132-1. 見えない絆 (1)
ある日の午前中。WIZM企画の事務所内は、朝の慌ただしさから解放されて静かな時が流れている。そんな中で、モデル部署の数人がミーティングスペースで書類を広げているほか、企画部は彰良と鷹緒と万里がいるだけで、ほとんどが出払っていた。
「おまえがデスクワークなんて、珍しいな」
彰良の言葉に、鷹緒は横目で見つめる。
「そうですか? まあ、今日は俊二が地下スタ使ってるし、俺も午後まで出ないんで」
「じゃあ担当の万里もいるし、うちらもミーティングするか。駅前開発の件で」
「いいですよ。万里、聞こえた?」
鷹緒が万里を見ると、万里は頷いた。
「はい。いつでも大丈夫です」
「じゃあ五分後にそこのカウンターで」
彰良の言葉に、鷹緒は立ち上がる。
「応接室空いてるみたいだから、そっちにしましょうよ。座って話したいし」
「まあそうだな……」
「牧に言ってきます」
「そう言いながら、煙草吸いに行くんだろ?」
「バレました?」
笑いながらそう言って、鷹緒は受付の牧へと声を掛ける。
「牧。企画の打ち合わせしたいんだけど、今から応接室使っていい?」
鷹緒の質問に、牧は頷いた。
「大丈夫ですよ。でも一時間後に来客あるんで、それまでにお願いします」
「はいよ」
返事をしてすぐに、鷹緒は喫煙室へと入っていった。確かに今日は静かな日で、外も良い天気である。
「こんな日に限ってデスクワークなんだよな……」
独り言を呟いて早々に事務所に戻ると、事務所の中ほどにあるミーティングスペースにいたモデル部署の面々が立ち上がって談笑をしている。どうやらミーティングが終わったらしい。
そんなことを考えていると、受付の牧が二つある応接室の奥側を指差した。
「鷹緒さん。応接室は奥を使ってください」
「了解。でもミーティングスペース空いたなら、そっちでも……」
いい終わらないうちに突然、鷹緒が話しをやめたので、牧はふと顔を上げる。すると、鷹緒が急に走り出した。
「理恵!」
鷹緒の言葉に牧が振り向くと、ミーティングスペースにいた理恵が、鷹緒に抱き止められている。
「副社長!」
周りにいたモデル部の社員たちが慌てふためく中、鷹緒は顔を顰めた。
「おい! しっかりしろ」
理恵の意識はあるようだが、今にも崩れ落ちそうで鷹緒にすべてを預けている。
「どこか痛むのか?」
「おなか……いたい……」
そう答える理恵は脂汗をかいていて顔色も青白く、動ける状態ではなさそうだ。
「ったく、冗談じゃねえぞ……」
そう言いながら鷹緒は理恵を抱き上げると、そのまま閉まっている社長室のドアを足で蹴った。
中には広樹がいるはずだが、珍しくドアが閉まっているということは電話でもしているのだと想像出来るものの、ここに運ぶのが最適だと思ったのである。
「わ、私が開けます」
側にいたモデル部の琴美が、そう言って社長室をノックし、ドアを開けた。
中では案の定、広樹が電話をしているが、事態を察して頷いている。
鷹緒は理恵をソファに寝かせると、あからさまに不機嫌な顔をして立ち上がる。
「どうしたの?」
その時、電話を終えた広樹がそう尋ねた。
「急に倒れられて……」
答える琴美に、鷹緒が手を上げた。
「とりあえずここは大丈夫だから、戻っていいよ」
「でも……」
「社長もいるし、大丈夫」
琴美を追い出すようにしながら、鷹緒は自らも社長室を出て企画部に顔を向けた。
「彰良さん。悪いけど……」
「わかってる。そっちよろしく」
彰良に了承を得て、鷹緒は社長室に戻ると、すぐにドアを閉めた。
中では広樹が、理恵にペットボトルの水を差し出している。
「まだ口付けてないやつだから飲んで。救急車呼ぶよ」
「いえ、そこまでは……大丈夫です。すみません……」
力なく言う理恵に、鷹緒と広樹は顔を見合わせる。
「いやいや、大丈夫って感じじゃないでしょ。予兆はあったの?」
「少し前から。痛み止めは飲んでたんですけど……本当、大丈夫です」
そう言う理恵を見て、広樹は鷹緒に振り向いた。
「鷹緒。理恵ちゃん、送ってやって」
「……わかった」
「今日はもういいから休んで。明日以降も無理しなくて大丈夫だから」
広樹の言葉を受けて、理恵は申し訳なさそうにお辞儀をする。
「すみません……」
「オーディションのこととかで連日残業だったし、疲れが出たんだよ。仕事の引き継ぎは病院のあとで」
「……すみません」
言葉少ない理恵を尻目に、鷹緒は社長室を出て自分の席へと戻っていく。
「大丈夫そうか?」
彰良の質問に、鷹緒は首を振る。
「いや。相当無理してると思います……あんまり倒れたなんて聞かないし。ちょっと社長命令で送ってきます」
「おまえも大変だな」
「本当ですよ。あんな大女担がされて……」
「おいおい。いくら理恵が相手だからって言い過ぎだぞ」
「まあでも……あれはヤバそうですね」
いつになく焦りを抑えるように、苛立ったような鷹緒の溜息を聞きながら、彰良もつられて溜息をついた。
「ああ、うちの副社長を頼むよ」
「へい……」
そう言いながら、鷹緒は財布と鍵を持って社長室へと入っていく。
「出られる?」
「うん……」
「車取ってくるから。下に着いたら連絡する」
力ない理恵の返事を背中で受けて、鷹緒は先に事務所を出ていった。
駐車場から車を取り、事務所のあるビル前に停めるなり、鷹緒は理恵に電話をかける。すると、少しして理恵が一人で出てきて、助手席へと乗り込んだ。
「ごめんなさい……」
すかさず言った理恵に、鷹緒は眉をしかめる。
「本当だよ……何度言わせるんだ。少しは自重しろっての」
「一番鷹緒に言われたくないんだけど……イタタ」
「座席倒して楽にしとけ」
「うん……」
そう言うものの、理恵は座席を倒すのに手こずっている。その理由が車種の特性にあるのに気がついて、鷹緒は口を開く。
「レバー二つあって、前寄りのほうを引くんだけど……ちょっと固いかも」
「どれだろ……固い」
もたもたしている理恵を見かねて、鷹緒は信号待ちでサイドブレーキを踏むと、理恵の身体を越えてレバーを引いた。
途端に理恵の身体が倒れ、二人は一瞬、折り重なるようにして見つめ合った。
「……悪い」
鷹緒はすぐに運転席に戻ると、すぐに動けるようにサイドブレーキを戻した。
微妙な空気だが、苦しそうな理恵に、鷹緒は横目で気に掛ける。
「……おまえ、保険証持ってる?」
「うん……でも、病院はいいよ。家で寝てれば良くなるから……」
「アホか。駄目だよ」
「でも……」
「少しは言うこと聞け!」
突然、鷹緒が怒鳴るようにそう言った。
「鷹緒……」
「……おまえが人前で倒れるなんて、今まであったかよ? モデル部のビッグプロジェクトも終わったんだし、しばらく休んだって平気なくらい部下を信用しろ。この期に及んで無理するんじゃねえって言ってんの。おまえのことでやきもきする俺が迷惑なんだよ」
苛立ちの原因が自分の優しさということに気付いていないような鷹緒に、理恵は深い溜息をつく。
「……わかった。ありがとう」
その足で病院へ向かった二人。待合ベンチで、理恵は鷹緒を横目で見つめた。
「鷹緒……帰っていいよ? 仕事あるでしょ」
そう言われて、鷹緒は俯く。
「……今日は午後から打ち合わせがあるだけだし、なんならそれもずらせる。人のことより今は自分のことだけ考えとけよ」
「うん……ごめんね」
理恵の言葉に、鷹緒は理恵を見つめた。
「俺に甘えろなんて言わないけど……同僚として頼るくらいはしてくれてもいいんじゃないの?」
「……そうしたいけどね……」
意味深な理恵の心境がわからないでもなく、鷹緒は俯く。
その時、理恵が呼ばれて、ゆっくりと立ち上がると、看護師とともに診察室へと入っていった。
「ふう……」
深い溜息をつくと、鷹緒は診察室を見つめる。病院嫌いな鷹緒にとって、一人になると更に居たたまれなくなる気がした。
しばらくして、診察室から鷹緒が呼ばれた。その行動に身構えるようにして診察室に入ると、理恵がベッドに横たわっている。
「胃潰瘍ですね。かなり無理されていたみたいです。貧血もひどいようですし、検査と経過観察も含めて一、二週間の入院が必要です」
医師の言葉に、鷹緒は理恵を見つめる。
「わかりました。おとなしく入院しとけ」
「私は大丈夫だよ……」
「先生、よろしくお願いします」
理恵の意見などまったく聞く耳を持たないと言った様子で、鷹緒は理恵の言葉を遮ってそう言った。
そのまま理恵は、四人部屋の病室に移された。
「参ったな……どうしよう」
不安げな表情を見せる理恵に、鷹緒は口を結ぶ。
「おとなしく寝てろっての。恵美はこっちで預かるから、おまえからも俺が迎えに行くって連絡して。必要な物は?」
「あ……じゃあ、恵美と一度家に寄ってくれる? 着替えとか……家から持ってきてもらうものは恵美に伝えとくから。仕事の引き継ぎは……」
「誰かモデル部のやつに来るように伝えるよ。あとは?」
そう言いながら、鷹緒は広樹にメールを打っている。
「どうしよう……私、入院したことなんてほとんどないのに」
「俺だって入院した時おとなしくしてたんだ。おまえもゆっくり休んどけ」
いつになく不安な様子の理恵にそう言い放ち、鷹緒は理恵を見つめる。
「……仕事以外で、俺から誰かに知らせたほうがいいやつはいるか?」
二人の脳裏に豪の顔が浮かんだが、理恵は思いきり首を振った。
「いるわけないでしょ。誰にも言わないで……必要な人には私から連絡するし」
「わかった。じゃあ、俺行くぞ。あとで恵美連れて来るから……」
「……うん」
背を向ける鷹緒の背中を見つめ、理恵は口を開く。
「鷹緒……」
「ん?」
「……ありがとう」
「ん……じゃあな」
鷹緒ももう居たたまれない様子で、病院を後にした。