27-2. 棘 (2)
「失礼します」
ノックはするが返事を待たずに、鷹緒は社長室へと入った。
中には社長机に向かって広樹が座っており、綾也香はその前で立ったまま顔を顰めている。
閉め切られた室内のブラインドは、綾也香が乗り込んできてすぐに広樹が閉めたもので、煌々と明かりのついた室内が、ドアを開けてやっと中の様子が見えた鷹緒に眩しく映る。
「そろそろ来ると思ってたよ……」
広樹はその言葉で綾也香を冷静にならせようと諭すが、綾也香はすっかり血が上った様子で口を曲げた。
「どうして返事してくれないんですか!」
一向に興奮が収まらない綾也香の肩を、後ろから鷹緒が軽く叩く。
「少し落ち着けよ。そんなにまくし立てたら、ヒロだって何も言えないだろ」
「でも鷹緒さん……」
「それに会社でこんなことされたら迷惑。残業組もいるんだ。少しトーン抑えろ」
そんな鷹緒の言葉を素直に聞くように、綾也香は静かに頷いた。
「へえ。相変わらず、鷹緒の言うことは聞くんだね」
そう言ったヒロの言葉が引っかかって、鷹緒は溜め息をつく。
「今日の俺は仲裁役だ。おまえが返事すれば済むことだろ」
「さっきから言ってるよ。“綾也香ちゃんの気持ちは受け取れない”」
広樹の顔はいつになく険しく冷たい。
「……なんでですか?」
引き下がらない綾也香の言葉に、広樹は深い溜め息をついて立ち上がった。
「僕、馬鹿は嫌いなんですけど。さっきから言ってるよね……商品である君とは付き合えない。ましてや君は春からうちの所属になるんだよ? 社長の僕が手を出せるわけないでしょ」
本気で怒っている様子の広樹は、鷹緒にとっても久々である。しかしそんな広樹の答えをすでに鷹緒は知っており、あとは綾也香を宥めることに徹しなければいけないと思っていた。
「……じゃあやめる! 事務所なんかここじゃなくても何処でもあるし。それでも駄目ならモデルなんかやめる」
「勝手にしてください。そんな半端なモデルはうちにはいりません。それに君が仕事をやめようが、僕は君と付き合えないから。大体……なんで今更、僕? 君は鷹緒じゃなかったの?」
そこは広樹が誤解しているところであると思いながら、鷹緒も二人の間にズカズカと入っていくことなど出来ず、ソファに座ってその様子を眺めて過去を思い返す。
かつて綾也香は、このWIZM企画に所属しているモデルだった。そんな綾也香と恋に落ちたのは、広樹だった……ということになるが、その詳しい真相は当人たちしか知らない。
まだ広樹が社長になって間もない頃で、しかも当時の綾也香は未成年だったということで、当然長続きせずかなりの大問題となって、結局は綾也香の他事務所への移籍という形で落ち着いたのである。
今回、綾也香がWIZM企画に戻ってくるということは、双方の合意の上ではあるが、広樹にとってはまさか未だに綾也香が自分のことを引きずっていることなど夢にも思わず、また間に鷹緒が入っていることで解決していない部分が三人の間にあり、緊迫した空気が漂っている。
「……なんで今更こんなこと言ってると思います? 私がこの事務所にやっと戻れるからです。完全に戻った後に言ったら、契約があるからこうして断られてもモデルやめる選択肢なんてなくなるでしょう? 私は本当に、社長が望むならモデルやめます」
きっぱりと言った綾也香だが、広樹は嫌悪感を露わにして綾也香の横を通り過ぎ、鷹緒の前に座った。それを見て綾也香は鷹緒の横に座り、目の前の広樹を見つめる。
「……誤解してるなら、まずはそこから解こうか?」
何も言わない広樹にそう言ったのは、鷹緒だった。
「誤解なんてしてないよ」
「さっきの言い回しだとしてると思うけど……悪かったな。もうとっくに解けてるはずだと思ってたけど、そりゃあ引っかかる部分はあるよな」
「私、鷹緒さんと付き合ってないよ。今までも付き合ったこともない」
鷹緒に続いて綾也香が言った。広樹は頬杖をつくように頭を抱えると、重い口を開く。
「……どう言ったらいいのかな。それが誤解だろうがそうでなかろうが今更そんなこと興味ないし、綾也香ちゃんがモデル続けようとやめようと僕には関係ないわけで、もし本当にそんな不純な動機でうちに移籍されても困るから、移籍話を白紙に戻さなきゃいけなくなるかもしれないことで、僕は今頭がいっぱいなんだけど」
「でも誤解されて偏見持たれたまま接せられるなんて嫌です。私はこのWIZM企画に戻って心機一転したいし、今の事務所に不満持ってるのも嘘じゃない。無理に恋人として付き合ってとは言いません。ただ私の気持ちを社長に知ってもらいたいだけなんです!」
切実な目で訴える綾也香だが、もはや広樹はキレている状態とも言え、逆に冷静で仕事目線な社長のポジションを確立している。
「……綾也香ちゃん。僕は未熟な社長ではあるけど、少なくとも大学出たての新米社長ではないんだ。昔とは違うんだよ……周りは忘れていようと、あんなことがあって今があるんだ。どうやっても君とは付き合えないし、君がそんな気持ちなら移籍話は他に振る。君は他の事務所も喉から手が出るほど欲しがってるトップモデルだ。すぐに話がつくよ」
「……」
「君ももう大人だからわかるだろ。告白はありがとう……男としてとても嬉しいよ。言って楽になるために告白しただけなら、今日限り僕も忘れるから君も忘れてほしい……そうじゃなくて今後の進展を望むなら、君がこの業界にいる限り、僕は付き合えないし向き合うこともない。もし君が言うようにモデルをやめる気があったとしても、向き合うことは出来ても好きになれる保証はない……だからどっちか選んでくれないか。忘れて残るか、別の会社に行くか」
そう言う広樹はしっかりとした大人で、綾也香だけでなく鷹緒の心にも痛みを与えた。社長である広樹とは立場も違うが、本当は同じことを自分も沙織に言わなければならなかったのだと思うと耳が痛い。
「私は……この事務所に移籍したいです」
明るい綾也香が、今にも泣きそうになってそう答えた。
「じゃあ、このことはなかったことに出来るね? 僕のことに関してもう何も言わないね?」
追い打ちをかけるような広樹に、綾也香は俯き立ち上がる。
「……帰ります」
「待って。約束してから帰ってほしい。じゃないと契約書に書くよ」
広樹はすっかりビジネスモードで割り切っている様子で、綾也香にそう言った。
「はい……忘れるよう努力します……」
「はい。じゃあ今後こちらからもよろしくお願いします。もう帰ってください」
冷たく広樹にそう言われ、綾也香はさっきまでの威勢をどこかになくしたように、肩を落として社長室を出ていった。
「……おまえも出てってくれ」
続けて言った広樹に、鷹緒は無言のまま社長室を出ていった。
社長室を出た鷹緒の目に社内が映る。さっきと同じメンツだが、逃げるように出ていった綾也香はすでにおらず、沙織の姿も見当たらない。
「……沙織知らない?」
「綾也香ちゃんと出ていったわよ」
理恵の言葉に、鷹緒は顔を顰める。
「そう……みんなはまだ帰れない感じ?」
「まあ……ヒロが気になりもするし、先の見えない仕事だから、やれるところまでやってるって感じ」
今度は彰良がそう言ったので、鷹緒は頷きながら出入口のほうへと歩き、沙織に電話を入れた。呼び出し音が数回鳴ったところで、沙織の声が聞こえる。
『はい』
「あ、俺……おまえ今、綾也香と一緒?」
『うん。思わず追いかけちゃったんだけど……このまま二人でどっかお店入るね』
それを聞いて鷹緒は溜め息をつくと、そのまま会社を出て喫煙室へと入っていく。
「……あんまり綾也香に構わなくていいから」
『でも放っておけないよ』
「じゃあ、あんまり立ち入るなよ。前みたいに変なこと吹き込まれてほしくない。俺のことは俺から言うから。話しするなら、ただ聞いてるだけにしろよ」
鷹緒と綾也香は友達以上恋人未満の関係だった――と、以前に聞かされていたが、沙織は深いことまでは知らない。
念を押すような鷹緒に、沙織は口を曲げつつも頷いた。
『うん……』
「じゃあ俺もこっち片付けて帰るから、おまえも今日はそのまま帰ってくれ。こんなことになってごめん。明日また連絡するよ」
『わかった……じゃあまたね』
沙織との電話を切って、鷹緒は煙草を一本吸うと、社内へと戻っていった。
社内は変わらない光景で、各々仕事を続けている。鷹緒も本来なら自分の仕事に手を付けたいところだが、広樹を放っておくことも出来ず、もう一度社長室へと入っていった。
「なんだよ。出てってくれって言っただろ? ちょっと一人になりたいんだけど……」
広樹はさっきと同じくソファに座ったまま、苛立った様子で顔を背ける。
しかし鷹緒はそれに従わず、同じく広樹の前に座った。
「おまえは偉いよ」
そう言った鷹緒に、広樹は目線を上げる。
「は?」
「ちゃんとあいつを振ってやって……これで馬鹿なあいつでもわかったろう」
「……あれは本気なの?」
疑問の念を浮かべてそう言うので、鷹緒は苦笑して広樹を見つめた。
「あれでいて一途だよな」
「でも……なんで今更?」
「言ってた通りじゃない? 移籍するこの時期しか、あいつには自由がなかったんだろ」
「まだ……信じられないよ」
そう言う広樹の顔が赤くなるのが一瞬見えたが、広樹は膝の上で頭を抱える。
「……おまえ、まだあいつのこと好きなの?」
昼間、綾也香にした同じ質問を、鷹緒は広樹にぶつけた。それを聞いた広樹は、顔を上げて眉を顰めている。
「だから……なんで今更? どうあったって……付き合えるわけないじゃん」
「それは社長としての立場だからだろ。おまえ、前に俺に言ったじゃん。沙織のこと……スキャンダルはまずいけど、お互い好き合ってるのにどうしてそれを殺さなきゃいけないんだって……あの時のセリフ、そっくりそのままおまえにお返しするよ」
まるで宣戦布告のような鷹緒の口調に、広樹も嫌悪感を露わにして口を曲げた。
「僕とおまえの問題はまったく違う。僕は同じ過ちを繰り返すつもりなんてないよ」
「やっぱりおまえも、気持ちは変わってないんだな?」
まるで綾也香のことが好きだというように聞こえて、鷹緒は静かに微笑んで言った。それを聞いて、広樹は深い溜め息をつく。
「あんな悲惨な別れ方したの知ってるおまえが、そんなこと言うのかよ……無理。僕はそんなに一途じゃないし、誰と付き合ったとしても、綾也香ちゃんだけは絶対にないよ。だからこんな話は無意味。おまえが出ていかないなら、僕が帰るよ」
「じゃあなんでそんな不機嫌なの?」
「くだらないことで乗り込まれた僕の気持ちがわからない? 社員にも面目丸潰れ。それより、おまえはなんのためにここにいるんだよ。まさか説得するわけじゃないんだろ。言いたいことがあるなら、聞くから言えよ」
いつになく不機嫌さを丸出しにして言う広樹に、鷹緒は苦笑する。
「お互いにそんなに引きずってるなら、綾也香をうちに入れないほうがいい。あいつがうちに戻りたいっていうのは、仕事面だけじゃなく、おまえとのことで前に進みたいからというのもあるんだろう。あんな別れ方して、引きずってるのはおまえと同じ。でも、あいつは変わらず馬鹿だからな……今日みたいに突っ走ることしか出来ないんだよ。今はもう事務所というしがらみもないんだしな」
「そんなこと、おまえに言われる筋合いないんだけど……まあそうだよね。でも僕は本当に無理。綾也香ちゃんと付き合うなんて」
「うん。それならそれでいいんじゃないの。あいつだっておまえにあそこまでハッキリ言われて、少しはわかっただろうし。これでこっちの問題も解決出来ればいいんだけどな……」
「こっちの問題?」
鷹緒の言葉が引っかかったように、広樹は顔を上げて鷹緒を見つめた。
「俺は人間出来てないからな。おまえが心配なだけでこんなこと言ってるわけじゃない。あいつは突っ走ると周りが見えないタイプだから……巻き込まれる俺が迷惑してるだけなんだよ。沙織に余計なこと吹き込まれないか、こうしてる今も心配だし」
「それはおまえの素行の悪さが原因だろ」
「アホか。綾也香に対しては、俺はいつでも被害者だ」
「さっきから誤解だなんだと言ってるけどさ……僕はこの目で見てるんだからね? おまえと綾也香ちゃんがキスしてるの……」
またも張りつめた空気が社長室に漂う。
しかし次の瞬間、鷹緒が笑った。
「ハハハ。おまえ、やっぱり引きずってんじゃん」
鷹緒が笑ったことで、広樹はむきになるように口を尖らせ、顔を少し赤らめた。
「気にはなってるけど引きずってはないって……」
「まあ昔のこととはいえ、あれに関しては弁解の余地はないけどね……フリとはいえ俺も馬鹿だったと思うよ。ごめん」
「フリ? あれが?」
「あれは事故だよ」
二人は同時に息を吐く。
「べつに……恋愛は自由だし、みんなフリーだったんだし。あの時もおまえはちゃんと説明してくれて、僕も納得した……はずだった。今も頭では理解してるし、責めてるわけでも怒ってるわけでもないんだ。だから誤解もしてないから気にしないでいいよ」
「ったく……やっぱりもう一度付き合っちゃえよ」
「それでチャラになるわけじゃないだろ。僕はさ……うちの子たちはみんな大事にしたいんだ。恋愛なんかで潰したくない」
「ああ……本当に偉いよ。だからおまえは社長なんだ」
「うーん。ああもう、ムシャクシャするなあ。今日はカラオケ付き合えよ」
切り替えるように言った広樹を見て、もう大丈夫だと鷹緒は頷く。
「べつにいいけど……みんな残業みたいだから、きっと誰も来ねえよ?」
「いいよ。おまえだけで……それだけ多く歌えるじゃん」
「それが一番辛いっての」
それ以上語らずともわかり合えたように、二人は静かに微笑んだ。
一方、沙織は綾也香とともに個室となる居酒屋にいた――。