17-2. ビターバレンタインデー (後編)
モデル部の社員たちが戻ってきた。今日はバレンタインのためにイベントが多数あったのである。
「おかえりなさい。おつかれさま」
三人だけの事務所が、一気に賑やかになった。
モデル部が帰ってきたということで、沙織も仕事を終えたとみて、鷹緒は携帯電話を見つめる。しかしメールも着信もないので、今日は会えないかもしれないと思い、デスクへと向かった。
しばらくすると、隣の席に俊二が帰ってきた。
「おう。おかえり」
「ただいまです……」
浮かない顔の俊二に、鷹緒は首を傾げる。
「そんなに疲れたのか? 今日の現場」
「いえ、違うんです……」
「じゃあなに? カノジョと喧嘩でもした?」
冗談で言った鷹緒だが、それに反して俊二は顔を曇らせた。
「……はい」
「嘘。マジで?」
無意識に、鷹緒は俊二越しに牧を見た。先程の様子からもいつも通りに見えたが、もしかしたらいつもの鈍感さに牧の地雷を踏んでしまったかもしれないと、鷹緒も不安になる。
「喧嘩っていうほどではないんですけど……鷹緒さん、今日はデートですか? 違うんなら飲みに行きません?」
情けない顔の俊二を前に、鷹緒は小さく息を吐いた。
「べつにいいよ」
「本当ですか? じゃあすぐ仕事片付けますんで!」
隣のデスクでパソコンに向かい始めた俊二を横目に、鷹緒は沙織に電話をかけた。
『おつかれさまです』
まだモデル仲間と一緒にいるのか、のっけから他人行儀な沙織の声が聞こえる。
「おう……そっち終わった? 今日の予定は?」
『これから女子会』
「そう。じゃあ今日は会わなくていいな?」
『その言い方がなんかムカつくけど……うん、いい』
「わかった。こっちも飲みに行くから。じゃあな」
それだけを言って、鷹緒は電話を切った。会う約束をこぎつけたかったわけではないが、居所くらいは言っておかないといけないと思ったのである。
鷹緒も残った仕事を片付けると、俊二とともに会社を出ていった。
居酒屋へ向かった二人は、早速酒で乾杯をする。
「バレンタインに男二人って、すげー微妙だな……で、どうしたんだよ?」
苦笑しながらも、鷹緒はすぐに真剣な顔をして俊二を見つめた。
「先日……鷹緒さんからもらったディナークルーズで、牧ちゃんにプロポーズしたんです」
展開の早い俊二の行動に、鷹緒は目を丸くしながらも続きを聞こうと前のめりになった。
「早いな。それで?」
「……俊二君らしくないって、言われちゃって……」
それを聞いて、鷹緒は椅子に座り直すと、煙草に火を点けた。
「……何に対して?」
「全部でしょうね……豪華ディナークルーズも、僕にしちゃ背伸びしすぎだったと思いますし、プロポーズの仕方もハマってなかったのかなって……街の夜景を見ながら、ロマンティックにやったつもりだったんですけど……」
落ち込む俊二を前に、鷹緒は苦笑した。それを見て、俊二は口を尖らせる。
「ひどいですよ……鷹緒さんは百戦錬磨だから簡単に落とせるかもしれませんけど、僕はそれなりにたくさん頭の中でシミュレーションして、考えに考え抜いたプランで臨んだんです!」
鷹緒は煙草の煙を吐くと、その火を消して静かに笑った。
「俺が百戦錬磨のわけねえだろ? 俺もさ……実は一回、プロポーズ却下されてんだよね……」
苦笑しながら言う鷹緒に、俊二は目を見開く。
「却下って……副社長にですか?」
「そう。俺はおまえと逆で、何にも考えないで、ただ日常の中で言ったんだよ。もともとお互いにそういう話はしてたから、まさか断られるとは思ってなかったんだけどな……“こんななんでもない時に言うなんて酷い。もう一回ちゃんとムードのある時にやって”とか言われてさ……」
なぜこんな苦い昔話まで出して俊二を慰めなければならないのかと思いながらも、鷹緒は昔話を語るように、笑いながらそう言った。
「それはちょっとキツイっすね……それで、どうしたんですか?」
「やったよ。こっちもプライドがあるから数ヶ月は放っておいたけど、これでもかっていうくらいベタベタのサプライズしてやった」
「どんなふうにですか?」
真剣に悩んでいる様子の俊二だが、鷹緒は教える気はなく、溜息をついて日本酒に口をつける。
「そこまで言いたくないんだけど……」
「教えてくださいよ!」
「うーん……」
渋る鷹緒に、俊二は子犬のように潤んだ目で見つめるので、鷹緒は苦笑して重い口を開いた。
「……その日はイベントがあって……俺もあいつも同じ仕事だったから、終わった後に食事に行ったんだ。でももちろんその日にやるって前もって決めてたから、前振りとかもしておいて、ちょっと洒落た展望レストランで食事するのも違和感ないくらいにして、そのままヘリで周遊しながら花火見て、降りた先が遊園地でさ。予約してたからそのまま人通りパスして、観覧車の中で指輪出した。でもあいつは、感動なんて見せなかったけどね」
端折って簡単には言ったつもりだが、それでも苦い思い出として言葉に滲み出ている。
「ええ。そこまでしてですか……」
「そういうやつだよ。まあ喜んではくれたみたいで、プロポーズは受けてくれたけどな。あんなこっぱずかしいことはもう出来ないし、あの頃あれ以上求められてたら別れてたかも」
普段の鷹緒からは想像もつかないほどのサプライズに、俊二は興味津々の様子で頷いた。
「へえ……すごいですね」
「だから、一度くらい断られたって気にするなよ。牧はおまえに愛想つかしたわけじゃないと思うし、かといって遊びのわけでもないだろうし、焦らなくても時期が来れば解決するんじゃない? って、俺みたいな負け犬に相談してる時点でどうかと思うけどな」
「いや、やっぱ鷹緒さんはカッコイイです。普通にしててもそんななのに、そんなサプライズされたらイチコロですよね……」
「だから俺は成功者じゃないっての。でも……ちょうど十五年前の今日なんだよなあ」
頬杖をつきながら遠い目をする鷹緒に、俊二は目を見開いた。十五年前のバレンタインデー、鷹緒は理恵に一世一代の大勝負を仕掛けたというのだ。それを聞いて、十五年後の今が申し訳なく思えた。
「すみません。今年は彼女もいるっていうのに、僕なんかと場末の居酒屋で……」
「ハハ。べつに彼女がいたって、今日はどのみち一人だから」
「でも、うまくいってるんでしょう?」
「まあな。そういやおまえ、牧からチョコレートもらった?」
話を戻されて、俊二は俯く。
「いえ……」
「俺はもらったよ。おまえのがないわけないだろ。もらい忘れたんじゃねえの?」
「今日はしゃべってもいませんから……」
「うまくいってないなら、余計に距離なんかとらないほうがいいぞ」
「はい……」
その時、俊二の携帯電話が震えたので、俊二は隣に置いていたバッグを探る。見るとメールだったが、牧からではなく友達からである。
俊二は溜息をつくと、携帯電話をバッグに戻す。すると、バッグの中に見慣れぬ小箱が入っていることに気付いた。今日は出先でチョコレートをもらったものの、それには見覚えがない。
「これは……?」
取り出した俊二の手に握られた箱を見て、鷹緒は微笑んだ。
「牧からだよ。俺にくれたのと同じ包み」
「え、本当ですか? いつの間に……」
「開けてみれば?」
鷹緒に促され、俊二はラッピングされた箱を開けた。そこには鷹緒が食べたものと同じ手作りのトリュフチョコレートが入っている。
「たぶん……全部食ったら答えが出るんじゃない? 俺にくれたのは、牧のおまえに対する前振りか保険だったのかも」
そう言いながら、鷹緒は自分のバッグの中を探り、俊二が手にする箱と同じ箱を取り出して中を見せた。すでに鷹緒はあと一個を残して食べ尽くしているが、四個入りの箱の底には、牧からの“いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします”という手書きのメッセージが書かれていた。チョコレートをどけないと見えないメッセージである。
俊二はそれを見て、牧からのチョコレートを一気に口に入れた。
「一気かよ……」
苦笑する鷹緒だが、俊二は箱の底を見つめて目を潤ませている。
「なんか書いてあったか?」
心配そうに尋ねる鷹緒に、俊二は頷きながら箱を差し出した。鷹緒はそれを見つめると、俊二を見て微笑む。
箱の底にはやはりメッセージが書かれており“この間はごめんね。びっくりしちゃって余計なこと言っちゃったけど、すごく嬉しかったです。今すぐ結婚は考えられないけど、結婚を前提にお付き合いを続けていけたらと思っています。大好き”と書かれていた。
「よかったじゃん」
「はい! ありがとうございます」
「今日が終わらないうちに、会いに行ったら? まだ会社にいるかもよ」
鷹緒に言われて、俊二は思い立ったように立ち上がった。
「あ、でも……」
「ここはいいって。行けよ」
「じゃ、じゃあ……失礼します。今日はありがとうございました!」
足早に去っていく俊二を尻目に、鷹緒は苦笑して一人酒を呑む。
「ったく、俺ってば損な役回りじゃん……やっぱりバレンタインは駄目だな……」
惨めな身の上を案じて、鷹緒は笑うことしか出来ない。バレンタインデーに一生忘れられないほどの思い出を作ってしまい、この日が来るといつでも思い出してしまう。
鷹緒は早めに切り上げて会計を済ませると、居酒屋の外へ出た。すると、ちょうど向こうから理恵と牧が歩いてくるのが見えて、鷹緒は顔を顰めた。
「牧……おまえ、俊二は?」
思わず言った鷹緒に、牧は首を傾げる。
「え? 鷹緒さん、俊二君と呑んでたんじゃないんですか?」
「あいつ、おまえに会いに行ったぞ」
「嘘……まあでも、用があるなら電話くらいかけてきますよ」
女性というのは男性より淡泊な部分があるなと思いながら、鷹緒は頷いた。
「あんまりすれ違わないようにしろよ」
「じゃあ牧ちゃん、俊二君に電話してみたら?」
今度は理恵がそう言ったので、牧もまた苦笑して携帯電話を見つめた。すると気付かなかったのか、そこには俊二からの着信が入っている。
「あちゃー、気付かなかった。じゃあ私、ちょっと戻ってみますんで、ここで……」
「うん。おつかれさま」
去っていく牧を見送って、理恵は鷹緒を見つめる。
「俊二君にふられたみたいね」
「まあな……おまえは? 牧と飲み会ってわけじゃねえよな?」
「うん。たまたま帰るタイミングが一緒だったから、駅に向かってただけ。今日はバレンタインなのに、紙袋下げてないのね?」
「本命がもらえればいいんだよ」
「その本命と、これからデート?」
からかう理恵に、鷹緒はバツが悪そうに俯いた。今日は沙織に会ってもいないため、チョコレートすらもらっていない。しかし鷹緒は見栄を張るように口を開く。
「まあな……」
「そう。今日はイベントも盛り上がってたし、沙織ちゃんの気持ちも盛り上がってるんじゃない?」
「俺はおまえに会って盛り下がってるよ」
悪態をつきながら歩き出す鷹緒に、理恵は苦笑してついていく。
「ずいぶんな口利くのね」
「ついてくんな」
「しょうがないでしょ。駅こっちなんだから」
「今日はおまえのこと考えたくない日なんだよ」
本音を言う鷹緒に、理恵は立ち止まった。そんな気配を感じて、鷹緒は振り返る。
「行っていいよ」
苦笑する理恵が寂しそうに見えて、鷹緒は軽く溜息をついた。
「それじゃあ俺が、嫌なやつみたいじゃん」
「まあ、見る人が見たらそうじゃない? もうどっちなのよ。優しいのか冷たいのかはっきりしてくれなきゃ、私も困るよ」
「俺は……十五年前のバレンタインデーが、今思い出しても苦いだけ」
そんな鷹緒とは対照的に、理恵は明るく笑う。
「私も忘れられないよ。でも苦くなんかなくて、もう一生あんなサプライズしてもらえないんだろうなって、ちょっと宝物みたいに胸にしまってあるの」
「……俺は俊二に言っちゃったけど」
「ええ? せっかく二人だけの貴重な思い出なのに」
「どこが。それにおまえ、あの時全然喜んでなかったじゃん。むしろ引いてた」
「引いてはないけど、よく鷹緒がここまでしてくれたなあっていうほうが先に来ちゃってたのは確かかも。でも泣かなかっただけでちゃんと感動したし、だからプロポーズ受けたんじゃない」
「二度断られてたら結婚なんてしなかったよ」
「二度? 一回断ったっけ?」
「おまえなあ……」
そう言ったところで駅に着き、行き先が違う二人はその場で手を上げた。
「じゃあな」
「あ、鷹緒……」
去りかけた鷹緒に、理恵が声をかける。
「ん?」
「……鷹緒にとっては苦い思い出かもしれないけど、私は今でも思い出すと嬉しいし感謝してる。結果的に別れて、思い出したくもないかもしれないけど、だったらそれ以上の思い出作って。まあ、私が言うことじゃないけどね」
理恵の言葉を聞いて、鷹緒もまた苦笑した。
「やりたくてももう出来ないから、俺も胸にしまっておくよ。苦い思い出にはなったけど、思い出したくないわけじゃない。あの頃の俺を労ってやりたいよ」
「そうね……」
「じゃあな」
そう言って、鷹緒はタクシーで家へと戻っていった。
家に着くと同時に、鷹緒の携帯電話が鳴る。
「はい」
『沙織です。今、大丈夫?』
沙織からの電話に、鷹緒は無意識に微笑む。
「うん……ちょうど今、家に着いたとこ。どうした?」
『帰ったんだね。今から行ってもいい?』
「べつにいいけど、女子会は?」
『終わったよ。じゃあ、すぐ行くからね!』
軽い興奮状態とみられる沙織は、そのまま電話を切った。鷹緒は首を傾げながらも部屋に上がり、飲み足りないので冷蔵庫のビールに口をつける。
それからしばらくして沙織がやって来た。その姿を見ただけで癒されるように、鷹緒は優しく微笑む。
「いらっしゃい」
「急にごめんね」
そう言う沙織は、外でのイベント仕事と女子会後で高揚したテンションを引きずるように、明るく微笑んでいる。
「いや。でも飲み会にしては早かったじゃん?」
「飲み会じゃないの。イベント終わってから、家で麻衣子たちと一緒にチョコ作る約束しててね。もうみんなで大騒ぎ! はい、まだ完全に固まってないと思うけど、出来たてほやほやだよ」
沙織は鷹緒に小箱を差し出して言った。
今日はチョコレートをもらうどころか会えないと思っていた鷹緒は、そんな沙織からのプチサプライズというべき行為に、素直に感動する。
「すげえな……手作りチョコなんて作ってる暇ないと思ってたのに」
「生チョコなんだ。ちょっといびつだけど、心は込めたよ」
「ありがとう。うまい」
早速一口を食べて、鷹緒は微笑んだ。その笑顔につられるように沙織も微笑む。
「よかった。今日渡せて」
「俺も今日会えてよかった」
鷹緒は沙織の髪を撫でると、唇にそっとキスをした。
「チョコレートの味がする」
そう言った沙織に、鷹緒はもう一度キスをして抱きしめた。他愛もないこの瞬間は、あまりにも穏やかで温かく、十五年前の今日にはない輝きがあると素直に思える。
「沙織……これからもずっと一緒にいて」
思わず出た鷹緒の言葉に、沙織は頷いて鷹緒の背中に手をやった。
「うん。来年もその先もずっと、バレンタインにはチョコ作るからね」
「うん……」
そんな小さな約束が、二人を温かく包み込んでいた。