1. 恋人
鷹緒さん……鷹緒さん……鷹緒さん……。
何度その名を呼んだだろう。
届かないほど遠かった手が、視界に入らないほど他へ向いていた瞳が、今は私の目の前にある。
「沙織」
鷹緒さんの大きな手が、私の頬を優しく撫でる。それだけで、胸の奥底から湧き上がる熱に、私は思わず目を閉じた。
「沙織。調子悪い?」
ある朝、鷹緒さんの家で目覚めた私の額に手を当てて、彼がそう言った。
彼氏――と呼べる間柄になっても、やっかみの多い職場ということで、私たちの関係は秘密だ。それでも私は、鷹緒さんと付き合える幸せに浸っている。
「違うの。幸せ噛みしめてただけ」
私の答えに、鷹緒さんはくしゃっと笑いじわを見せて笑う。
「なんだよ、それ。朝メシは外でいいよな? とにかく事務所向かわないと」
「うん。すぐ支度するね」
それから私たちはマンションを出て、鷹緒さんの車に乗り込み、WIZM企画プロダクションという会社へと向かう。私はモデル、鷹緒さんはカメラマン。そこが私たちの職場だ。
仕事人間の鷹緒さんと付き合うのは思いのほか大変だった。今日はやっと合った休みなのに、こうして事務所に寄らなければならないなんてあんまりだという自分もいれば、そういう人を好きになったのだから仕方がないという自分もいる。
付き合い始めて数ヶ月。その間にも、私たちにはいろいろなことがあった。私の二十歳の誕生日も、事務所の社員旅行に一緒に行ったことも、ついこの間の話だ。
「ちょっと行ってくるから、映画の時間調べて待ってて。大丈夫。すぐ戻るから」
そう言って、私を車に残して去っていく鷹緒さんだけど、すぐに戻れるはずがないということを、私は身を持って体験している。だから焦らないように携帯電話を見つめた。
「映画……十一時からのに間に合うかな……」
今日は前々から約束していた映画鑑賞の日。すでに何度もドタキャンされて、やっとこぎつけた日だ。お互いに見たい映画は事前に決めていたので、あとはどの時間に見られるかどうか……。
「あれ? 沙織じゃん!」
事務所の前に停車していたので、やってきた原田麻衣子と、島谷綾也香ちゃんというモデルに見つかってしまった。
麻衣子は先輩モデルだけど同じ年のため仲が良く、綾也香ちゃんは年上で別の事務所の所属モデルだけど、その前はうちのWIZM企画に所属していて、来期でまたこちらに戻って来ると聞いている。麻衣子と綾也香ちゃんは旧事務所の頃からの同期らしい。二人ともモデル界を背負うトップモデルだ。
また、親友の麻衣子にだけは、私と鷹緒さんが付き合っていることを打ち明けていた。
「麻衣子に綾也香ちゃん……」
私は車から降りて挨拶をした。気さくな性格の二人だけれど、先輩後輩の礼儀はある。
「どうしたの? デート?」
「う、ううん……」
「デートだよ」
返事に困る私に、事務所から出てきた鷹緒さんがそう言った。
「鷹緒さん!」
「親戚同士で会うのに、何か問題でもある?」
不敵に微笑む鷹緒さんに、事情を知らない綾也香ちゃんは顔を赤らめている。
「べ、べつにないですけど……」
「言いふらすなよ。深い意味はないから」
鷹緒さんも麻衣子には知られていることがわかっているので、綾也香ちゃんに向けてそう言うと、足早に車に乗り込んだ。私も二人に挨拶をしてそれに続く。
同じ事務所に所属するモデルとカメラマンが付き合うことにプラスはない。私たちの交際は事務所の社員と麻衣子以外知らないはずだけれど、言えない苦しさもありながら、親戚だから……という、ある意味魔法の言葉に何度も助けられ、その度に傷ついている自分がいる。
「じゃあな」
鷹緒さんは二人にそう言って、車を走らせた。
麻衣子と綾也香ちゃんには、一瞬の出来事のように感じられたかもしれない。きっと私たちと会ったことなど、今日の仕事をこなしている間にも忘れてしまう程度のことだろう。
「映画の時間調べた?」
走り出した車内で、鷹緒さんが尋ねた。
「あ、うん。十一時からのに間に合うかな……その後は、二時半からのになっちゃうけど」
「いいんじゃない? 十一時ので。間に合うよ」
「うん。でも鷹緒さん、戻るの早かったね」
「だからすぐ戻るって言ったろ? 俺だって、そうそうおまえのこと待たせてばっかじゃないよ」
「嬉しい……」
鷹緒さんの言葉に一喜一憂している自分に恥ずかしくなるけれど、私は間違いなく嬉しさで溢れていた。
「あ……綾也香ちゃんに見られちゃったね。麻衣子がフォローしてくれるかもわからないけど、親戚同士とはいえ、おかしいと思ったかな……」
続けて言った私に、鷹緒さんの横顔は至っていつも通りだ。
「さあ……おかしいと思ったとしても、べつにあの子は言いふらさないだろう」
綾也香ちゃんは古くからWIZM企画に所属していたというから、鷹緒さんともお互いを知る仲のようだ。それが過去の話といっても、引っかかる部分はある。
「よくわかってるね。綾也香ちゃんのこと……」
「まあ、あいつとは仕事でもよくかち合うし、昔からの知り合いだからな。でも言いふらさないって話は、念を押しておいたから大丈夫だろうってことだけだよ」
「ふうん?」
納得出来たような出来ないような、だけどもうそれ以上詮索するのはやめた。久々の二人きりの休みを満喫したい。
その時、鷹緒さんの携帯電話が鳴ったので、車は路肩に止まった。
「はい、諸星です」
『広樹だけど』
WIZM企画の社長である木村広樹社長、通称ヒロさんの声が、私にも聞こえた。
「今日は仕事やらないぞ」
言われるより前に鷹緒さんが言った。鷹緒さんが仕事に追われているのは、鷹緒さんだけのせいではない。ヒロさんとは同じ年で高校時代からの知り合いだというので、ヒロさんが急な仕事を鷹緒さんに振ることも多々ある。
『うーん。仕事っちゃ仕事なんだけど……デートの前にでも、FJ企画に根回しの電話しといてくんない? 今日打ち合わせがあるんだ。あそこの部長は厳しいらしいけど、おまえの評判だけはいいみたいだからさ。ほら、今度世話になるから』
「それなら昨日のうちに電話しといたから大丈夫だよ。一方的に世話になるんじゃないし、社交辞令だろうけど、一緒に仕事出来るの楽しみって言ってくれてたよ。確かに担当の部長は怖そうだけど」
『そう? さすが仕事が早いな、ありがとう。じゃあそれだけだから、デートの邪魔してごめん』
「いいよ。じゃあな」
鷹緒さんは電話を切ると、車を走らせる。
「今日は携帯切っておこうかな……」
ぼそっと言った鷹緒さんに、私は嬉しくなって微笑んだ。
「駄目だよ。映画の最中はともかく、鷹緒さんと連絡取れなかったら困る人がいっぱいいるんだから。そう言ってくれるだけで十分」
「物わかりがいいんだな。じゃあ、これ以上邪魔が入らないうちに、さっさと映画館入ろう」
「うん」
私たちは映画館に入ると、流行りの映画を見た。
その後、軽くショッピングに付き合ってもらい、レストランに入り、送ってもらう。途中、鷹緒さんに何度か仕事の電話は入ったけれど、今日は一日中そばにいることが出来た。
恋人たちが当たり前にしているそんなデートというものを、やっと鷹緒さんと出来ることに、私は嬉しさを隠しきれずに笑った。
「なに?」
送ってもらった家の前、車の中で鷹緒さんが首を傾げて私を見つめた。その顔は優しく、愛しい。
「ううん。今日は本当にありがとう」
「こちらこそ」
付き合い始めて数か月、鷹緒さんは未だに時々、照れた顔を見せる。それがなんとも可愛らしくて、私は更に嬉しくなってしまう。
「明日は会えるかな……?」
「うーん。明日明後日は帰るの遅くなると思う。その後なら、割と早く帰れるよ。また連絡する」
「わかった。連絡待ってるね。おやすみ」
私はそう言って車のドアに手をかけると、逆の手を鷹緒さんが掴んだ。
振り返ると、鷹緒さんの顔が近付いてくる。私はとっさに身体を強張らせた。
「……嫌?」
苦笑する鷹緒さんに、私は首を振る。
「ううん……」
「じゃあ目閉じて」
言われたとおりにすると、鷹緒さんの唇が口に触れた。愛しい――。
夢心地の中で、鷹緒さんの顔が離れる。
「おやすみ」
「……うん。おやすみなさい……」
私は胸の高鳴りを抑えつつ車を降りると、とっさに振り向いた。鷹緒さんはまだ私の姿を見送ってくれている。
どうしよう。離れたくない……そう思って、私はもう一度、車のドアを開けた。
「どうした? 忘れ物?」
優しく尋ねられても、私は答えが見つからず、今度は私からキスをした。
離れた鷹緒さんの顔は、少し驚いているみたい。軽い女だと思われたら嫌だな……と思うと、途端に後悔した。
そんな私を察するかのように、鷹緒さんは軽く私を抱きしめ、優しげな表情で私を見つめる。
「今日もうち泊まっていく?」
明日は早いと聞いているが、そう聞いてくれた鷹緒さんに、私は嬉しくもあり辛くもあった。鷹緒さんの邪魔にはなりたくない。
私は笑顔に戻って首を振った。
「ううん。無理しないで。なんでもないの。急にごめんね……」
「……べつに無理なんかしてないけど」
そういう鷹緒さんも、次の言葉が見つからないようで、もしかしたら私と同じように寂しさを感じてくれてるのかな、なんて思うと、途端に元気になった。
「本当になんでもないの。じゃあまたね。おやすみ」
今度こそちゃんと降りて、私は手を振って鷹緒さんを見送った。
どんどんのめり込んでいく私がいる。それが嬉しくもあり怖くもあった。
「離れられないよ……」
一人暮らしのマンションに帰ると、私はバッグを投げ出してソファに座った。すると、バッグの中の携帯電話が震えているのに気付く。液晶画面には、鷹緒さんの名前があった。
「も、もしもし! 鷹緒さん?」
『ああ。おまえ、忘れ物あるだろ。下にいるから取りに来いよ』
「え? 嘘……なんだっけ」
そう返事をする途中には、電話は切られていた。バッグを探ってみても、特になくなっているものはない。もしかしたら会いたい口実かななんて思って、もう一度鷹緒さんに会えるならと、私は嬉しさいっぱいでマンションの下へと下りていった。
「はい。映画のパンフレット」
鷹緒さんは、本当にあった私の忘れ物を差し出してそう言った。口実じゃなかったと、ちょっと残念な自分の気持ちが贅沢に思えて、私は苦笑する。
「ありがとう……」
「っていうのは口実で……」
「え?」
「もう一回会いたかっただけ」
苦笑する鷹緒さんがとても愛しく思えて、私は泣けてきてしまった。
「鷹緒さん……やっぱり鷹緒さんちに泊まりたい」
明日が早いことなどお構いなしに、私はそう切り出した。自分から誘うのも恥ずかしくて、私の顔は真っ赤だったと思う。
困った顔をするかな……と、恐々と顔を上げると、目の前の鷹緒さんは少し顔を赤らめた様子で、優しげな笑顔を向けてくれている。
「じゃあ、急いで支度してこいよ」
「……いいの? だって明日、早いんでしょう?」
「だから俺は構わないって。俺に合わせて早く起きなきゃならないおまえのが心配だけど……」
私は嬉しさに顔を綻ばせ、急いで車のドアに手をかけた。
「ご、五分……ううん、三分で支度してくるから!」
そう言って、私はマンションへと戻っていく。
嬉しくて仕方がない。そう、鷹緒さんはいつだって、私のことを考えてくれているんだよね。そう思うと、今まで以上に胸が高鳴る。
鷹緒さん……鷹緒さん……鷹緒さん……。
もう何度呼んでも、鷹緒さんはいつでも私に振り向いてくれるんだよね?
大急ぎで支度をして車に戻ると、変わらぬ笑顔を向けてくれる鷹緒さんが待っていた。
「沙織。準備オーケー?」
「うん!」
「よし、行こう」
もう離れられない――私たちはそのまま、鷹緒さんのマンションへと向かっていった。