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126-2. 社長を巡る想い (後編)

「綾也香ちゃん?」

 思わず言った広樹に振り向いたのは、たった今まで話していた広樹の忘れられない元カノ・綾也香である。

「え、ヒロさん? え、吉田さんも? なにその組み合わせ!」

 驚きながらもケラケラと笑う綾也香の向こうで、茜が顔を出した。

「ほんとだ、ヒロさんだ!」

「うわあ……まずい二人に会ったなあ」

 本音の出る広樹に、綾也香と茜が口を尖らせる。

「こらこら、ヒロさん。あれですか? 社員に手を出す寸前とか、そういうことですか?」

「何を言ってるんだね、君たちは……残業帰りに労ってるだけでしょ」

「私たちも仕事帰りにちょっと飲んだだけですけど、何か?」

 止まらない掛け合いを止めようと、広樹が手を上げた。

「わかったよ。君たち帰るとこなら、会計は僕が持つよ」

「え、でもそれは……」

 さすがに悪いと綾也香が言いかけると、茜が伝票ホルダーをすかさず広樹に渡す。

「ごちそうさまでーす」

「はいはい……おつかれさまです」

「じゃあ……ごちそうさまです」

 帰りたくないといった様子を見せながら、綾也香は茜とともに店を出ていった。

「まったく、いつまで経っても騒がしい二人だなあ……」

 残された広樹は、苦笑しながら綾也香たちの伝票をテーブルに乗せる。

「いいんですか? なんでもない人たちに……」

 そう言う琴美に、広樹は頷いた。

「なんでもなくないよ……あの子たちには、起ち上げ当初から世話になってるからね」

「でも、すごい偶然ですね」

「この店、彼女らともよく来てたしね……」

 思い出に浸るように微笑む広樹に、なぜだか琴美の胸が痛む。自分は広樹の初めてにはなれない、そう思った。

「そうなんですか……」

「僕らもそろそろ出ようか」

「あ、はい。ごちそうさまでした」

「いえいえ」

 広樹は二組分の会計を済ませると、琴美に振り返る。

「琴美ちゃん、地下鉄だよね」

「あ、はい。ここで大丈夫です。ありがとうございました」

 店の前にあった地下道の入口で、琴美はお辞儀をした。

「いいえ。明日からまたよろしくね。じゃあ……」

 去りゆく広樹の後ろ姿を見つめながら、琴美は一人、地下道へと降りていく。

 一人歩き出す琴美の目から、不意に涙が流れた。失恋した気になったのである。

「あーあ。駄目だなあ……社長のこと、嫌いになれないや……」

 そっと呟きながら、琴美は家路を急いだ。


 駅へ向かう広樹は、駅前広場で座り込む綾也香と茜に気がついた。

「あ、ヒロさん来た。ごちそうさまでーす」

 そう言う茜の手にはカップ酒が握られており、広樹は苦笑した。

「ちょっと、人妻がなにやってんの……綾也香ちゃんも、一般人じゃないんだから……」

「だってここにいたら、ヒロさん通ると思って」

「……なんか用?」

 呆れたように尋ねる広樹に、綾也香と茜は不快感を露わにした。

「なにその言い草!」

「君ら酔いすぎだから……店でも結構な量飲んだみたいだね」

 不意に支払いをすることになった広樹には、二人がどれだけ飲み食いしたのかわかっている。

「ヒロさーん。このままカラオケ行こっか」

「行かないよ。家に帰りなさい。うだうだしてたら終電なくなるよ」

「うるさいなあ。社長なんだから、つべこべ言わず従業員に付き合いなさいよ」

「言ってること滅茶苦茶じゃない……酔っ払いにこれ以上話しても無駄だから、僕はもう帰るからね」

「べつにいいですよーだ」

 完全なる酔っ払いの二人は、これ以上広樹に干渉しようとはしない。

 広樹は二人に背を向けて歩き出すが、気になって振り向くと、二人の腕を掴んだ。

「タクシーで送るから、今日はもう帰りなさい」

 真剣な表情の広樹に、綾也香が切なげな顔で見返す。

「ヒロさん、先生みたい……」

「立場上、保護者みたいなもんなんだから……頼むよ。こんなところで騒ぎを起こされたくないんだ。今日はお開きにしてくれないかな」

「じゃあ、綾也香と付き合ってくれます?」

 目の据わった茜が、突然そう振ってきた。

「付き合わないよ」

「どうしてよ!」

 きっぱりと言った広樹に、今度は綾也香が口を開く。

「あのね……とにかく酔っ払いに言うことはなにもないから。言うこと聞かないなら、強制執行するよ」

「やれるもんならどうぞ」

 そう言われて、広樹はカチンときたように茜の腕を掴むと、向こうからやってくるタクシーに手を上げた。

 そして茜をタクシーに押し込むと、運転手に金を渡す。

「行き先言わないようならシティホテルに送ってください。おつりはいらないです。茜ちゃん、ちゃんと帰るんだよ。我が子が待ってるんでしょ」

「ヒロさん、やだよう。もう一杯!」

「駄目だよ。ホテル泊まるなら、この名刺渡してホテルから連絡させて。いいね?」

 強制的にドアを閉めると、綾也香に振り返る。綾也香は一部始終を見てすっかり酔いが醒めたように、罪悪感のようなものを滲ませている。

「ヒロさん……」

「……その分だと、一人で帰れるかな? タクシーつかまえるよ」

 そう言った広樹の服を、綾也香は震える手で掴んだ。

「ちゃんと帰れるから……一緒に……駅まで……」

 ここではなく、せめて駅の改札まででも一緒にいたいと、綾也香は訴えた。

 広樹は頷くと、静かに歩き出す。

「じゃあ帰ろう」

 二人きりの世界だが、街はまだ眠らず人通りも多い。無言のまま進む広樹に、綾也香も急にしおらしくなっていた。

「じゃあ、ここで」

 あっという間に改札まで来てしまい、綾也香は顔を上げた。

 何度も忘れようとした。無理に近付こうともした。しかし、いつでも広樹の答えはノーだ。

「あの……今日はすみませんでした」

「ハハ。まったく君たちは昔から変わらないよね」

 そう言った広樹の笑顔は、綾也香にとっては愛おしい。

「そうかな……」

「まあ、茜ちゃんもいずれドイツに帰るんだろうし、羽目外すのはしょうがないけど、迷惑掛けるのは僕だけにしなよ?」

「……はい」

「じゃあね。気を付けて」

 お互いに別の路線の帰り道。自分への拒否が続き、今日は失態とも取れる行動となってしまったことに、綾也香にもう一歩を踏み出す勇気は既になく、伸ばした手が広樹に届くこともなかった。


 独りきりの電車の帰り道、広樹はいつになく落ち込むように表情をなくしていた。

 どれだけ月日が経ち立場が変わっても、もう二度と越えられない一線が綾也香にはあった。それなのに、切なげな表情で見つめてくる綾也香に、心が揺れないわけではない。

「なにやってんだろうな……ふらふらしてる、全部僕が悪いのに」

 広樹が電車から降りるなり、ポケットの携帯電話が震えた。見ると鷹緒である。その名前を見た途端、広樹は気が抜けたようにホームのベンチへと座り込んだ。

「鷹緒?」

『おう。終わった? 大丈夫か? 羽目外してない?』

「外さないよ……でももう聞いてよ。うっかり琴美ちゃんに過去の情けない恋愛事情を暴露しちゃってさ、そしたら示し合わせたように綾也香ちゃんと茜ちゃんが登場……もう僕、神様に嫌われるほど何か悪いことしたかなあ?」

 吐く息のように連なる愚痴にも取れる言葉を聞いて、鷹緒は一瞬の沈黙の後、息を吐いた。

『べつに……それで何かやらかしたわけでもないんだろ』

「それはないよ。ちゃんと社長としての弁えをだね……」

『じゃあ何も悩む必要ないじゃん。モテる社長、上等。色気のない社長の会社なんて、何の魅力もないって。でもまあ、茜までいたんじゃ大変だったな』

 笑う鷹緒に、広樹も苦笑する。

「まあね……」

『まあ実際のところ、おまえが綾也香のことどう思ってるか知らないけど、付き合うつもりがなくて突き放してるなら、そろそろ他に目を向ければ?』

「だからって、琴美ちゃんや従業員はないでしょ?」

『それはおまえ次第じゃないの? もうガキじゃないんだし、守れるものも前よりあると思うけど』

 広樹はベンチに座ったまま遠くを見つめた。今も昔も、自分に守れるものなどないに等しいほど少ない。

 冷たい夜風と鷹緒の声が、次第に広樹を冷静にさせていく。

「ありがとう、鷹緒……一瞬迷った方向性が戻ったよ。ついでにさっきおまえに電話した理由も思い出した」

『あ、そう?』

「明後日の夜、臨時会議」

『そんなもん思い出すなよ……でも、万里に聞いてた。了解』

「頼むな。じゃあ、ありがとう……おやすみ」

 広樹は電話を切ると、そばにあった自動販売機でジュースを買って飲み干した。

「しっかりしろ」

 自分にそう言い聞かせて、一人家路へと歩いていった。

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