27-1. 棘 (1)
「鷹緒さーん!」
とある撮影現場の廊下の片隅で、鷹緒は呼び止められて振り向いた。するとそこには、トップモデルの島谷綾也香がいる。
「おう……」
「準備終わりました?」
今まで鷹緒が撮影の準備をしていたのを知っていたのか、綾也香はそう尋ねてきた。
「ああ、終わったけど」
「じゃあ、ちょっと相談いいですか。コーヒー奢りますから」
「うん……いいよ」
強引な感じはあったが、もうすぐ綾也香がWIZM企画に移籍することもあり、鷹緒は承諾してスタジオの前にある喫茶店へと向かっていく。
「で、相談って?」
前置きも求めずに、鷹緒はそう尋ねる。実際に時間もないので、綾也香は頷いた。
「私と付き合ってください」
直球の言葉だったが、鷹緒はうんざりしたように俯いて煙草に火をつける。
「またかよ……」
「今度は本気です」
真剣な顔をした綾也香に、鷹緒は顔を顰めた。
「俺はあの頃と違って忙しいの。だからおまえの浅知恵の茶番に付き合う暇もないし、おまえにそんな義理もない」
「いいんですか? あの事、言いふらしますよ?」
「……何年前の弱みだ。馬鹿馬鹿しい」
「じゃあ新情報でもいいですよ。鷹緒さん、沙織ちゃんと付き合ってるでしょ」
一瞬の間を隠すように、鷹緒は煙草の煙を吐いた。
「……デタラメ並べて楽しいか?」
「嘘でも本当でも、そんな噂流したら一発でみんな食いつきますよ。沙織ちゃん、今売出し中ですもんね。BBのユウとも噂になってた人だし、その後にカメラマンと恋愛なんて体裁悪いよなあ……世間の勝手なイメージやレッテルって辛いよ? たとえでっち上げた噂でも、十分痛手になるでしょうね」
男だったら殴っているところであると思いながら、鷹緒は煙草の火をもみ消した。
「勝手にしろよ。あいつは大事な俺の親戚だ。俺が全力で守るから」
「……つまんない。全然動じないなんて」
そう言われて、鷹緒はコーヒーに口をつける。
「そんな自分を貶めるようなこと言うなよ」
「だって、やり方わかんないんだもん」
「おまえ……まだあいつのこと好きなの?」
鷹緒の言葉に、綾也香は息を呑む。
「なんで……?」
「俺に脅しかけてまでそんなこと言うってことは、同じ事繰り返したいんだろ。進歩ねえな……」
「何年経ってると思ってるの? 私だってあれから何人もの人と付き合ってきたし、引きずってるわけないよ。ただ人気者の鷹緒さんを手に入れたいだけ」
「嘘つけ。まだわかってないのか。男には正攻法でいかないと伝わらないもんがあるんだよ。あいつ、まだ俺とおまえのこと誤解してると思うし……その上でまた俺たちが噂にでもなったら、もう本当に見向きもされなくなるぞ」
痛いくらいに鋭い鷹緒の言葉が突き刺さり、綾也香は口を結ぶ。
「じゃあ……どうすればいいの?」
「べつに普通に告ればいいんじゃない? バレンタインがいいチャンスだったのに……」
「チョコはあげたよ。一応手作りだったんだけど……すでにいろんな人からもらってたし、私もみんなと一緒にあげる形になっちゃったから、義理チョコだと思われてると思うけど……」
「ったく……そういうところ頑張らないから伝わらないんだろ」
うんざりしながら、鷹緒はコーヒーを飲み干した。
「……望みはあると思う?」
「そんなの俺が知るかよ」
「冷たい……」
「人を脅すやつよりマシだろ」
「……ごめんなさい」
鷹緒は頬杖をつくと、目の前の綾也香を見つめる。
「俺は……今でも後悔してる。おまえの誘いに乗るべきじゃなかった。どれだけあいつを傷つけたかわからない」
「鷹緒さん……」
「頼むから……もう俺にあんなこと求めるな。好きならきちんとぶつかれよ。おまえだってもう大人だろ。回りくどいやり方されたって、伝わるものも伝わらない。俺が出ていったところで、うまくいくものも拗れるだけなんだよ」
そう言い残すと、鷹緒はコーヒー代をテーブルに置いて喫茶店を後にした。
「今日は諸星さんとの撮影だから、舞い上がってるんでしょ」
麻衣子と街を歩きながら、沙織はそう言われて頬を染めた。
「そんな……もう慣れたもん。いちいち気にしてられないよ」
言いながらも、やはり鷹緒と同じ現場というのは嬉しさもあれば照れや緊張もある。それが良い意味で融合されていて、いつも感じ良く仕事が出来ている気がする。
「あ、噂をすればだ。諸星さん!」
喫茶店から出てきた鷹緒を見つけるなり、麻衣子が手を振った。鷹緒もすぐに気がついて立ち止まり、手を上げる。
「おう。おつかれ」
「休憩ですか?」
「準備終わったからな」
歩き出す鷹緒について、沙織と麻衣子も歩いていく。ふと沙織が振り向くと、喫茶店にいる綾也香の姿が見えて、鷹緒と一緒だったのだと悟った。
「具合でも悪いのか?」
撮影が終わり、駐車場へ向かう道、一緒に歩いていた鷹緒が沙織にそう尋ねた。鷹緒の後片付けを待っていたため、もはや近くにモデルたちは誰もいない。
「え?」
「いや……俺の思い過ごしならいいんだけど。なんか撮影中も、今日はあんまりノッてない感じがしたから……」
「ううん。大丈夫だよ……」
そうは言っても沙織の心は少し沈んでいた。それは鷹緒が綾也香と一緒にいたことに他ならないが、そこまで禁じるつもりもない。それでも気になっているのは、鷹緒と綾也香が過去に何かあったのだと、少しだけでも知っているからである。
鷹緒には沙織の抱えるものが何なのかわからなかったが、沙織から言わない以上は無理に聞くのもどうかと思い、車のドアを開ける。
「なんか食いに行こうか」
「うん」
車に乗り込みエンジンをかけた瞬間、鷹緒の携帯電話が鳴った。それと同時に沙織の目にも一瞬、鷹緒の持つ携帯電話の液晶画面に出た“島谷綾也香”の文字が映る。
「悪い……もしもし」
沙織に断って、鷹緒は電話に出た。
『鷹緒さん。さっきはごめんね』
綾也香の声が聞こえるが、どこか焦っているような声に聞こえる。
「ああ……どうした?」
『私、もう我慢出来ない。今から一緒に来て!』
「は……なんで俺が」
『お願い。これが最後でいいの。そばにいてほしい』
そう言われて鷹緒は目を伏せた。
「待てよ。今から行って何になる? 勢いで行動したってしょうがないだろ」
『でももう駄目なの……何もしなくてもいいから、一緒にいて!』
どんどん焦る様子の綾也香に、鷹緒は溜め息をつく。
「落ち着けって……一緒にいたら逆効果だってわからないのか?」
『それでもいい。二人きりだとまた逃げられちゃう。それにあの時の誤解が完全に解けたわけじゃないなら、一緒に弁解してほしい』
面倒な願いに、鷹緒は顔を顰める。
「ずいぶん勝手だな……ふざけるな。俺はおまえのなんだよ? そこまでしてやる義理はないって言ってるだろ。それにおまえのせいで、こっちまでゴチャゴチャするのがわからないのか? 他人の迷惑考えろよ」
強い口調の鷹緒の横で、沙織は心配そうに鷹緒を見上げた。ここまで言い合えるのは、逆に綾也香と仲が良いということを目の当たりにするようで辛い。
『意地悪……わかった。一人で行く』
「だから考え直せって。時間はいくらでもあるだろ」
『ないもん。それに私がどれだけ待ってたか、鷹緒さんだって知ってるでしょ!』
一方的に電話が切れ、鷹緒は溜め息をつきながらハンドルを握る。
「……待たせてごめんな。どこ行こうか。何食いたい?」
ふと横にいる沙織を見ると、沙織は不安げな表情を浮かべている。
「……綾也香ちゃん?」
そう聞かれて、鷹緒は静かに頷いた。
「うん。でも大した用事じゃないよ」
「でも……何かあったんじゃないの? さっきも二人して喫茶店にいたでしょう?」
「……見てたのか」
小さく息を吐いて、鷹緒は車を走らせる。沙織にはいつも嫌なところを見られるなと思いながら、先程の綾也香に言われた弱みにつけこむような言葉を思い出し、鷹緒は顔を顰めた。
「でもべつに、私はそれほど気にしてないから……」
そうは言っても、さっきから沙織の浮かない表情の原因がそれだということを悟って、鷹緒は口を曲げる。
「はあ……なんで俺がこんな目に……」
溜め息をつきながら、鷹緒は目を伏せた。他人によって脅かされる沙織との関係を案じると、途端に腹立たしくなってくる。
「鷹緒さん?」
「……ごめん。事務所寄っていい?」
「う、うん……」
急にそう言われ、また険しい表情になった鷹緒を見て、沙織は自分の一言で怒らせてしまったのだと後悔した。
「あの。本当に、なんとも思ってないから……べつに女性と二人きりで話してたからって、怒らないし……」
取り繕うように言う沙織を、信号待ちの鷹緒は横目で見つめた。
「……そんなことで我慢しなくていいよ。ただ俺も振り回される側だから、この問題は今日でケリつけたい」
「この問題?」
そうこうしているうちに車は事務所近くの駐車場に停まり、鷹緒は車を降りる。
「おまえも来る? どっかで待っててくれてもいいけど……」
「行ってもいい……?」
「うん。じゃあちょっと離れたところにいて」
そう話しながら、二人は会社へと入っていった。
WIZM企画の社内に入ると、企画部には彰良と俊二、モデル部には理恵と牧の姿がある。ほぼ重役だけの残業組である。
そんな中で、珍しく内窓のブラインドまで閉め切られた密室状態の社長室から、綾也香の怒鳴り声が漏れていた。
「遅かったか……」
鷹緒はそう呟くと、重い足取りで自分の席へ座った。だがそこにいる一同、空気が張りつめている。それは漏れ聞こえる綾也香の怒鳴り声のせいだ。
「だから! 私は社長のことが好きなんです!」
ハッキリとそんな綾也香の声が聞こえ、彰良が不機嫌そうに立ち上がった。
「彰良さん」
それを鷹緒が止める。彰良のこの後の行動が、鷹緒にはわかっているのである。そんな鷹緒に、彰良はあからさまに不機嫌な顔をして口を開いた。
「俺を止めるつもりなら、おまえが行って来い。ここをどこだと思ってる? 仮にも他社のトップモデルが、色恋沙汰で社長室に乗り込むなんて前代未聞だ。こっちの仕事にも支障が出る。俺まで残っているほど忙しいのは、おまえにもわかってるだろ」
普段は温厚な彰良だが、こういうふうに短気な部分もある。もちろん忙しい時期だからこそ苛立っている部分もあるが、残業とはいえまだ開いている事務所でここまで騒ぎ立てられれば、体裁が悪いのも事実だ。事実、まったく事情を知らない俊二は戸惑っている。
「……わかりました。俺が行きます。今日は出来ればみんなも早めに切り上げて帰ったほうがいい」
顰めながらも真剣な面持ちで鷹緒はそう言うと、社長室へと向かっていった。
「だから綾也香ちゃんの移籍、私は嫌だったんです……」
ふと牧がそう言った。ここで事情を知っているのは牧と彰良くらいで、理恵さえも少ししか知らない。
「牧ちゃん……」
「だって社長と鷹緒さんが本気で言い合ってるの見たの、あの時が初めてだったから……」
「へえ……あの二人も喧嘩するんだ」
何の事情も知らない俊二の言葉に、牧は静かに頷く。
「大丈夫かな……」
重い雰囲気の中、沙織は鷹緒に言われた通り少し離れたところにいようと、出入口の横にある待合用のソファで、そんな様子を見つめていた。