2-2. 新入社員恋物語 (後編)
「鷹緒さん?!」
思わぬ人物の登場に、牧さんは嬉しそうに諸星さんに駆け寄る。
「え、え? どうしたんですか! いつ帰って来たんですか? 社長には会ったんですか?」
「朝からテンション高いな……一個ずつ聞けよ」
苦笑している諸星さんを前に、牧さんは見たこともないくらい飛び跳ねている。
「だって、急でびっくりしたんですもん!」
「こっちも急に解放されてさ。とりあえず帰ってきたんだ」
「じゃあ、もうこっちにいられるんですね? 帰って来れたんですね?」
「その予定。ヒロとも昨日会ってさ、飲んでこのままここにね。二日酔いかな。頭いてえ……そっちの子は、新人さん?」
突然、諸星さんが私を見て言った。
「あ、はい。半年前に一度、お電話でお話しさせて頂きました、君島万里と申します。お会い出来て光栄です!」
ガチガチに緊張しながら、私が言う。
「ああ、あの時の……はじめまして、諸星です。ごめんね、朝から驚かせて」
「いえ。こちらこそ、大声で起こしてしまって……」
諸星さんは優しい瞳で、私に微笑んだ。なんて可愛い笑顔をする人なんだろうと思った。
その時、続々と社員たちが出勤して来るのを見て、牧さんが手招きする。
「みんな。鷹緒さんよ! 帰って来たんだって!」
途端に諸星さんは社員たちに囲まれ、質問攻めに遭ったのは言うまでもない。
それからしばらくして、諸星さんは逃げるように会社を出て行った。
元から所有しているマンションがあり、そこへ戻るという。その日、社員たちの気持ちはいつになく弾んでいて、私も触発されるように興奮していた。
その日から、私の周辺もだんだん諸星さんに侵食されている気がした。今まで主に俊二さんの下で動いていたが、諸星さんの仕事も手伝うようになる。ほとんど話すことはなかったが、華やかな諸星さんに惹かれていくのを感じていた。
「万里ちゃん。帰りがけで悪いけど、これ持ってスタジオ寄ってから帰ってくれる? 他の子みんな手空いてなくてさ」
仕事を終えた帰りがけ、俊二さんにそう言われ、私は預かり物の書類ファイルを持って、事務所所有の地下スタジオへ向かった。
スタジオは薄暗く、スタッフルームの必要な部分しか電気が点いていない。
「失礼します。預かり物、持って来ました……」
明かりに導かれるようにスタッフルームへ行くと、そこには諸星さんがいた。
「ああ、ありがとう」
言葉少なくそう言うと、諸星さんはパソコン前から立ち上がって、私から書類ファイルを受け取る。
諸星さんがいない間、このスペースはほとんど使われていなかったが、帰って来た途端に彼のアトリエのようになっているらしい。それは昔からそうだったらしく、今では元通り、諸星さんの私物で溢れていた。
「ちょっと時間ある?」
煙草に火をつけながら、諸星さんが言った。私は頷く。
「はい」
「じゃあ、ちょっと撮影やっちゃいたいから、手伝ってくれる?」
「撮影、ですか。二人で?」
「そう。一人でも出来なくはないけど、居てくれると助かる。でも用があるならいいよ」
「いえ、大丈夫です……」
「じゃあ、ちょっとだけ待ってて」
再びパソコンの前に戻った諸星さんに、私は手持無沙汰でフロアへ向かい、撮影機材を準備し始める。
それから少しして、諸星さんがフロアへやってきた。
「じゃあ始めようか」
「あ、はい、すみません。まだ機材の準備が出来てなくて……」
「これだけ揃ってればいいよ」
必要最小限の機材を見て、諸星さんが言う。
「でも……何の撮影ですか?」
「物撮り。うちのホームページ用に撮っといてって言われてるのがあるんだ。そこの箱の物、全部」
諸星さんはフロアに置かれたダンボール箱を指差した。中にはインテリアの小物や雑誌など、あらゆる物が入っている。
事務所で扱っている商品や、記事用の写真らしい。
「こんなことまでやるんですか? 諸星さん」
思わず言った私に、諸星さんも苦笑する。
「な? それ、社長に言ってやってくれよ。あいつ、俺のこと平気でコキ使うからさ……まあでも、みんな忙しいから、事務所内で選り好みなんてしてられないのが現状だけど」
その言葉に、諸星さんの優しさが伺えた。
私は頷くと、出しかけた機材を丁寧に並べる。物撮りと聞いて、いらない機材や必要な機材もある。
「はーん。君を仕込んだのは俊二か」
私を見つめて諸星さんがそう言った。あまりに唐突で、私には意味がわからない。
「え?」
「その几帳面な並べ方、俊二譲りとしか思えない。あいつ、結構細かいことうるさいんだよなあ」
図星だった。私は俊二さんの下でよく動いているため、機材の並べ方や扱い方などは、すべて俊二さんから学んだことだ。
「ええ。でも丁寧に教えてくださいました」
「いいことだけど、俺は結構大雑把なの。今日はモデルの撮影でもないし、この程度の機材で十分だから、始めるよ」
「はい。それで、私はどうすれば?」
「とりあえず、箱の物を順番に並べて。せっかく並べてくれたから、ライトバンク使う物からいこうか」
「わかりました」
諸星さんの撮影を助手として手伝うのは初めてだった。また二人きりになるのも、こうして話すのも初めてで、少し緊張しながらも、諸星さんは仕事モードに入っているため、私も気持ちを切り替えて諸星さんの助手に徹した。
「……休憩取ろうか?」
しばらくして、諸星さんがそう言った。
私は撮影についていくのが精一杯で、疲れが出てきているのを悟ったのだろう。
諸星さんがスピーディーで有名なことは知っていたが、ここまで早くて正確だということを、私は身をもって体験し、その大変さが身に沁みていた。私がモデルなどの被写体だったならば、早く終わって疲れが軽減されるだろうが、スタッフともあれば大変である。
「いえ、大丈夫です。あと少しなんでやってしまいましょう」
見た目に反し、私は前向きに言う。
学生時代は体育会系だったので体力には自信があるのに、体が仕事についていかないことが辛かった。
「……じゃああと少しだし、やっちゃおうか」
諸星さんも了承し、撮影は続行された。
それから十数分で、すべての撮影が終わった。
私は疲れながらも、諸星さんとの撮影の楽しさを覚えた。俊二さんとはまったく違う雰囲気の撮影で、これもまた勉強になる。
「はい。お疲れ」
機材を片付けている私に、諸星さんが缶コーヒーを差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
「片付けは後でいいから、少し休もう」
忙しない様子の私に、諸星さんはそう言って床に座り、壁にもたれる。
私も倣ってその場で座り込み、コーヒーに口をつけた。
「ごめんな、急に手伝わせて。帰るところだったんだよな?」
諸星さんの優しい言葉がやけに嬉しい。素直に人を思いやれる人なんだと思った。
「いいえ。お手伝い出来て光栄です。帰りはいつも遅いし、帰ってもやることがないので大丈夫です。逆に勉強させてもらえて嬉しかったです。これからも使ってやってください」
そう言った私に、諸星さんが微笑む。その笑顔はなんとも可愛らしくも見え、胸が締め付けられる思いになった。
「ありがとう。俺、本当に人使い荒いからさ……倒れられたら困るし」
「大丈夫です。私、体育会系ですし、体力には自信があります」
「へえ。何やってたの?」
「ソフトボールです。県大会優勝校ですよ」
「そりゃあすごいじゃん」
思いのほか、諸星さんは優しく話しやすい。人によっては話しかけづらいなどという噂もあったため、聞いた印象とは違うふうに感じる。
少しして一息つくと、私たちは片付けを始めた。
「万里。あとは俺がやっておくから、もう帰っていいよ」
突然、呼び捨てで呼ばれ、私は一瞬で真っ赤になった。
「万里……って……」
それに気付き、諸星さんは口を開く。
「ああ、悪い……そっか、ろくに呼んだことなかったもんな」
照れる私に、諸星さんも照れるように苦笑した。
「い、いえ。ちょっとびっくりしただけで……」
「俺あんまり、サン付けとかで呼ぶことないんだけど……嫌ならあだ名とか自分で決めて。ただ名字で呼ぶの長いから、一言で呼びやすいのがいいんだけど」
確かに諸星さんは、牧や俊二など、ほとんどの社員を呼び捨てで呼んでいる。
私の反応で苦笑する諸星さんに、私は赤くなりながらも首を振った。
「すみません、呼ばれ慣れてなかったからびっくりしただけです。万里でいいです」
「そう?」
「あと、最後まで手伝わせて下さい。さっきも言ったとおり、帰ってもやることがないので、コキ使ってくださって構わないですから」
ガッツのある私に、諸星さんは微笑んで頷いた。
「じゃあさっさと片付けて、メシでも食いに行こう」
「二人でですか?」
「嫌?」
「いえ。お、お願いします!」
勢い良く頭を下げた瞬間、私のおしりが照明機材にぶつかった。
顔を上げた時には、すでに諸星さんが私を抱き止めている。
「鷹緒さん……」
初めて名前で呼んでしまった自分にも赤くなる。しかし鷹緒さんは気に留める様子もなく、拒否しない。
鷹緒さん――思えばずっと、他の人たちのようにそう呼びたかったのだという自分に気付き、出来たらこれからもそう呼びたいと思った。
「動くなよ」
上の空の私に反して、鷹緒さんは真剣な様子でそう言い、ゆっくりと倒れかけた照明機材を直す。
高価な機材が倒れて壊れなかったことに安心しながらも、私は庇ってくれた鷹緒さんにお辞儀した。
「すみません!」
「危ねえ……大丈夫だったか?」
「はい、助けてくださったんで……機材のほうは大丈夫ですか?」
「ああ、倒れてないし。どっちも無事でよかったな。考えてみれば明日も撮影だから、この辺まででいいよ。メシ食いに行こう。腹減った」
「は、はい」
高鳴る気持ちを抑え、緊張したまま私は鷹緒さんについていった。
鷹緒さんに連れられて行ったのは、近くの居酒屋だ。二人だけの乾杯をし、食事を始める。
「こうして二人で飲むの、初めてだよな?」
気さくにそう話しかけてくれる鷹緒さんに、私は頷いた。
「はい」
「入社して一年だっけ? もう慣れた?」
「はい。仕事も楽しいですし、この会社に入れてよかったです」
「そりゃあ良かったな」
私は目の前にいる鷹緒さんをまじまじと見つめた。遠目から見ても、男性らしくて格好が良い。同じ格好の良さでも社長とはまた違い、社長ファンの私でも、みんなが騒ぐのがよくわかる。
「何?」
あまりに見つめる私に、鷹緒さんが苦笑して尋ねてきた。
「え?」
「そんなに見つめられると、照れるんだけど」
「ごめんなさい。こんなに格好良い人と二人きりで食事なんて初めてで……」
そんなストレートな私の言葉を聞き、鷹緒さんは驚いて吹き出した。
「ハハハ。なんだよそれ。この業界にいるんだから、格好良いヤツなんてゴマンと見てるはずだろ」
「はあ……でも鷹緒さんは正真正銘のイケメンです。私、鷹緒さんに会うまで、事務所で一番のイケメンは社長だと思ってました。でもやっぱり、みなさんの噂は本当だったんだって思いました」
正直なまでの私に、鷹緒さんは苦笑したまま食事を続けている。
私は私で、自分がこんなにもイケメンについて語るとは思ってもみなかったけれど……。
「変なやつだな、おまえ。今までそんなこと、同じ会社のやつに面と向かって言われたことなかったな」
「すみません。でもだって、本当のことなんですもん」
反論する私を前に、鷹緒さんは静かに笑う。
「俺がイケメンだとか思えるなら、相当いい男見てないんじゃない?」
そう言う鷹緒さんは、謙遜でなく本気で自分を嫌っているようにも思えた。
「……確かに私は、今まで全然男っ気なかったですから、そう言われても仕方ないですけど……でもそんなこと言ったら、鷹緒さんのこと格好良いって言う人みんなそうだって言うんですか?」
「そうだよ。みんな俺のこと、上辺しか見てないからそんなこと言えんの。ほら、馬鹿なこと言ってないで食えよ。今日は俺のおごりだからな」
「いいです、そんなの」
「強情な奴だなあ」
鷹緒さんの言葉に傷付いたり楽しんだりしながら、私は彼の魅力にどんどん吸い込まれていくのを感じていた。
「おまえ、酒強いんだな」
しばらくして、鷹緒さんがそう言った。
「そうですね。顔色もあんまり変わらないから、女のくせに可愛げないってよく言われます」
「ハハハ。いいじゃん。うちの会社、社長が弱いから、そういうやついてくれないと困るよ。俺もいい加減、あいつの後処理するの面倒臭いから」
私もそれには覚えがあった。社長は結構飲むほうだけど、ベロベロになるまで酔うタイプだ。そんな時は、家へ帰すのも一苦労である。
「鷹緒さんも強いんですね」
「そうだなあ。俺もおまえと一緒で、あんまり顔色変わんないしな。でも今日は、さすがに酔ったかも」
それもそのはず、私たちはビール、日本酒、更にはワインまでに手を出し、それをペロリと二人で飲んだ。
こんな酒豪の私を、鷹緒さんはどう思っただろう。
「家どこだっけ?」
そう言った鷹緒さんに、私は事務所の方向を指差す。
「事務所の近くですよ」
「じゃあ送るよ」
「いいですよ」
首を振る私に、鷹緒さんが笑った。
「俺、だいぶおまえのことわかってきた」
「え?」
「意地張んなくてもいいよ。こういうのは一応、男の役目ですから」
あまり男性経験がなく、意地っ張りな私を見透かすように、鷹緒さんはそう言って私の背中を押す。それが妙に慣れている感じで、私は赤くなった。
「いいですってば」
「そんなに嫌ならいいけど、これでこの後、おまえが痴漢とかに襲われても夢見が悪いし。俺のためにも送らせて。ちょっと歩いて酔いも冷ましたいしな」
そんな優しい言葉に折れて、私は鷹緒さんと二人きり、夜の街を歩き始めた。
なんだかそれが夢見心地だ。こんなに格好の良い人と歩くのは初めてで、周りの目が気になる。自分に自信がない私とは、絶対に恋人同士には見えないだろうな、と思った。
「おまえ、俺に似てるかもな……」
突然ぼそっと鷹緒さんが言ったので、緊張して上の空だった私は我に返った。
「え? どこがですか?」
「意地っ張りなところとか」
からかうように笑って、鷹緒さんが言う。それはずるいくらいに可愛い。
「確かに私は、意地っ張りですけど……」
「あはは。冗談だよ。なんていうかな、波長が合う」
その言葉は私も思った。そしてこんなにも嬉しい自分がいる。
「あ、私も言われたことがあります。前に牧さんたちに」
「何を?」
今度は鷹緒さんが首を傾げている。
「あ……前に、牧さんと俊二さんが付き合ってること当てたら、これに気付いたの、鷹緒さんだけだって言われて……」
「ああ、なるほどね……でもあいつら、すぐわかるよなあ?」
「ええ、本当に。でも鷹緒さんの洞察力はすごいって、他でも聞いたことがあります」
「そんなの言ってるの、どうせ社長とか理恵とか、鈍感なやつだろ」
「ああ、そうだったかもしれません」
突然、理恵という言葉にビクッとした。理恵というは副社長だが、鷹緒さんとはどこかよそよそしくまた親しげな感じにも思える。
「そういうの優れてるっていうのは、いつも周りにビクビクしてる証拠だよな」
「ビクビクですか? 鷹緒さんが?」
「意外? 俺は結構、昔から人の顔色窺うの得意だよ」
苦笑したままの鷹緒さんは、どこか寂しそうに見えた。
鷹緒さんの横目が、壁に貼られている選挙ポスターをかすめるのが見えて、私たちは信号待ちをする。酔いが回っているせいか、歩くのは苦痛じゃなく、むしろ涼しくて気持ちがいい。
「じゃあ洞察力に優れている繋がりで、ひとつ気付いた点あるんですけど、聞いてもいいですか?」
「何?」
「副社長とは、昔恋人だったとか……」
酒の力も手伝い直球で聞いた私に、鷹緒さんは予想以上の驚いた顔を見せ、そして笑った。
「おまえ、結構俺のこと見てるよね」
「じゃあ、やっぱり……」
だが鷹緒さんは笑ったまま、空を見上げる。
「残念だけど、そんな単純じゃない。もっとディープな関係だよ。俺とあいつは……」
私はその言葉に考え込んだ。恋人よりディープな関係とはなんだろう。兄妹だとでもいうのか。頭が回らない今の私には、さっぱり答えが浮かばない。
「単純じゃないって……」
「それ以上は秘密。でもそんな面白いもんじゃないから、気にすんな。他の奴にもそんなつまんないこと言うなよ」
「……はい。わかりました」
それ以上は聞けない何かがあった。
「あれ? 誰かいるのかな」
事務所が入ったビルを通り掛かると同時に、鷹緒さんがそう言った。
見上げると、事務所部分にはまだ明かりがある。
「本当だ……」
「ヒロかな。しょうがない、後で寄るか」
「今じゃなくて平気ですか?」
「いいよ。寄ったら仕事させられるかもしれないし。帰れる時に帰ったほうがいい」
「私は大丈夫ですよ」
「……じゃあ行くか」
鷹緒さんも気になっているのか、私たちはそのまま会社へと入っていった。
「こういう時って緊張しない?」
エレベーターの中で、鷹緒さんが言った。
「ああ、誰か倒れてるかもとか」
「誰かイチャついてんじゃないかとか」
からかうように歯を見せて笑う鷹緒さんに、私も赤くなって笑う。
「確かにそうかも……」
会社に入ると、モデル部署の大きなテーブルの前には副社長がいた。
「理恵! 何やってんだよ」
一気に酔いが醒めたように、鷹緒さんがそう言った。
「鷹緒? 万里ちゃんも。珍しい組み合わせね」
「子持ちのくせに一人で残業かよ。誰かいなかったのか?」
「だって私の仕事だし。今度うちのモデルたちが大きなファッションショーに関わることになったから、人員配備と下準備も兼ねてね……」
そう言う副社長は、疲れたように力なく笑う。
鷹緒さんはテーブルに座りながら、その書類を見つめていた。
「……俺も手伝うよ」
やがて鷹緒さんがそう言った。
「ええ? いいわよ」
「なんだよ、俺じゃ不満か?」
「そうじゃないけど、あなたにはあなたの仕事があるでしょう?」
「俺に出来ない仕事じゃないなら、これも俺の仕事のうち。それに一人で根詰めたって、どうしようもない時もあるだろ」
そう言って、鷹緒さんは理恵さんの隣に座る。
「万里。悪いけど、あとは一人で帰れる?」
その言葉に、私はちょっとショックを受けた。でも鷹緒さんは親切心で仕事をするのはわかっている。
「大丈夫です。すぐ近くですし……私にお手伝い出来ることはないですよね……」
「うん、あとちょっとだし、大丈夫だから」
副社長がそう言ったので、私はお辞儀をした。
「それでは、お先に失礼します」
「ああ、万里。家に着いたら電話して」
鷹緒さんの言葉に、私は驚いた。そんなことは彼氏にも言われたことがない。
「え、大丈夫ですよ。子供じゃあるまいし」
「俺が大丈夫じゃないの。メールでもいいから、必ずしろよ」
「はい……じゃあ、失礼します」
私は苦笑して背を向ける。心配症にも取れる鷹緒さんの気遣いが、素直に嬉しかった。
その夜、二人がどうなったかは知らない。でも私は約束通り、帰るなり鷹緒さんに電話をした。その時は、もうすぐ仕事は終わるような言い方をしており、次の日会った時にも、いつも通りの二人がいた。
その日から、私は妙に鷹緒さんのことが気になっていた。
同じ空間にいれば、その姿を追ってしまう。いなければ不安に思ってしまう。私も他のみんなと同じように、鷹緒さんに惹かれているのを感じていた。
でもその恋は、突如として叶わぬものとして終わった。
「鷹緒さん。これ、忘れてたよ」
出勤したての鷹緒さんに近付いたのは、モデルの小澤沙織ちゃんだ。うちの事務所でもトップといえるくらいの人気モデルさんで、有名アーティストと噂になったりしていた。
鷹緒さんの親戚でもあると聞いたが、最近どうもおかしい。沙織ちゃんがではなく、鷹緒さんがだ。
「悪い、忘れてた。わざわざ持ってきてくれたのか」
鷹緒さんは沙織ちゃんから書類ケースを受け取って、すまなそうにしている。
「だって急ぐと大変だと思って」
「ありがとう。助かるよ」
「よかった。じゃあ、またあとでね。あ、寝ぐせついたままだよ」
「え……」
「じゃあね」
沙織ちゃんは、そのまま事務所を出ていった。
からかわれるように言われ、鷹緒さんは少し照れながら窓ガラスを鏡に見立て、自分の髪の毛に触れている。
「どうしたの?」
念入りに髪を直している鷹緒さんを見て、朝のコーヒーを入れて持って来てくれた副社長が、驚いたように尋ねた。
「いや、寝ぐせが……」
「そんなのいつもじゃない」
「ひでーな。それは寝ぐせじゃなくて、ただの癖っ毛だよ」
鷹緒さんは苦笑して、副社長からモーニングコーヒーを受け取る。
「一緒よ。でも沙織ちゃんのおかげで、ずいぶん丸く可愛くなったもんじゃない」
副社長が小声でそう言った。でも一番二人に近い場所にいる私には、辛うじて聞こえる。
「人をからかうな」
「だって本当でしょ。でも、ちょっと妬いちゃうな……そんなに格好付けてる鷹緒、初めて見た」
「はあ?」
「あら。じゃあ私に向かって、格好つけたことあった? 鷹緒は何もしなくても格好いいからかもしれないけど、そういうふうに自分から格好付けたところなんて見たことないもん」
「ないもんって……まあ、ないかもな」
そう言って苦笑した鷹緒さんの顔は、今までで見たことがないくらい可愛らしく美しい。
「しかしおまえ、人のことを格好いいだのなんだの、色眼鏡かけすぎだし。言われるこっちが恥ずかしい」
「そんなの今更でしょ。私だけが言ってるんじゃないんだし」
「ったく、おまえまでくだらないこと言うなよな」
仲良く続けている鷹緒さんと副社長の会話も、もう私には聞こえない。
私はそこで、鷹緒さんが沙織ちゃんと付き合い出したことを悟ったのだった。
それから私は、一人で失恋を悟りながらも、鷹緒さんの姿を目で追い続けていた。
てっきり副社長と何かがあるのだと思っていた私は、沙織ちゃんという予想外の人物の登場に、呆気に取られてしまっている。
でも私は知った。私が鷹緒さんに惹かれたのは、鷹緒さんが話しやすく、私にバリアを張らなかったからだ。すなわち、自分が恋愛対象として見られていないことに気付いたのである。だから私も気を張らず、自然体で彼と接してこられたんだと思う。
きっと鷹緒さんを好きな人は、同じだと思う。彼と話す度に好きになっていくのと逆に、彼の言葉の数は恋愛対象と反比例する。恋人とは人前で話さなくても通じている。でも私たちとはたくさん話す。そういう法則があるのを見出したのだ。
残念で悲しい思いはあるのだが、鷹緒さんと沙織ちゃんが一緒にいる姿を見るのが、好きになっている自分がいた。
普段は仕事一筋で冷たい印象を見せる鷹緒さんが、彼女の前ではまるで少年のような可愛い笑顔を見せることを知ったし、沙織ちゃんは何とか二人の間を秘密にしようとしているのか、鷹緒さんが私たち女子社員と仲良くしている姿を、誰にも言えずに陰で悲しそうにしたりといじらしさを見せる。
そんな二人を見ているのがいつの間に辛くなくなり、一方で美男美女で絵になる二人を見ていたいという、複雑な気持ちさえ生まれていた。
「いつか、私も……」
いつか私も、鷹緒さんのような素敵な男性に振り向いてもらえるくらい、綺麗になりたい。
私の恋は実らなかったが、今の私は生まれ変わったかのように、世界が広がった気さえしているのだから――。
「万里。おまえ、綺麗になった?」
そんな頃、鷹緒さんが何の気なしにそう言った。
失恋は悟っても、そう早く気持ちの切り替えが出来るわけでもない。鷹緒さんと話すのはまだ緊張するし、辛いし、かといって嬉しさに顔が赤くもなる。
「え、えへへ。そうですかね……」
「ふうん?」
きっと鷹緒さんは、私が誰かに恋をしているのだと感じただろう。そのきっかけをくれているのは、自分ということも気付かずに――。
「恋は人を変えるんですよ。鷹緒さんも今、輝いてますよ」
そんな私の言葉に、鷹緒さんが笑った。
「おまえには敵わないな。隠し事も出来やしない」
鷹緒さんは、私が沙織ちゃんとの仲を知っているのだと悟って、無邪気に笑う。
私の気持ちには気付いてくれないことが残酷だとも思ったが、私は鷹緒さんが幸せな顔をしていることが、自分でも不思議なくらい満足でもある。
私も目を細めて笑った。
「そうですよ。私には隠し事出来ませんからね」
「ああ。身を引き締めて、下手なことはしないようにしなきゃ」
私たちの笑い声が響く。
鷹緒さん、これからも幸せを分けてください。私が次の恋に、踏み出せるように――。