129. 親の苦悩
ある夜。残業中の鷹緒が喫煙室にいると、理恵が顔を出した。
「おう……どうした?」
鷹緒が尋ねると、理恵は言いにくそうに口を開く。
「ちょっとご相談が……」
誰より相談しづらいであろう自分に珍しいと思いながらも、余程の理由があることを察し、鷹緒は煙草の火を消した。
「いいけど……」
「ここじゃまずいから、場所変えたいんだけど……」
「ああ……会議室使ってるっけ? 目の前の喫茶店は閉まってるし……」
「まあ、すぐ終わる相談ではあるけど……」
煮え切らない態度の理恵に、鷹緒は手招きのような形で手首を振った。
「おまえ、そこにしゃがんでおけよ。今の時間そうそう誰も来ないし。退社するやつがいても、しゃがんでたらバレないから」
「そうかな……」
そう言いながら、理恵はその場にしゃがんだ。
フロア側にも窓ガラスのついた喫煙室だが、その前にしゃがんでしまえば理恵の存在はわからないだろう。だが、誰かが入ってくればすぐにわかってしまう。
「バレたらバレたで大した話じゃないだろ。ちょっと仕事立て込んでるし、出来ればこの場で済ませてもらいたい」
「わかった……じゃあ、恵美のことなんだけど」
「うん」
予想通りの相談事だが、鷹緒にとっても重要度の高いことである。
「あの子、中学受験したいっていうの……しかも鷹緒の母校に」
それを聞いて、鷹緒は顔を上げた。
「え、なんで?」
「まあ、恵美もうちの事務所になったし、中学をきっかけに近くに引っ越そうという話は前からしてたんだけど、そうしたら学校も変わって友達もいないし、だったら私立も視野に入れてって流れになって……」
「でも、なんで俺の母校?」
「鷹緒に所縁がある学校なら行きたいって。あそこは芸能活動も禁止じゃないし、いざとなれば大学まであるからいいかなって話し合って」
理恵の話を聞きながら、鷹緒は煙草に火をつける。
「まあ……二人で話し合ったならいいんじゃない? で、金の問題? 必要なら出すよ」
鷹緒の言葉に、理恵は顔を顰めた。
「ありがたいけど、それは大丈夫……なんとかするし」
「そこは違くない? 大変ならってこと……」
「だから、そういうのは大丈夫!」
意地を張るような理恵に、鷹緒は軽く溜息をついた。
「じゃあ、なんの相談?」
冷静な鷹緒に引き戻されるように、理恵は俯く。
「ごめん……誰かに話したかっただけなのかもしれない。お金の問題じゃないの。恵美が行きたいところに行かせてあげたい。でも、自己嫌悪……」
「ん?」
「もっと早くから考えてあげればよかった……今でさえほったらかしだし、私は学もないし、私のせいで落ちちゃうかもしれない……」
それを聞いて、鷹緒は息を吐いて煙草を消した。
「ああ……ごめん。俺も自分が経験したくせに、恵美の中学受験なんて全然考えてなかった。まだ数年あるけど、早いとこはもっと前から準備してるもんな」
まるで父親のような態度の鷹緒にも、理恵にとっては違和感なく頼れてしまう。
「間に合うかな……?」
「あいつ、成績は?」
「うーん。得意と苦手の差が激しいのよね。理数系は意外といいんだけど、歴史社会はさっぱりだったり……」
その時、数人の社員が帰社して通り過ぎていくのが見えて、鷹緒は手を振って見送った。
すると、最後に出てきた広樹が、躊躇いもなく喫煙室のドアを開けた。
「鷹緒……って、理恵ちゃん! びっくりした……」
鷹緒一人しかいないと思っていたため、広樹は予想以上の驚きを見せる前で、理恵はバツが悪そうに苦笑する。
「すみません……」
「いや。なに、密談?」
「べつにおまえならいいよ……」
鷹緒が煙草に火を付けると、二人きりでなくなったため、理恵は静かに立ち上がった。
「恵美のことで、ちょっと……ヒロさん、お話しがあるなら先にどうぞ」
「いや、話ってほどじゃないんだ。まだ残ってるなら、軽く打ち合わせしようかと」
広樹との話のほうが長くなると察して、鷹緒は煙草の灰を落とすと、理恵を見つめた。
「……理恵。あそこは比較的自由な校風だし、親子面接も形だけだよ。それにおまえは役職付きで頑張ってるんだし、気にするなよ。おまえが引け目感じてどうするよ」
「……そりゃあ感じるよ。私なんて学もないし自信もないし……」
鷹緒と理恵の会話を聞いて、広樹も理恵を見つめる。
「恵美ちゃん、中学受験でもするの?」
「ああ、はい……鷹緒さんと同じ学校に行きたいって」
「恵美ちゃんもそんなこと考える年か……僕も出来ることがあればするから頼ってね」
そう言った広樹に、鷹緒は口を曲げた。
「おまえに何が出来るよ?」
「ええ? カンパだって出来るし、勉強だって少しは教えてあげられるよ」
自信たっぷりの広樹だが、この場で一番の学歴の持ち主は確かに広樹である。
「ありがとうございます、ヒロさん。心強いです」
珍しく弱気な理恵に、鷹緒は苦笑して煙草の火を消した。
「まあ、そういう話し相手くらいにはいつでもなるし……ヒロもこう言ってくれてるし、頼るもん頼っていいと思うぞ? あんまり一人で抱え込むなよ。他に話は?」
「うん……もう大丈夫」
「じゃあ、ヒロの話は社内で聞くよ」
切り替えて去っていく鷹緒を尻目に、広樹は理恵に微笑んだ。
「よかった。鷹緒を頼ってくれて」
「え?」
「ああ、いや……深い意味はないんだ。でもあいつが言うとおり、鷹緒はもちろん僕にも頼ってよ。恵美ちゃんは僕たちみんなが可愛がってる娘みたいなもんなんだから。たまには親っぽいことさせてよ。勝手だけどさ」
それを聞いて、理恵はありがたさを噛みしめるように微笑む。
「ありがとうございます。本当に……あの子は幸せ者です」
「理恵ちゃんは当事者だから大変だろうけどさ。不安なことはバンバン言ってよ。みんな仲間なんだ。みんなで解決したっていいじゃない」
「はい。ありがとうございます。すみません、私的なことで貴重なお時間を……」
「だから、そういうとこ。そんなの負担にならないから大丈夫だって……じゃ、理恵ちゃんも仕事終わったなら早く帰ってあげて」
シングルマザーとしての理恵の意地を解すように笑いかけて、広樹も喫煙室を出ていった。
理恵は二人の存在のありがたさを身に沁みながら、不安だった自分の気持ちを切り替えて、会社を後にした。