17-1. ビターバレンタインデー (前編)
朝、出かける支度をしている鷹緒の前で、広樹が行動予定表のホワイトボードに記入を始めた。
「おまえも出かけんの?」
鷹緒の言葉に、広樹が振り返る。
「うん、打ち合わせとイベントの引率」
「俺も出るとこだけど」
「電車? 同じ方面なら一緒に行こうか」
「ああ」
そう返事をして、鷹緒もホワイトボードに記入すると、広樹とともに会社を出ていく。
「あ、ちょっと待ってください!」
その時、受付にいた牧が二人を呼び止めた。
「なに?」
同時にそう言って振り向く二人に、牧が折り畳んだ紙袋を差し出した。
「なにこれ?」
「今日が何の日かわかってないんですか?」
口を曲げる牧に、広樹は首を傾げる。
「バレンタインデー?」
「まさかチョコ用に持ち歩けって? んなこと出来るか」
広樹に続いて鷹緒が言った。しかし牧は、強引に二人に紙袋を持たせる。
「嫌味でもなんでも、毎年どれだけもらってるか学習能力ないんですか? 以前はもらった先で袋もらったり、もらったのに忘れて来たりと散々だったでしょ? そんな失態を後で聞かされる私の身にもなってください。恥ずかしいので持って行ってもらいます」
「いや、牧ちゃん……鷹緒はともかく、僕は毎年そんなにもらわないし、たとえ持ちきれなくなっても外で買うからいいよ。持って行って全然もらえなかったら、それはそれで恥ずかしいし……」
「俺だってしばらく海外にいたんだから、俺に義理チョコくれる習慣ついてる人からも、もうもらえないと思うけど……」
「いいから持って行ってください!」
「ハイ……」
牧の剣幕に押され、鷹緒と広樹は紙袋を持って会社を出ていった。
「ヒロ。やる」
会社の外に出るなり、鷹緒が紙袋を差し出した。
「ええ? あとで牧ちゃんにしばかれるぞ」
「牧が怖くてやってられるか。それに俺、本当に必要ないもん」
「もしかしてあれか? 本命以外は受け取らないとかそういうこと?」
「そう出来たらいいけど、取引先では断れないな」
「じゃあ必要だろ。牧ちゃんが言ってること、全部おまえの失態だろうが」
広樹の言葉に、鷹緒は苦笑する。
「確かにそうだけど……本当、今年はいつもくれる人たちからは、今日会わないからって結構前からもらってるし、今日の仕事はほとんど男ばっかりだから大丈夫だと思う。おまえは今日のバレンタインイベント行くんだろ? 女ばっかりの現場なんだから、多めに持って行って損はない」
「そんなこと言って邪魔だからだろ。おまえじゃないんだから、二袋なんて必要ないよ」
「残念。俺の全盛期は二袋どころじゃねえよ」
「それはモデル時代とかだろ。しかしおまえ今日、機嫌良いな」
昔話を持ち出して笑う鷹緒が珍しく思えて、広樹が不思議そうにそう言った。すると鷹緒は、歯を見せて得意げに笑う。
「わかる? 直接じゃないけど、恵美から手作りチョコもらったからさ」
なるほど鷹緒の態度がいつになく明るい理由がわかり、広樹は苦笑する。
「それ、僕ももらったけど」
「はあ? 嘘だろ。なんでおまえに……」
「僕だって、恵美ちゃんに好かれてるもんね」
「ああそう?」
一気にテンションが落ちるように、鷹緒は溜息をついた。
「まあいいじゃん。今年は本命からもらえるんだろ。じゃあまあ……資料入れとして頂こうかな」
広樹は持っていた書類ケースを紙袋に入れ、鷹緒の紙袋も一緒に入れた。
そして二人は電車へと乗り込む。
「しかしバレンタインか……この時期、憂鬱だよな。うちは女性タレントばっかりなのに、結構ファンの人から届くから、事務所宛のチョコの整理もしなくちゃいけないし、個人的なホワイトデーのお返しもばかにならないし……」
それを聞いて、鷹緒はふと思い出した。
「ああ、会議室のダンボール、あれ全部チョコか」
「そうだよ。おまえ宛のもあったぞ。去年まではアメリカ行ってたから落ち着いてたけど、またテレビ出たりして名前が売れたし、今年はきっと箱で渡すようだな」
「だったらおまえもテレビ出たから多いんだろ。俺のは捨てといてくれ」
「言うと思ったけど、チョコはともかく手紙は読めよ。これ、社長命令」
なんでも言い合える仲ではあっても、社長命令というのは鷹緒にとって絶対的な言葉であるため、苦笑しながらも頷いた。
「わかったよ。しかしチョコは好きなんだけどな……知らない人からのチョコなんて食えないし……」
「そうか?」
「おまえも食い意地張ってるんだから気を付けろよ。変なモノ注入されかねないから」
そう言う鷹緒は、バレンタインデーというものに対してあまりいい印象を持っていない。特にモデル時代は公私ともに人から憧れられる存在だったため、もらったチョコレートの数も桁違いだったのだが、中にはまじないと称して異物が混入されているチョコレートや、怨念とまで取れる手作りプレゼントをもらったこともある。
「ハハ。僕はそこまで嫌な思いしたことはないから……でも今年は沙織ちゃんもいるんだし、食べられるチョコがあってよかったじゃないか。彼女だったら手作りじゃない?」
「どうかな……あいつだって今日のバレンタインイベントに出るし、そんな暇ねえだろ。今日は会う約束もしてないし」
「そうなんだ?」
「おまえも義理だけじゃないんだろうから、そろそろ決めたら?」
突然の鷹緒の言葉に、広樹は顔を顰める。
「チョコもらった中から彼女選べって? どれが義理でどれが本命かなんてわかんないだろ。僕の場合、社長ってだけでもらうことも多いんだから」
「おまえ、散々人の恋路にとやかく言ってくるくせに、自分の恋愛に手を出さないってなんだよ?」
「それはおまえじゃないけど、そんな暇ないって。今日だって社長自ら引率だぞ? たまには悠々とイベントを遠くから見てるだけのポジションでいたいよ」
「だったら従業員増やすか、仕事減らすかしてくれ」
「はあ……なんか僕たち、進歩しない会話だよなあ」
深い溜息をつく広樹を横目に、鷹緒が笑った。
「まあ、俺たちがこんななのは三崎企画にいたからだろ。あそこで忙しかったのが沁みついてるから、百パーセント以上の仕事しなきゃ気が済まないって感じ」
「残念ながら、それはあるね」
「俺はただ目の前の仕事こなすだけだけどな……じゃあ俺、次の駅だから」
そう言いながら、鷹緒は切符となる電子マネーカードを取り出す。
「ああ、了解」
「せいぜいチョコレートに埋もれないようにな」
「ハハッ。一度くらいそうなりたいもんだよ」
互いに笑って、先に鷹緒が電車を降りていった。
残された広樹は、大きな紙袋を見つめながら苦笑した。広樹も学生時代から人より多くチョコレートをもらう人間だったが、鷹緒を見ていると麻痺する部分もある。それはすでに事務所宛に届いたタレント宛の段ボール箱を思い出しても同じで、甘い物に対して嫌悪感さえ覚えそうだった。しかし鷹緒の言葉を思い出すと、気になる存在から本命チョコというものがもらえるかもということは、一応気になった。
夕方。WIZM企画のドアが開くなり、牧は驚いて立ち上がった。
「おかえりなさい……だ、大丈夫ですか? 社長」
目の前の広樹は三袋の紙袋を抱え、尚且つイベントで使用した資料などを抱えている。
「大丈夫だけど、疲れたあ」
「それ全部チョコですか?」
「うん。鷹緒から袋もらったはいいけど、それでも足りなくてコンビニに走ったよ……」
「もう……鷹緒さんってば、せっかく用意したのに持って行かなかったんですね?」
「おかげで僕は助かったけどね……」
そう言いながら、広樹は奥の会議室へと入っていく。そこにはいくつものダンボール箱が置かれ、すでに始まっていた仕分け作業により、名前別で分けられている。
「やっぱりね……鷹緒の人気は健在か」
箱いっぱいの鷹緒宛のダンボールを見て苦笑する広樹は、持ち帰ってきた紙袋を置く。ほとんどは自分宛の義理チョコだが、鷹緒を含めた社員用に預かってきたものもある。
そこに、牧がコーヒーを入れてやってきた。
「昼間、作業班が頑張ってくれたんで、仕分け作業は概ね終了しました。社長宛のは社長室に運んでありますよ。やっぱりテレビ効果なんでしょうかね……例年以上でびっくりしました」
「本当に?」
会議室手前にある社長室を覗くと、確かに中には大きなダンボール箱が置かれている。
「ええ? これ全部、僕に?」
「そうですよ。今回は鷹緒さん以上かもしれませんね」
「なんでだろう……」
「ただーいまー」
そこに鷹緒が戻ってきた。手には大きめのレジ袋があるものの、広樹ほどの量ではない。
「おかえり……鷹緒、それだけ?」
「うん。ああこれ、おまえ宛に預かった」
そう言って、鷹緒は広樹にチョコレートの包みを渡す。
「私の読みが外れたんですか? 鷹緒さん、もっともらうはずなのに……」
不思議そうに首を傾げる牧に、鷹緒は苦笑した。
「言ったろ。俺の全盛期はとっくに過ぎてますから」
「鷹緒さん、なにかしたでしょ?」
そんな牧を尻目に、鷹緒は不敵に微笑む。
「べつに? チョコくれるくらいなら、仕事くれとは言ったけど……」
「うわあ……鷹緒さんにしか言えないセリフですね」
「まあ冗談だけど、仲良い女性陣には、もらっても食べないとも言っておいたし」
「それでも鷹緒さん宛のチョコは箱で来てますけどね……」
「それは一般人だろ? 手紙だけくれよ」
牧の話を聞きながら、鷹緒は会議室を覗いた。沙織宛のチョコレートも紙袋で来ているらしい。
「ヒロ。おまえ、イベントの引率だったんだろ? モデル陣は?」
社長室に顔を出して、鷹緒が尋ねる。
「僕は前半だけだから。あとで理恵ちゃんたち来たから、途中で抜けて帰って来たんだ。バレンタインイベントだから、あのままいたらもっとチョコ増えてただろうしね」
「おーおー、おモテになるようで」
「こんなにもらったの初めてだよ」
「もらった? 綾也香たちから」
「もらったよ。コテコテの義理チョコ」
「案外手作りかもよ?」
「ハハッ。じゃあ怨念詰まってるのかな」
「しかしトップモデルからチョコもらうってのは、いいもんなんじゃないの?」
「そりゃあまあね」
照れくさそうに笑う広樹を見届けて、鷹緒は給湯室へと入っていく。すると牧がコーヒーを入れていた。
「コーヒーでいいですか?」
「うん。ありがとう」
「あと、いっぱいもらってるでしょうけど、これは私から」
用意していたチョコレートを差し出した牧に、鷹緒は嬉しそうに微笑んだ。
「おお、やっとまともに食えるチョコだ。サンキュー」
「なんですか、それ」
「俺はおまえを信用してるってこと」
「鷹緒さん……その笑顔がずるいですよ」
「俺なんかの笑顔で良ければ、いつでもあげますよ」
今日は未だ調子がいいのか軽く冗談を言って、鷹緒は早速、牧からもらった包みを開けた。そこにあったのは、手作りのトリュフチョコレートである。
「手作りじゃん。よく時間あったな」
「溶かして丸めるだけなんで」
「俊二のついででも嬉しいよ」
早速チョコを頬張って、嬉しそうに微笑む鷹緒に、牧は苦笑した。長年勤める自分だから素の顔を見られる部分もあるだろうが、そうでなくとも鷹緒がチョコレートを数多くもらう理由がわかる気がする。
「鷹緒さん……やっぱりカッコイイですね」
そう言った牧に、鷹緒は驚いて噎せ返った。
「てめえ。急になんだよ」
「だって……普段一緒にいて忘れてましたけど、チョコレートの数がそれを物語ってるなあって」
「ああそう?」
苦手な話題でうんざりした鷹緒を見て、牧は責めるように笑顔で頷く。
「そうですよ。あーカッコイイ。超カッコイイ」
悪ノリする牧に、鷹緒もまた不敵に微笑むと、牧を壁際に追い詰め、いわゆる壁ドン状態で牧を見つめた。
「え、牧ちゃん。俺のどこがカッコイイって? 顔? 声? 仕草? 性格?」
「ちょっと、鷹緒さん!」
ある意味キレた状態で微笑む鷹緒に、さすがの牧も真っ赤になってそう叫ぶ。
そんな鷹緒の頭を、後ろから広樹が叩いた。
「イテ!」
「おまえな、いつか牧ちゃんに訴えられるぞ?」
一部始終を見ていた広樹は、苦笑してそう言った。
「助けて、ヒロさん!」
広樹の後ろに回り込む牧に、鷹緒も苦笑する。
「いや、そのシチュエーションが流行ってるらしいから」
「だからって、私に試さないでも」
「ドキドキした?」
「だから、なんで私にドキドキを求めるんですか!」
お互いに気を許し合っている二人の間で、広樹は苦笑するしかない。そんな中で、鷹緒と牧は楽しげな言い合いを続けている。
「だっておまえ、俺になびかないじゃん」
「そんなことないですよ? 人間、いつ何が起こるかわからないですし」
「へえ? そりゃあ誤算だったな」
長年共にしてきた社員だからこその会話だが、傍から見ている広樹には羨ましくもハラハラしつつもあった。
「まったく、恵美ちゃんから手作りチョコもらっただけで一日中機嫌がいいなら、これから毎日作ってもらおうかな」
「おまえにもあげてたって聞いて、半減したけどな」
広樹と鷹緒の会話に、牧はくすりと笑った。
「もう、鷹緒さんったら。彼女より娘さんからのチョコのが嬉しいなんて、沙織ちゃん妬きますよ?」
「こればっかりはしょうがねえだろ。それにバレンタインにチョコ作ったのは、生まれて初めてだっていうから。しかも俺のためだって。だからおまえにあげたのは、ついでの余りだからな」
「いいよ、ついででも余りでも……ったく、親馬鹿だな。しかし本当の父親じゃないのに、よく……」
そんな広樹の言葉に、場は一瞬にして凍りついた。冗談めいて言ったつもりだったが、凍りついた場に広樹は顔色を変える。
「悪い……」
鷹緒は口を曲げつつも、諦めるように苦笑した。
「そんな重くならないでくれる? いいよ、本当のことだから……でもまだ戸籍上では俺の娘だし。誰がなんと言おうと、俺はあいつが大事なんだよ」
恵美が自分の子供ではないということは、広樹にさえずっと嘘をついてきたことだ。それは使い分ける自信がなかったことにもあれば、恵美が生まれた当初は、理恵と復縁するかもしれないという当時の思いが少なからずある。
しかし豪が帰ってきた数日中に、鷹緒は広樹に打ち明けた。そして牧もまた、それを後に知らされている。知らされた方としては複雑な思いがありつつも、もう打ち明けられてから数年経っていることもあり、変わらず子供思いの鷹緒を見れば、それもまた薄れていた。
「わかってるよ。大事なのは僕だって同じだ……それで、おまえにチョコが減った理由って、結局なんなの?」
早く話題を変えようと、広樹はそう尋ねる。鷹緒は気に留めた様子もなく、早くも牧のチョコレートの二個目に手をつけていた。
「べつに大したことじゃないよ。もらったらべつのやつに横流ししただけ」
「おまえ、最低……」
「その場で開けて食べるフリはしたよ?」
「それでその場に置いてきたんだろ? それじゃあ差し入れと同じ扱いしただけじゃん」
「そういうノリにしたし、一応断っておいたから大丈夫だって。それに向こうだって、俺一人で全部食べ切れないのはわかってるだろ。ホワイトデーでお返しすれば済むことなんだからいいんだよ。とにかく今年は量も多いし彼女もいるし、他からしかも義理までもらうなんて面倒くさい」
先程の恵美からのチョコレートと比べれば、まるで鬼畜の言い分に聞こえたが、広樹と牧は互いの顔を見合わせて苦笑した。
「わからないでもないですけど、またあとで私が他の会社の女の子と飲みに行った時に、文句言われるのは嫌ですよ?」
牧は取引先の女子社員とよく飲みに行っているため、鷹緒や広樹の他での付き合いも知っている。そんな牧に、鷹緒は溜息をついた。
「もし言われたら言って。来年はまた考える」
「言われなくても考えてくださいよ。その扱いはちょっとひどいです」
「そうか? いい方法だと思ったんだけどな……」
「ただいまー!」
その時、モデル部の社員たちが戻ってきた。