122. One more time, One more chance
WIZM企画起ち上げから数年後。まだ二十代前半の若き社長である広樹が、目の前にいる鷹緒を見つめていた。
鷹緒はこの会社起ち上げ当初から手伝ってくれているが、正式に入社したのはつい最近のことだ。しかし任せる仕事内容が増えただけで、もはやベテラン社員のように手慣れた様子で仕事をこなしている。
「なんだよ、ヒロ。暇なの?」
視線を感じて、鷹緒が顔を上げる。
「いや……っていうかおまえ、ちゃんと帰ってる? 昨日も僕より遅く帰って、今朝も早くて……」
「邪魔なら家で仕事してもいいけど」
「そういうこと言ってるんじゃないだろ……」
溜息をつきながらも真剣な表情で見つめる広樹に、鷹緒は苦笑する。
「じゃあ何? そんな熱い視線注がないでくれる?」
「こんにちは!」
その時、入口の方でそんな声が聞こえ、奥にいる広樹と鷹緒のもとに、一人の少女が顔を出した。三崎茜。父親は鷹緒のカメラマンの師匠であり、この会社を起ち上げるのに全面バックアップをした、三崎晴男だ。
「あ、いたいた、鷹緒さーん!」
そう言いながら、茜はパソコンに向かう鷹緒に、後ろから抱きついた。
茜は子供の頃から知っており、昔からこんな感じだが、大人になった今も真剣に鷹緒のことが好きなようである。
「また来たのかよ」
「つれないなあ。せっかく差し入れ持ってきたのに。それに、いつも仕事手伝ってるでしょ」
そう言いながら、茜は鷹緒の好物であるスイーツを差し出す。
「お、サンキュー」
「茜ちゃん。今日はバイトなの?」
広樹がそう尋ねたのは、茜がバイト先であるレストランの制服のシャツを着ていたからだ。露出の多い制服である。
「はい。夜からなんで、今日は差し入れだけ」
「もったいないなあ。どうしてモデルやらないのさ。シンコングランプリの君が……」
その言葉に、茜は苦笑する。
「私がシンコンに出たのは、この会社を盛り上げるためですから。グランプリとれたのは予想外でしたけどね」
そう茜が言ったのは、数年前にシンデレラコンテスト、略してシンコンという美少女コンテストに出場し、優勝したからである。しかし茜はその後の芸能活動を拒み、たまにこの会社絡みでモデルを引き受けたり、鷹緒のカメラマン助手をしたりしながら、普段はレストランでアルバイトをしている生活を送っていた。
「今日は牧ちゃんいないんですか?」
茜が尋ねた。牧は事務として主に受付業務や電話応対を仕事としているが、今日はいつもいるべき受付にいない。また牧と茜は年が近いため、すでに打ち解け合う仲のようだ。
「ちょっとお使い頼んだんだ。いつも事務所に缶詰じゃ可哀想だし」
「なんだ。会いたかったなあ」
「もうすぐ帰ると思うけど」
「いえ、そろそろいかないとバイト間に合わないから。じゃあ行きます。またね、鷹緒さん」
鷹緒の返事も聞かず、茜は慌てて出ていった。
「相変わらず、騒がしいやつ……」
再び広樹と二人きりになった事務所で、鷹緒が言った。
広樹は苦笑しながら口を開く。
「でも、あんなに長いこと慕ってくれる子いないだろ。おまえ、理恵ちゃんのことどうするつもりだよ?」
聞きにくかったが、広樹が尋ねた。
鷹緒は今、プライベートでゴタゴタしている時期である。つい最近、理恵が同じモデルである内山豪と浮気をして、家を出て行った。
「おまえ……今、それ聞く?」
仕事途中で苛立った様子で、鷹緒が言った。
「だっておまえさ……仕事に逃げてるようにしか見えないよ。なんでそんな淡々とこなせるんだよ。っていうか、そのままいったら身体壊すぞ。そうでなくてもおまえ、たまにぶっ倒れるんだからさ……」
それを聞いて、鷹緒は苦笑しながら手を止めた。そして椅子を回転させ、広樹から顔を背ける。
「大丈夫だよ。それに仕事に逃げてるわけじゃない。量が多いだけだ」
「その量を増やしてんのは、おまえだって言ってんだよ」
鷹緒は広樹を見つめた。心配そうな広樹の顔が見え、鷹緒は静かに溜息をつく。
「べつに……そんなつもりはないけど」
「他人様の事情に首を突っ込むつもりはないけど……そんな仕事のやり方じゃ、社長として心配で見てられない」
「……じゃあ減らせばいいわけ?」
眉を顰めながら鷹緒が言うので、広樹も口を曲げる。
「理恵ちゃんのこと、どうするのかって言ってるんだ」
「それこそ他人の事情だろ。ほっとけよ」
「ああそう。理恵ちゃんはともかく、僕と向き合うことも出来ないのか」
「なんでそこでおまえが出てくるんだよ。じゃあおまえが俺に望むことはなんだよ? あいつとさっさと別れて仕事に打ち込めば満足か? べつに仕事が手につかないわけじゃなし、おまえに文句言われる筋合いはねえだろ」
鷹緒はそう言い放つと、たった今までしていた仕事を持って立ち上がった。
「どこ行くんだよ?」
「スタジオ。あっちで仕事するから……今日は直帰する」
そう言って、鷹緒は事務所を飛び出していった。
「ああ、もう!」
広樹がそう叫ぶと、足音が聞こえ、広樹は入口へと顔を出した。するとそこには、使いに出ていた牧がいる。
「あ、牧ちゃん……おかえり」
取り繕うように笑う広樹に、牧は苦笑する。
「そこで鷹緒さんと会いましたよ。喧嘩でもした感じですか? 珍しいですね」
牧の言葉に、広樹は俯く。
「いや……今のは完全に僕が悪い。あいつより僕のが焦ってるみたいだな……」
「どうかしたんですか?」
「ううん……ただなんか、あいつがあまりにも前と同じに振る舞うからさ……こっちが戸惑うっていうか……」
牧もまた鷹緒と理恵が別居状態だということを知っているので、広樹が言っていることを察して頷く。
「そうですね。お互いに知っている相手ですしね……でも本人同士の問題なんですから、見守るしかないんでしょうけど……」
「そうだよね……ああ、余計なこと言っちゃったよ。あいつに合わせる顔がない」
「鷹緒さんなら、すぐに許してくれますよ」
「そうだといいけど……」
その時、広樹の目に、鷹緒が置き忘れていった書類が目に入った。
「あれ。あいつ忘れてったのか」
「いい口実じゃないですか。それ持って謝ってきたらどうですか?」
「いや……今すぐは無理だって。牧ちゃん、悪いけど行ってきてくれない? これないと、あいつ仕事出来ないはずだから」
「いいですけど……逆にいいんですか? 謝りそびれてると、ずるずるいっちゃいますよ?」
「……じゃあついでに、夕飯誘ってきてくれない? 牧ちゃんも一緒に食べに行こうよ」
「もう、ヒロさんってば……間に挟まれる身にもなってくださいよ」
子供のように素直になれない広樹を前に、牧は苦笑しながらもそれを引き受けて、鷹緒がいるという地下スタジオへと向かっていった。
牧が薄暗い半地下のスタジオの階段を下りていくと、ドアを開ける前から大音量の音楽が流れていた。牧にも聞き覚えのあるバラードである。
そっとドアを開けると、薄暗い明かりがついただけのフロアの床に、鷹緒が大の字で寝そべっていた。
「鷹緒さん?」
不意に倒れているのかと声をかけると、鷹緒がちらりと牧を見て、そして目を閉じる。
「ちょっと待って……」
まるで音楽に浸っているかのように、力なく鷹緒がそう言った。
牧は黙ったまま近くの椅子に座り、鷹緒を見つめる。
鷹緒は眉を顰めて、顔に手をやった。まるで泣いているようにも見え、待っている間に、牧にも歌詞の内容が沁み込んできた。それは今の鷹緒に重なるような、切ない恋の歌だった。
それから少しして曲が終わり、スタジオにはラジオパーソナリティの声が響く中、静かに鷹緒が起き上がる。
「待たせてごめん……なに?」
まるで寝起きのように頭を押さえて、鷹緒が牧に尋ねた。その顔は、いつもの鷹緒と同じである。
「鷹緒さん。今の曲……」
「ああ……べつに。ラジオ聞きながら横になってただけ。浸って見えた? 変なとこ見られたな。もういろいろ疲れたよ……」
苦笑しながら立ち上がると、鷹緒は牧の持つファイルを見つめた。
「もしかして、届け物してくれた?」
「あ、はい。これがないと仕事にならないだろうって、ヒロさんが……それから、すごく反省しているみたいでした。これから私も含めて一緒に食事しようって」
牧の言葉に、鷹緒は口を曲げる。
「いいように使われてんな。本当に反省してるなら、自分で来るだろ」
「でも……本当に反省してましたよ?」
「ったく、子供じみたことしやがって……」
「そう言う鷹緒さんも、出て行った時点で十分……」
牧が言いかけると、鷹緒は牧を見つめて制止した。
「ごめんなさい。言いすぎました」
ただ見つめるだけの鷹緒に、牧は反省してそう言った。しかし、鷹緒は吹き出すように笑う。
「キッツイなー。でも図星だわ。俺も大概ガキか……」
「……ヒロさん、鷹緒さんのこと心配してるんですよ。私だって……」
「うん……わかってる」
鷹緒はそう言うと、持ってきた仕事と牧から受け取った書類をまとめて、作業場の電気を消した。
「事務所戻ろう。手間取らせてごめん」
「いいんですか?」
「べつにもともと怒ってるわけじゃないし。ただちょっと……痛いとこ突かれて血が上っただけ」
二人は地下スタジオを出て、事務所へと戻っていく。
「今日はお使い仕事が多いんだな」
鷹緒の言葉に、牧は頷いた。
「はい。でもいつも事務所にいるから、息抜きにはなりますね」
信号待ちで立ち止まり、牧は鷹緒の顔を見上げた。
すると鷹緒は真剣な表情のまま、遠くを見つめている。そちらの方向を見てみると、通りの向こうで信号を待つ女性が目についた。髪の長い細身の女性だ。まるで理恵を思わせたが、それは遠目にも違うことがわかる。
その時、さっきスタジオで流れていた曲がどこからか聞こえ、牧の心が切なく締めつけられた。
だがもう一度見上げた鷹緒は、もう顔を伏せ、静かに息を漏らす。
「鷹緒さん……」
思わず牧がそう呼ぶと、鷹緒はいつものように微笑み、首を傾げる。
「なに?」
「ちゃんと……話し合ったほうがいいです」
「ヒロと? あいつは大丈夫……」
「理恵さんとです」
差し出がましいとは思いつつも、牧がそう言った。それを聞いて、鷹緒は苦笑する。
「おまえにまでそんなこと言われるなんて……俺、よっぽどみんなに心配かけてるみたいだな」
「そんなことないですけど……切ない、です」
「……女心はわかんねえな」
信号が青になり、鷹緒は牧を置いて歩き出す。
ふとさっき見ていた女性とすれ違い、鷹緒は無意識にそれを目で追って、そして伏せた。
「……ごめんな。俺もまだ整理つかなくて……でもそんな心配しなくていいよ。いずれ解決しなきゃいけない問題だから」
微笑みながら牧に振り返り、鷹緒はそう言った。牧はそれ以上に何も言えず、ただ頷く。
やがて帰って事務所に、広樹が頭を下げた。
「さっきは……」
「ごめん。俺が悪かった」
広樹が言う前に、鷹緒が言った。
「僕もごめん……」
その時、二人の腹の虫が同時に鳴った。やがて合った目に、二人は互いに笑い合う。
「まだまだお互いガキらしい」
「ハハッ。とりあえずさ……夕飯食いに行かない?」
「賛成」
そのまま鷹緒と広樹は、牧を交えて三人で食事へと向かっていく。この一件で二人の友情に小さなヒビすら入ることはなかった。