124. イレギュラー続きの日に
寒空の下で、沙織は身を縮めて辺りを見回した。
今日は鷹緒と会う約束をしており、時間通りに目の前で鷹緒の車が止まった。
「鷹緒さ……」
駆け寄りながら言いかけた沙織の目に、手を振る広樹が見える。
「ヒロさん?」
「沙織ちゃん。乗って乗って」
「は、はい……」
慌てて助手席に乗り込む沙織は、後部座席を見つめた。しかしそこにも鷹緒の姿はない。
「ごめんね、驚かせて」
「いえ……鷹緒さんは?」
「急ぎの打ち合わせが入って、そっちの対応させてるんだ。ごめんね、沙織ちゃんと約束があるって聞いたんだけど、どうしても外せない用件でさ……」
忙しい鷹緒にドタキャンされたことは初めてではないが、それでも沙織は残念そうに俯いた。
「そうですか……でも、どうしてヒロさんが?」
「対応する代わりに沙織ちゃん迎えに行けって言われてね……ごめんね、今日は鷹緒が半休の予定だったから、僕も現場を手伝おうと思ってたところなんだけど、半休どころか残業させちゃって……手伝うなら、まずは沙織ちゃんのお迎えが先だって」
「そんな……ヒロさんが謝ることないです」
苦笑する沙織を横目に、広樹も苦しそうに笑う。
「いや、でもさ……」
「ドタキャンは残念ですけど、忙しいのはわかってます。約束は覚えててくれてたってことですし、忙しい中で私のこと気にしてくれて……ヒロさんに来てもらうなんて逆に申し訳ないです」
そう言った沙織に、広樹は少し驚きながらも笑った。
「沙織ちゃん……大人になったね」
「そんなことないですよ。でも少しは我慢しないと」
「我慢ねえ……耳が痛いなあ。それをさせてる一因が僕にもあるんだから」
広樹の言葉を聞きながら、沙織は流れる景色を見渡す。
「……きっと我慢してるのは私だけじゃないって、前より思えるんです。それに会えば不満とか不安とか吹っ飛んじゃうから」
笑顔で振り向いた沙織に、広樹も静かに微笑んだ。
「そっか」
その時、沙織の携帯電話が震えた。見ると、鷹緒の名前が表示されている。
「あ、鷹緒さんみたいです」
「うん、どうぞ出て」
「もしもし」
すかさず沙織が電話に出ると、ざわついた雑音とともに、溜息に似た鷹緒の息が聞こえた。
『……あ、諸星です』
他人行儀に聞こえる声と周囲の雑音で、他にも人がいるのだと窺える。沙織も途端に緊張したように、電話を持つ手を持ち替えた。
「はい、沙織です」
『うん、悪い。ヒロ行った?』
「う、うん。今さっき合流して……」
『悪いな。急な打ち合わせ入って電話する暇もなくて、ヒロに迎え頼んだんだ……終わったから、そのまま迎えに来るよう伝えてくれる? じゃあな』
早々に電話を切られて、沙織は広樹を見つめる。
「ヒロさん。鷹緒さんが、終わったから迎えに来てと言ってました」
「了解。今日ばっかりは言うこと聞いてやらないとね」
苦笑する広樹に、沙織は首を傾げた。
「そんなに重要なお仕事なんですか?」
「あいつにしか出来ない仕事も少なくないからね……でも今日は本当に悪いことしたって思ってるよ。帰るって時に引き留めて打ち合わせして、また帰るって時に客が来てって繰り返しだったから……だから沙織ちゃんとの約束は、キャンセルじゃなくて僕もなんとかしなきゃって思ったんだ」
広樹の言葉に、沙織は首を振った。
「そんなことなら本当に気にしないでください。忙しいこととか、仕事人間とか、そういうのわかって付き合ってるから……」
頼もしい沙織の言葉を聞いて、広樹は頷いた。
「安心した」
「え?」
「いや……僕らの年になるとね、すれ違いって本当に怖いんだよ。それはすべての人間関係に対してね。鷹緒も責任ある立場だし、どうしても恋人のことを一番に考えてあげられない時ってあるからさ……せっかく鷹緒は恋愛に踏み切る気になったんだし、僕も絡んでる仕事のせいで仲違いとかしてほしくないんだよね。僕の勝手な思いだけどさ」
それを聞いて、沙織は笑った。
「ふふっ。でも、ヒロさんが原因で鷹緒さんと喧嘩しちゃったら、ヒロさんのこと恨みますからね」
「ハハ。今後は出来るだけ無茶はさせないようにするよ……って、あいつまたつかまっちゃったか……」
その時、会社の前で鷹緒が男性に絡まれているのが見えた。二人とも真剣な顔で手帳を見合わせている。
「こっちまで絡まれたらかなわないから、ちょっとここで待っていよう」
広樹はそう言うと、会社から数十メートル離れた路上に車を止めた。
沙織は少し離れたところで話している鷹緒の姿を見て、静かに微笑んだ。
「ヒロさん……私、やっぱり鷹緒さんのこと大好きです。仕事してる姿を見るのも好きなんです。だからこれからも、鷹緒さんにお仕事あげてくださいね」
所構わず真剣な眼差しで仕事をしている鷹緒は、広樹にも格好良く見える。
「ありがとう。心強い味方が出来たみたいだけど……今日はいい加減、解放してあげないとね」
広樹は自分の携帯電話を取り出すと、おもむろに電話をかけ始める。すると、すぐに鷹緒が電話に出た。
『はい』
「着いたから、そろそろそっちも決着つけなよ」
『ああ……じゃあ、俺そろそろ……』
そう言いながら電話を切り、相手が去っていったのを見届けて、鷹緒は車に近付いていった。
それを見て、広樹はシートベルトを外す。
「じゃあ、今日はごめんね、沙織ちゃん。やっと鷹緒をお渡し出来ますよ」
「ありがとうございます。わざわざ来ていただいて……」
「ううん。じゃあね」
ちょうど鷹緒が車にやって来たので、広樹は車から出る。
「お姫様をお連れしましたよ、王子様」
そう言われて、鷹緒は眉を顰める。
「なに言ってんだ。ったく、俺は今日、午後から休みのはずで……」
厳しい顔で詰め寄る鷹緒に、広樹は両手を上げた。
「わかってる! 今日は本当にごめん。代わりに今度一日休みをあげる。もちろん、おまえの仕事が全部片付いたらの話だけど……」
「そんなもん無理に決まってんだろ。今日だって一日は無理だから半休申請してたのに……」
「じゃあ言うけどな。おまえはおまえで仕事受けすぎなの。あと、とっとと事務所と情報共有してくれれば、そんなにカツカツなスケジューリングにならないんだよ。こっちはセーブしてるのに、おまえが勝手に取る仕事も多いからだろ」
「ハイハイ……」
お互いに言いたいことを言い合って、鷹緒は車へと乗り込む。
「でも鷹緒……今日はありがとな。来月は仕事セーブしろよ。あと、沙織ちゃんがめっちゃノロケてたぞ。よかったな、愛されてて」
そう言いながら、広樹は会社へと入っていった。
「ヒロさんってば、何言って……」
照れている沙織を横目に、鷹緒は溜息をつく。
「本当悪い……今日は予定狂いっぱなし」
鷹緒はシートベルトをつけると、じっと沙織を見つめた。
「私は大丈夫だよ? ドタキャンは悲しいけど、ヒロさんが迎えに来てくれるなんて申し訳ないよ……」
「ふざけんな。用があるって散々言ってんのに、のらりくらりと打ち合わせ始めやがって……挙げ句、仕事なら手伝うとか言うから、その前に約束してるおまえのほうをなんとかしろって言ったんだ。あのくらいさせたってなんてことないよ」
煙草に火をつけて、鷹緒は車を走らせる。
「うん……でも、今日は大変だったみたいだね」
「まあ、予期せぬ客も来たしな……でも、おまえも大変だったろ。寒い中待たせてごめんな」
鷹緒の優しい言葉に、沙織は笑顔で首を振った。
「そんなの、顔見たら吹っ飛んじゃったよ。それに、そんなに待たずにヒロさん来てくれたよ?」
「そうかもしれないけど……」
その時、鷹緒の電話が鳴り、鷹緒は溜息をつきながら車と連動したハンズフリーボタンを押す。
「はい。諸星……」
『あ、悪い。さっき来週の水曜って言ったけど、木曜のが都合良かったわ。おまえもそこなら空けられるって言ってたよな?』
名前も名乗らない相手だが、声と話の内容で鷹緒は瞬時に理解したようだ。
「わかりました。木曜で……念のためメール送っておいてください」
『そんな高度なこと、俺が出来るとでも?』
「忘れてもいいならいいですけどね」
『おまえ、俺にそんな口、覚えてろよ。じゃあFAXしとくわ』
「ハハッ。お願いします」
『今日は突撃訪問で悪かったな。でも、ヒロにも会えてよかったわ。じゃあまたな』
電話が切れて、苦笑しながら操作する鷹緒に、沙織は首を傾げる。
「仲良さげな人だね」
「まあやり手だよ。昔から持ちつ持たれつの関係だけど……アナログなところがなあ」
「そうなんだ?」
「せっかちってこともあるだろうけど、メール打つ時間があるなら電話に訪問……今日も突然来られて焦ったけど、まあ悪い話持ってくる人じゃないから……」
「また忙しくなっちゃう?」
そう言われて、鷹緒は考えるように遠くを見つめた。
「いや……たぶん大丈夫」
「そうなの?」
「俺もあの人も仕事早いから。たぶん来週に打ち合わせたら、トントン拍子に事が運んで、あっという間に終わるよ」
「そうなんだ」
「それより……そろそろ仕事モード切っていい? さすがに疲れた……」
「あ、うん。ごめんね」
そんな沙織の声に癒やされるような感覚を覚えながら、鷹緒は煙草の火を消して、信号待ちの交差点で沙織の手を握った。その瞬間、二人は互いに満たされていく。
やがて信号が青になり、鷹緒はハンドルを握り直した。
「よし。じゃあ、まずは腹ごしらえいくか」
「うん!」
イレギュラーの多い日であったが、二人にとってはごく普通の日常のように、小さな隙間も許さず互いが互いを埋めていくようだった。