132-3. 見えない絆 (3)
次の日。沙織は特に用もなく事務所へと向かった。理恵のことが心配でもあり、鷹緒は恵美と一緒のため、頻繁に電話などをするのは躊躇ったからである。
事務所はいつも通りだが、モデル部はほとんど出払っている代わりに、企画部は珍しく人が多い。その中に鷹緒もいた。
「おお、沙織ちゃん」
奥にいた彰良がそう言うと、鷹緒が振り向いた。
「おう……どうした?」
「ううん。特に用はないんだけど……」
いろいろと心配してきたのだと察して、鷹緒は苦笑する。
「ごめん。今日は時間作れそうにない……」
「うん、いいの。わかってる……ちょっと寄ってみただけだし……」
その時、沙織は社長室に恵美がいることに気がついた。
「恵美ちゃん……?」
「ああ、宿題やってる。ヒロも空いてる時は勉強見てやってるみたいだし」
「そうなんだ……」
副社長の子供だからとはいえ、特別扱いの恵美に少し嫉妬しながら、沙織は悲しげに微笑んだ。
それを見て、鷹緒はパソコンの画面を切る。
「……彰良さん。ちょっとコンビニ行ってきます」
言いながら立ち上がる鷹緒に、彰良は驚いたような顔をした。
「はあ? おまえ、どんだけ仕事詰まって……」
「息抜きも大事でしょ。コンビニのコーヒーじゃないとやる気でないっス」
「……わかった。じゃあ俺の分も買ってきて」
「了解」
そう言うと、鷹緒は沙織の肩を押して横目で見つめる。沙織はそのまま鷹緒について会社を出ていった。
「鷹緒さん……」
エレベーターホールに出た鷹緒は、そのまま喫煙室へと入っていく。
「いいの? コンビニ行くんじゃ……」
「息抜き大事って言ったろ。悪いな。今日は理恵……いや、副社長の仕事がじわじわモデル部からうちの部まで来てて、ちょっと手が離せないんだ」
そう言いながらも自分との時間を作ってくれたのだと悟って、沙織は一気に笑顔になった。
「うん。わかってる……会えるとも思ってなかったんだけど、時間まで作ってくれてありがとう。ごめんね」
「いや、我慢させてるのはこっちだし……もうしばらく我慢させるだろうけど、なるべく時間は作るから……」
「うん……でも理恵さん、本当に大丈夫なの? 恵美ちゃんも……」
沙織の言葉に、鷹緒は吸っていた煙草の火を消した。
「べつに大丈夫だろ。病室には代わる代わるモデル部のやつも顔出してるみたいだし、恵美だってああしてみんなに可愛がられてるからな……コンビニ行くけど、行く?」
「うん」
二人はそのまま近くのコンビニへと向かっていく。
「おまえはなんかいる?」
「ううん。大丈夫……」
いつもより元気のない沙織を横目に、鷹緒は溜息をついた。
「……恵美と一緒でよければ、食事でも一緒にするか?」
今出来る精一杯のことだったが、それを聞いて沙織は首を振った。
「いいよ、そんなの……」
「でも……」
「寂しいけど……大丈夫だから。今は私より、理恵さんと恵美ちゃんのことを考えてあげて」
言いながらも浮かない顔の沙織だが、鷹緒がどれだけ考えても、沙織を喜ばせる手立てが見つからない。
「……あいつが退院したら、ゆっくり会おう」
「うん。じゃあ、私行くね。押しかけちゃってごめんね」
言葉少なく去っていく沙織に、鷹緒は不安を覚えた。今までも、どれだけ我慢させてきたのかわからない。それをわかっていても、時に沙織よりも優先させなければならないことは多い。
恵美と違って、すれ違えばいとも簡単に切れてしまいそうに思える沙織との絆に、もどかしさや焦りを感じずにはいられなかった。
鷹緒がコンビニから戻ると、恵美が駆け寄ってきた。
「諸星さん、やっぱ恵美からのメッセージ見てない!」
そう言われて、鷹緒は首を傾げる。
「え、何か送ってたか?」
「諸星さんがコンビニ行ったって聞いて、恵美もタピオカミルクティーが飲みたいってメッセージ送ったんだよ」
見てみると、確かに鷹緒の携帯電話には恵美からのメッセージが入っている。
「悪い……買って来るよ」
「もういいよ」
「じゃあ、俺のスイーツやるよ」
自分用に買ってきたスイーツを恵美に渡すと、鷹緒は自分の席へと戻っていく。
「彰良さん。これ、コーヒー」
「サンキュー……おまえ、大丈夫か?」
受け取ってすぐにコーヒーに口をつけながら、彰良は鷹緒を見つめている。
「なにがですか?」
「なかなかヘビーな生活送ってらっしゃると思って」
そう言われて、鷹緒は苦笑した。
「物わかりの良い彼女がいるんでご心配なく」
「それに胡座かいてると、あっという間に捨てられるぞ」
「言われなくても、一番わかってるつもりですよ……」
鷹緒は大きな溜息をつきながらも、気持ちを切り替えるようにパソコン仕事へと向かった。
それから一週間後。鷹緒は恵美を連れて病院へと向かった。すでに日課となっているが、今日は理恵の退院の日だ。治療も終わり検査も何事もなかったため、予定より早い退院となった。
「ママ! 退院おめでとう!」
ロビーにいた理恵を見つけるなり、恵美が駆け寄る。
「ありがとう、恵美。鷹緒も……ごめんね、お迎えまでさせて」
「なに言ってんだ。どうせ恵美を送りに行くんだし、気にするな。お疲れ」
「ありがとう。支払いも終わったし、もう出られるよ」
「じゃあメシ食いに行こう。俺も恵美も腹ぺこなんだ」
「うん」
理恵は鷹緒の優しさを受け入れながら、鷹緒と恵美とともに病院を後にした。
途中のファミリーレストランで、三人は食事をする。恵美はニコニコと笑顔を絶やさない。
「ご機嫌だな、恵美」
「そりゃあ嬉しいもん」
「おまえも頑張ったな。本当、いい子に育ったって、事務所のみんなも言ってたよ」
鷹緒の言葉に、理恵は申し訳なさそうに頷く。
「そう、よかった……でも、事務所のみんなにも頭が上がらない。自分のことだけじゃなく、恵美のことまで面倒見てもらっちゃって……」
「そこは気にするところじゃないっての。面倒見るほど手はかかってないし、おまえも異常もなく早めに退院出来たし、万々歳じゃん」
「うん……」
それ以上は何も言えず、理恵は苦しそうに笑った。
「会社の心配なんていらないから、メシ食って家帰って、落ち着いてゆっくり復帰しろよ」
「ありがとう」
鷹緒の言葉がいちいち身に沁みるように、理恵は微笑んだ。
食事を終えた一同は、理恵の家まで向かっていく。
「なんでこんなに荷物あるんだよ……」
鷹緒がそう言ったのは、理恵の荷物がトランク三つ分もあったからだ。
「だって仕事も持ち込んでたから……」
「職場に持って行くものがあるなら預かるけど」
「片付けて持って行くから大丈夫。もう一回来るから、少し待っててくれる?」
「俺も持って行くのに……」
「駐車違反になったら大変でしょ。ちょっと待ってて」
一度に運べない量の荷物を抱え、理恵と恵美は車を降りる。
「諸星さん、ありがとう。お世話になりました」
恵美がそう言ったので、鷹緒は首を振った。
「おつかれさん。またいつでも来いよ」
「うん!」
去っていく理恵と恵美を見つめて、鷹緒は静かに笑う。仲の良い母娘は、男親にはわからない絆というものがあるのだろう。見ているだけで微笑ましいと思えた。
鷹緒は煙草に火をつけると、携帯電話を見つめた。沙織の顔が浮かぶ。今日の予定すら知らないことに恋人失格だとも思いながら、やっと終わりを告げたこの一週間を振り返っていた。
その時、車のドアがノックされ、理恵がドアを開けた。そして残りの荷物を車から引っ張り出す。
「鷹緒。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる理恵に、鷹緒は苦笑した。
「やめろって。こんなこと、おまえにされてきた迷惑に比べたらなんでもないし」
「きついなあ……でも、本当にありがとう」
「いいっての。忘れ物ない?」
「うん」
「じゃあ、これ」
その時、鷹緒が小さなブーケとなった花束を理恵に渡した。
「えっ?」
「いや、俺からじゃねえよ? 恵美が選んだのに、あいつ忘れていくから……退院おめでとう。本当、これからは無理するなよ」
慌てて自分からとは否定する鷹緒に、理恵は顔を赤らめて受け取った。恵美が選んだことは本当なのだろう。だが、きっと花を買おうと言い出したのは鷹緒であると思った。
「ありがとう……本当に嬉しい」
「まあ、おまえも恵美もよく頑張ったよ。恵美のこと、ちゃんと労ってやれよ」
「うん」
「じゃあな」
「あ、鷹緒……」
淡々と別れを告げる鷹緒に、止めるように理恵が口を開いた。
「ん?」
首を傾げる鷹緒に、思い詰めたような表情を見せる理恵の表情が映る。
「なんだよ……何か深刻なことでもあったのか?」
途端に心配そうな顔を見せる鷹緒を見て、理恵は首を振った。
「ううん……ごめん、なんでもないの」
「アホか。そんなふうに言われたら気になるだろうが。なんだよ?」
理恵は唇を噛みしめると、助手席へと乗り込んだ。そして深呼吸をして鷹緒を見つめる。
「鷹緒……」
見つめ合う二人。しかし理恵は鷹緒の瞳を見て、口をつぐんだ。
「なんだよ? もしかして……検査でも引っかかったのか? それとも金の問題? 恵美の問題? 会社のことなら、本当に心配いらないぞ?」
何も言わない理恵に鷹緒がそう言うと、理恵は苦笑した。鷹緒の心配は、理恵の心にまるでかすりもしていない。
「ごめん、本当に何もないの。検査も本当に問題ないし、他の問題もない」
「じゃあなんだよ……」
「ごめん……私、参ってるみたい。弱ってるみたい……本当、なんでもないのよ」
車から降りようとする理恵の腕を、鷹緒が掴んだ。
「どういう意味?」
「うるさいなあ。なんでもないったらなんでもないの」
もはや逆ギレするように、理恵は鷹緒の手を振りほどいて車を降りた。
「じゃあなんで乗ってきたんだよ……話があるんじゃないのか?」
「ただ……お礼が言いたかっただけよ。本当にありがとう」
そう言った理恵に、鷹緒は頷いた。
「じゃあ……お大事に」
これ以上聞いても答えないだろうということと、お礼ならば必要ないといったように、鷹緒はそのまま去っていった。
理恵は高鳴る鼓動を抑えるように、鷹緒を見送る。ほのかな花の香りが手元から広がっていた。
「バカね……なんでここまでしてくれるのよ……私が一番バカだけど……」
理不尽な苛立ちを覚えて、理恵は自宅へと戻っていった。
新しい煙草に火をつけて、鷹緒は車を走らせる。熱を帯びた理恵の目が頭から離れないと同時に、沙織のことが思い出された。
鷹緒は車のハンズフリーボタンを押すと、沙織に電話をかけた。
『はい、沙織です』
その声を聞いて、鷹緒は車を路肩に停めた。
「おう。俺……今、大丈夫?」
『うん。これから撮影だけど。今は休憩中。どうしたの?』
「そうか……いや、今、退院した理恵と恵美を送り届けたところ」
一瞬の間があって、沙織は電話を持ち直す。
『そう、なんだ……よかったね。理恵さん、もう退院出来たんだ』
「ああ。異常もないって」
『うん……あ、そろそろ撮影始まるみたい。終わったら連絡するね』
「わかった。忙しいとこ悪い」
鷹緒は電話を切ると、胸のつかえを確認するように手をやった。
それと同じように、別の場所にいた沙織も胸の高鳴りを感じる。
不安なのかなんなのか、それはそれぞれの胸の中で存在を大きくしていた。