール調整してもらって、前倒しして夕方帰ってくる予定なんだよ?」
「たかが誕生日だろ。そこまでしてくれなくていいよ」
「でも当日には会いたいのに……」
噛み合わない会話が悲しくて、沙織は目を伏せた。
そんな沙織を見て、鷹緒は小さく息を吐くと、その頭に手を乗せる。
「……次の日は?」
鷹緒が突然そう口を開いた。
「え?」
「誕生日から次の日の予定」
「えっと……次の日は、午後からインタビューがあるけど」
「じゃあ泊まっていけよ。そんで何か夕飯作って。俺も早く帰れるように仕事詰めるから」
それを聞いて、沙織はあからさまに嬉しそうに笑う。
「うん! 何作ろうか」
「なんでもいいよ。でもまあ、まだ時間もあるし、もう少し近付いたらでいいんじゃないの?」
「そうだね。ケーキも買うからね」
やっと笑顔に戻った沙織に、鷹緒は苦笑する。
「本当は……おまえがいれば、何もいらないんだけどな」
沙織の肩を抱き寄せて、鷹緒がそう言った。沙織は腕の中で顔を赤らめる。だが言った本人である鷹緒もまた、後悔するように顔を赤くした。
「……キザなこと言った」
「ううん。嬉しい」
すかさず返した沙織を、鷹緒が今度は正面から抱きしめる。
「少し楽しみになってきた」
ぼそっと呟く鷹緒を見上げ、沙織は笑った。
「うん。素敵な誕生日にしようね」
「ああ……」
それから数週間経った、五月二十三日。今日は鷹緒の誕生日である。
平日ということもあり、鷹緒はいつも通りの業務をこなしている。それ以上に月末で忙しいのも確かだが、夕方からは予定を空けなければと、沙織が地方ロケで数日前に出かけて以来、根を詰めるように働いていた。
「誰か携帯の充電器持ってない?」
午後。外での仕事を終えて会社に戻るなり、鷹緒が社内にいる社員たちに聞いた。
「あ、私持ってますよ」
同じ部署の万里が、すかさず充電器を差し出して言う。
「悪い、借りる。スマホにしてから著しくもたなくなって……」
鷹緒はそれを受け取りながら、すでにバッテリーの切れそうなスマートフォンを充電し始めた。
「ああ、私もそうですよ。電池食いますよね」
「じゃあ充電しとくから、終わったら充電器持ってって。俺、スタジオで仕事してるから」
「え、じゃあ持って行っていいですよ」
万里はそう言うが、すでに鷹緒は会社を出ようと歩き始めている。
「いいよ。急用があれば地下スタの電話もあるし、今日の午後はもともとデスクワークに時間充てるつもりだったから、集中したい」
「そうですか」
「夕方前には戻るよ。じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
たくさんの資料や材料を抱えて、鷹緒は地下スタジオへと向かっていった。
誰もいない地下スタジオは静まり返っており、鷹緒は入るなり煙草に火を点けると、パソコン画面に向かった。
今日が自分の誕生日で特別な日などという感覚はまったくないのだが、時々思い出す沙織の顔を思い浮かべると、早く仕事を終わらせて会いたいという気持ちが働いている。
目の前にかかった壁掛け時計を見上げて、鷹緒は今日のスケジュールを考える。根を詰めても終わらない仕事は多々ある。今日もそう言えるくらい膨大な量の仕事が積み上げられているが、“夕方には終えて沙織に会う”ということだけは、忘れなかった。
それからあっという間に時間が過ぎ、鷹緒はちらちらと見上げる時計を気にしながらも、仕事をこなしていく。携帯電話が手近にないこともあり、仕事は捗っていた。
しばらくするとスタジオのドアが開き、鷹緒はまたも時計を見上げた。見ると夕方の五時前だが、俊二が手がける今日の撮影は夜だと聞いている上に、遠くから聞き慣れた広樹の声まで聞こえる。
「鷹緒。いるのか?」
広樹もまた電気が点いていることに気付き、鷹緒のいる作業スペースへと顔を出した。
「ヒロ。おまえがここに何の用だよ」
「僕は倉庫に探し物で来ただけだけど。それよりおまえ、こんな時間まで何やってんだよ。誕生日だろ。沙織ちゃんと会うんじゃないの?」
「こんな時間って……まだ五時前だろ」
怪訝な顔をして時計を指指す鷹緒に、広樹は自分の腕時計を見つめ直す。
「もう夜の八時近くだけど……」
「はあ?」
鷹緒は壁掛け時計を見つめてから目の前のパソコンに目をやり、作業で隠していたタスクバーを表示させて時計を見つめる。
見ると確かにそこでは夜の七時五十分ということが表示されており、鷹緒は漫画のように血の気を引かせていた。
「ヤバイ! なんなんだよ、こんな日に限って……!」
「携帯は?」
慌てた様子の鷹緒に、広樹が尋ねる。
「充電するからって会社に置きっ放し」
「ったく今時、充電器なんてどこでも売ってるだろ。早く帰れよ」
「そうする。やけに仕事が捗ると思ってた」
「そりゃあ、二時間多く仕事してんだからな……」
苦笑しながら、広樹は鷹緒のいるスペース奥にある倉庫のドアを開ける。中は久しく開けておらず、捨てるに捨てられない物がたくさん積み上げられていた。
「ひい……今度、整理しなくちゃなあ」
パソコンの電源を切りながら、鷹緒は側にある固定電話に手を伸ばしてみたものの、沙織の電話番号がわからない。まして沙織もここの電話番号を知らないはずなので、出てくれるかもわからない。
ごちそうを作ると張り切っていたので、きっと鷹緒の部屋で待っているはずだが、二時間も連絡なしでは怒らせてしまっているだろう。
「沙織ちゃん? 電話番号教えようか?」
広樹にそう言われたが、鷹緒は気が変わったように自分のバッグにやりかけの仕事をねじ込んで振り向いた。
「いや、うだうだするより帰るわ。じゃあ、お先」
「ああ。あと誕生日おめでとう。プレゼントなんて用意してないけど」
「ありがとう……おまえからもらっても即行捨てるし」
「なんでだよ。失礼なやつ……まあでも、今度おごるよ」
「おう。じゃあな」
そのまま鷹緒は、風のように走り去っていった。
そんな鷹緒を見て、広樹は静かに笑う。
「あいつ、必死すぎ」
軽く笑いながら、広樹は探し物を続けていた。
鷹緒は会社に戻ることもやめて、そのまま家へと急いで帰っていった。
玄関に沙織の靴があることにほっとしながらも、バツが悪そうに、しかし逸る気持ちを抑えきれずに、リビングのドアを開けた。
「鷹緒さん!」
キッチンから、不安げな表情を浮かべた沙織の顔が見える。
だが、もしかしたら怒って帰ってしまったかもしれないと思っていた鷹緒は、予想外の反応に対応しきれないでいた。
「……ごめん。遅くなって」
やっとのことでそう言うと、沙織は首を振って鷹緒を見上げる。
「仕事だったの? 何度か電話したんだけど出ないし、何かあったのかってちょっと心配だった……」
怒るどころか心配をしてくれていた様子の沙織を、鷹緒は思わず抱きしめた。
「ごめん……仕事は仕事だったんだけど、いろいろ不幸が重なって……」
「え?」
「今日に限って腕時計してないし、携帯は会社に置きっ放しだし、スタジオの時計は壊れてるしで、予定が狂った……でも、そんなの全部俺のせいだよな。本当ごめん」
しゅんとしている鷹緒に、沙織はふっと微笑んだ。
「なんだ。だったらちょっと怒っちゃうけど……ごはんにしようよ。なかなか帰ってこないから、いっぱい作っちゃった」
そう言いながら、沙織はぎゅっと鷹緒に抱きついた。
笑ってくれる一方で、いらぬ心配をかけてしまったのだと反省しながら、鷹緒は沙織を抱き返す。すると、二人同時に腹が鳴った。
「そういや腹減ったな……」
「うん、そうだね。すぐ並べるから、座って」
「腹時計がもっと早くに鳴ってくれればよかったのにな……ごめん」
「もういいってば。それだけ集中して仕事してたんでしょ。私も来るのちょっと遅くなっちゃったから、ちょうどよかったよ」
それからほどなくして、沙織がテーブルの上に料理を並べ始める。そこにはビーフシチューや唐揚げ、ステーキにエビフライまである。
「これまた豪華絢爛だな……」
「ちょっと欲張り過ぎちゃったよね……残していいからね」
「いや、残して明日も明後日も食いたい」
「残さなくてもまだあるよ。鷹緒さん、和食が好きだからそっちにしようとも思ったんだけど、誕生日だしちょっとくらい凝ったものをと思って……サラダと野菜スープもあるから、ちゃんとバランス良く食べてね」
「サンキュー。久しぶりだよ、こんな誕生日」
「よかった。じゃあえっと……シャンパンでいいかな」
慣れずにたどたどしくボトルを持つ沙織に代わって、鷹緒は慎重にコルクを開け、グラスに注いだ。
「ありがとう……」
「いいえ。じゃあ、沙織が音頭取ってよ」
礼を言う沙織に微笑み、鷹緒はグラスを持った。
「うん。えっと……鷹緒さん、お誕生日おめでとうございます。これからもよろしくお願いします!」
そう言った沙織に笑って、鷹緒は沙織の持つグラスを鳴らす。
「ハハ。ありがとう。こちらこそよろしく」
シャンパンを一口飲むと、鷹緒は早速目の前にある料理に手をつけた。
「どう……?」
「うん。美味しいよ」
「よかった……でも、いろいろ失敗しちゃったんだ。コゲてるところとかあったら、ちゃんとよけてね」
隣で苦笑する沙織の肩を、鷹緒がそっと抱き寄せる。
「ありがとう。たとえコゲてても、十分だよ」
素直な礼も甘く聞こえて、沙織は顔を赤らめた。
「嬉しい……」
「会うのも数日ぶりだもんな。どうだった? 地方ロケは」
「うん。楽しむ暇もないくらい忙しかったけど、充実してたよ」
「そっか。悪かったな。スケジュール、無理してくれたみたいで」
鷹緒がそう言ったのは、沙織が今日の誕生日のためにスケジュール調整をしたことにあるが、もちろん沙織は勝手にやったことなので、謝られる理由などどこにもない。
「ううん。私がそうしたかったから……怒ってる?」
「なんで?」
「だって誕生日だろうが、仕事は仕事だって言いそうだから……」
「まあ確かに、そこまでしてくれる必要はなかったと思うけど……」
「やっぱり……」
落ち込む沙織に、鷹緒は料理をつまみながら口を開く。
「けど、そこまでしてくれたことは、素直に嬉しいよ」
たったそれだけの言葉なのに、沙織の心は温かくなる。鷹緒もまた照れるように微笑み、二人は食事を続けていた。
それから二人は、ゆったりと食事を終えた。
「ごちそうさま。腹いっぱい」
「でも、パーティーはこれからだからね? まだケーキあるんだから」
「ああ。ケーキは別腹かも」
笑っている鷹緒を尻目に、沙織は冷蔵庫から買ってきたケーキを取り出した。そしてテーブルに置くと、ロウソクに火をつける。
「うわあ、本格的だな。こんな誕生日久しぶりだよ」
「誕生日といったらケーキだもんね」
そう言った沙織に微笑み、鷹緒はおもむろに立ち上がると、部屋の電気を消した。キッチンの明かりが間接照明のように静かに点いているだけで、そこは静寂が訪れている。
「せっかくだからな」
隣に座った鷹緒に、沙織は手拍子を始めた。
「恥ずかしいから一緒に歌ってね……ハッピバースディ、トゥーユー……」
歌い始めた沙織に合わせながら、歌の終わりで鷹緒はロウソクの火を消す。
薄暗い部屋の中、気付いた時には沙織はもう鷹緒に唇を奪われていた。それは思わず溜め息が漏れてしまうくらい、甘くて長いキスだった。
「あ……電気点けるね」
照れながら言う沙織を羽交い締めにするかのように、鷹緒は自由を許さずにもう一度キスをする。
「鷹緒さん……」
嬉しさより恥ずかしさが上回っているのか、沙織はそう呼んで鷹緒を見つめた。
「……余裕がない」
ふと、鷹緒がそう呟いて立ち上がった。
まるで欲求を抑えられそうにない自分を、これ以上さらけ出すことなど出来ずに壁際へと向かう。
「え?」
訳もわからず振り向く沙織を尻目に、鷹緒は部屋の電気を点ける。部屋はすっかり明るくなり、鷹緒は沙織の横に戻った。
「ケーキ食いたい。切ってよ」
すっかり話を変えられたように、沙織はそれ以上突っ込んで聞くことは出来ず、素直にケーキを切る。今日ばかりは鷹緒の嫌がることはしたくないと思うものの、鷹緒の態度が気になって、ケーキを頬張る鷹緒の横顔を、沙織は見つめ続けていた。
「なに?」
そんな熱い視線を受けて、鷹緒が苦笑する。
「え……」
「うまいな。どこのケーキ?」
「あ、今話題のケーキ屋さんで……」
「へえ」
話題を変えても沙織の熱い視線は止まらないので、鷹緒は苦笑して沙織に振り向いた。
「そんな熱い視線送らないでくれる? 襲うぞ」
「えっ……」
驚く沙織に苦笑しながら、鷹緒はがっつくようにケーキを食べている。
「このところ外での食事ばっかりで、こうして部屋で会うことも少なかったもんな……あんまり誕生日だからどうこうっていう感性はなかったけど、こうして祝われることも久々だから、なんか気分が高揚する」
正直にそう言った鷹緒に、沙織は嬉しそうに微笑んだ。
「私も……こうして鷹緒さんの誕生日を二人っきりで祝えるってだけで嬉しいよ」
「祝ってもらうとしたら、いつも大勢での飲み会だったから、なんかこんなことされると感動するよ」
なんて簡単な性格なのかと自分を嘲笑いながら、鷹緒はフォークを置く。そんな鷹緒を見て、沙織はおもむろに立ち上がると、キッチンの隅に隠しておいた包装された箱を取り出し、鷹緒に差し出した。
「もう一度、お誕生日おめでとう。大したものではないんだけど……私から。どうぞ」
照れながら差し出す沙織からそれを受け取って、鷹緒はその場で包装紙を開ける。箱の中には、ブランド物のシャツが入っている。
「おお、ありがとう」
「……大丈夫?」
すかさず聞いてきた沙織に、鷹緒は首を傾げた。
「なにが?」
「鷹緒さんが欲しがる物の見当もつかなくて……邪魔にならないもので日用品とか思ってたら悩む一方でね。定番かとも思ったんだけど……もらって嬉しいもの?」
怖々とそう言われて、鷹緒はシャツを箱から取り出すと、自分の身体に当ててみた。
「似合う?」
「うん。イメージ通り」
「嬉しいよ。ありがとう」
鷹緒はやけに素直に見えて、ほんのりと顔を赤らめている。
「もしかして鷹緒さん……照れてる?」
沙織の言葉に、鷹緒は口を曲げた。しかし否定するでもなく、目を逸らす。
「照れてちゃ悪いかよ……」
「ううん。可愛い」
思わずそう言った沙織の手を取って、鷹緒は沙織を見つめる。
「大の大人をからかうなよ。こういうの慣れてないんだってのに……」
「あはは。いいじゃない。私はいろんな鷹緒さんが見たいよ」
まったくひるまない沙織を見て、鷹緒は苦笑する。
「一個……おねだりしていい?」
「うん、いいよ。私に出来ることなら……」
「……ベッド行こ」
その言葉で、今度は沙織の顔が真っ赤になる。
「も、もう……」
それ以上何も言わせる前に、鷹緒は沙織の手を取って立ち上がると、リビングから出ていった。
その夜は――甘い甘い夜に他ならない。