117. こじらせ男子と甘いコーヒー
とある夕方。広樹は外回りから帰る途中で、あまりの寒さに駅前のカフェへと入っていった。
「ヒロさん?」
レジでそう呼ばれ、広樹が顔を上げると、見覚えのある女性の顔に驚いた。
「あ……」
「お久しぶりです」
「あ、うん。元気そうだね」
「おかげさまで。あ、ご注文お決まりですか?」
後ろも客が並んでいるので、女性は慌ててそう言った。
「あ、えっと……」
「今、期間限定でこちらもお勧めです」
「じゃあ、それで……」
「ありがとうございます」
それ以上の会話はなく、広樹は商品を受け取ると、窓際のカウンター席へと座った。
すると、ゴンっという鈍い音とともに、目の前のガラスを叩く鷹緒に驚く。
「鷹緒……」
招き入れるように店内を指差すと、鷹緒が入ってきた。
「おまえがこんなとこのカフェにいるとは珍しい」
鷹緒はそう言うと、広樹の横に座った。
「契約があってさ。寒いから入ってみたら……」
「入ってみたら?」
「おまえには会うわ、元カノには会うわ……」
「えっ?」
鷹緒が店内を見回す間に、広樹はカップに口をつける。
「甘!」
そう言った広樹に、鷹緒は苦笑した。
「そりゃあ、そんな生クリームいっぱい乗ってたらな……珍しいもん飲んでると思ったら、その元カノが原因か? どれだよ?」
「右のレジにいる子……」
「ええ? 見覚えねえな」
「そりゃそうでしょ。一ヶ月……いや、半月続かなかったんじゃないかな」
「それ、付き合ってるうちに入るのか?」
鷹緒は口を付けていない自分のコーヒーを差し出すと、無言のまま広樹のドリンクを飲み始める。
「甘くないの?」
「甘い……けど、嫌いじゃない」
「おまえ、激甘党だもんな……」
「こういう飲み物は好きじゃないんだけどな」
横目でレジを見つめながら、鷹緒が言った。
「ジロジロ見るなよ……」
「俺、会ったことない? いつどこで知り合った子?」
「さあ、どうだったっけな……」
「おまえが自暴自棄で遊んでた頃か」
「人聞きの悪い……若かりし頃の良い思い出でしょ」
「元さやに戻るべくアタックすれば?」
「残念。左手の薬指に指輪あり」
「チェック済みか」
苦笑する鷹緒の横で、広樹が溜息をついた。
「あーあ。僕にも春来ないかなあ」
そんな広樹に、鷹緒は笑う。
「おまえ、言ってるだけでその気ないじゃん」
「馬鹿か。バリバリあるわい」
「ふーん?」
「さすが……彼女持ちは余裕の反応ですね」
嫌味を言う広樹だが、鷹緒は気にしないといった様子で甘いコーヒーに口をつけた。
「おまえさ、散々俺の恋愛事情に首突っ込んできたくせに、いざ自分となるとなんだ? そのていたらくは」
「僕はそこそこ恋愛してきたって言ってるだろ」
「半月もたないなんて大人の恋愛とは言えないだろうが」
「そこはね……」
ブラックコーヒーを飲みながら、広樹は渋い顔をする。
鷹緒は外を見つめながら、頬杖をついた。
「まあ……そんなこと焦ってもしょうがないし、出会いがないなら見合いでもやれば? 最近流行ってんだろ」
「そこまでやるのは面倒くさくない?」
「じゃあ社内のやつに手を出すくらいでいないと、俺より出会いないだろ」
「社内のやつって……理恵ちゃんとか?」
広樹の言葉に、鷹緒は吹き出すように前屈みになった。
「おまえ……なんでよりによって、そこにいく?」
「だって年齢的に一番ちょうどいいし、今やフリーでしょ。僕との関係も悪くないし」
「そりゃあ……穏やかじゃねえなあ……」
「冗談だよ。まあ、部下は嫌だなあ。かといって、モデルに手を出すことも、もう……」
そんな広樹の額に、鷹緒はデコピンをした。
「アホか。モデルだろうと、成人だったら恋愛は自由。恋愛したいなら逃げ腰になってんじゃねえよ」
「おまえが言うか……」
「ハハッ。彼女持ちの余裕なんで……俺、先行くよ?」
立ち上がる鷹緒に、広樹は頷いた。
「うん。この後はなに?」
「事務所戻る」
「じゃあ一緒に戻ろうよ」
「やだよ。まだ全部飲んでないじゃん。このまま女子でも物色してな」
「人をコケにしやがって……」
「じゃあな」
足早に去っていく鷹緒を見送って、広樹はコーヒーを飲む。
駅前のため窓の外は人が行き交っており、世界の中で自分の小ささに気付かされるようだった。
「あの……」
その時、元カノの女性が、鷹緒がいた席を片付けながら、広樹に話しかけてきた。
「え?」
「これ、お店のクーポン券です。よかったらまた来てくださいね」
クーポン券を差し出され、広樹は笑って受け取ると立ち上がる。
「ありがとう……ごちそうさま」
そのまま足早に店を後にした広樹は、そっと空を見上げた。
独り身にはまだ寒い季節だが、恋愛に至っては誰に対しても踏み込めない自分がいる。実際のところ仕事にかまけていたのと、過去の失敗で恋愛に億劫になってきたせいもあるが、素直に前を向けない自分に嫌気が差した。
「努力してないもんな……」
広樹はぼそっと呟くと、もらったクーポン券をゴミ箱に捨て、寒さに身を縮めて事務所へと戻っていった。