107. 数年越しの変化
ある日の夕方。地方の仕事を終えたその足で、沙織は事務所へと入っていった。
奥にある企画部は皆出払っているらしいが、手前のフリースペースには懐かしい顔があった。
「茜さん!」
かつて鷹緒のことが好きだった恋のライバルの姿である。鷹緒と一緒の仕事で海外へ羽ばたいて行ったが、それから数ヶ月後には何年越しの鷹緒への情熱を捨てて外国人と結婚したと聞いている。
「沙織ちゃん! やだ、めっちゃ大人っぽくなってるじゃん!」
変わらぬ明るい笑顔で手を振る茜に、沙織は嬉しそうに駆け寄った。
「茜さんも! わあ、赤ちゃん可愛い!」
ベビーカーで笑っている赤ん坊を見て、沙織は食い入るように見つめる。
「でしょ? 抱っこしてみる?」
「いいんですか?」
「もちろん!」
茜は赤ん坊を沙織に抱かせると、大きな笑顔を見せた。
「サマになってるじゃない」
「いやあ、怖いですよ。でも可愛過ぎてやばい――!」
その時、事務所に戻ってきた鷹緒は、赤ん坊を抱いた沙織を見て笑った。
「ずいぶん若いママだな……」
「鷹緒さん! おかえりなさい」
「おまえもな」
すぐに自分のデスクに戻る鷹緒を尻目に、沙織は顔を赤く染めて俯き、赤ん坊をベビーカーへと戻した。
そんな沙織の様子を見て、茜は鷹緒に振り返る。
「なんだよ?」
すぐに茜の視線に気付いた鷹緒は、威圧するようにそう言った。
「嘘! 嘘でしょ?」
鷹緒と沙織を交互に見る茜に、鷹緒は顔を顰めて立ち上がると、そのまま茜を横切って給湯室へと向かう。そして冷蔵庫から取り出したプリンを持ってくると、沙織と茜に差し出した。
「ちょっと、これなんですか」
茜の問いかけに、鷹緒はプリンの蓋を開ける。
「プリン」
「これ……ヒロさんのじゃないんですか?」
「よくわかるな」
笑う鷹緒の横で食べ始めていた沙織は、吹くようにして手を止めた。
「え、これ、ヒロさんの? 食べちゃった……」
そう言った沙織の前で、茜が口を尖らせる。
「プリンといったらヒロさんじゃないですか」
「いいんだよ。こんなにあるんだから」
鷹緒はそう言いながら、茜を見つめた。
茜はすべてを悟ったように、鷹緒に頷く。
「へえ……そういうことですか。賄賂ですか。私が思ってること口にするなっていうんでしょ」
「そういうこと。あと、毎回帰る度にここに入り浸ってないで、とっとと帰れ」
「ひっどーい!」
冷たくそう言いながら、鷹緒はプリンを食べ終えて自分のデスクへと戻っていった。
「もう、本当に冷たい男だなあ。沙織ちゃん、ちょっとお茶しない?」
そう言って茜はプリンをかき込むと、沙織を連れて外へと出て行った。
事務所の前にある喫茶店に向かった茜と沙織は、ケーキセットを食べながらお互いの顔を見つめる。
「ちょっと! いつからなのよ。鷹緒さんと……」
茜の言葉に、沙織は目を見開いた。
「えっ?」
「あれ。私が気付いちゃったこともわからなかった?」
「えっ、あ、だから鷹緒さんが賄賂とかなんとか……」
「そういうこと」
沙織は驚きながら、茜を見つめて小声になる。
「ど、どうしてわかったんですか……?」
そんな沙織に、茜は笑い飛ばすように大きく口を開いた。
「もう! 侮ってもらっちゃ困るなあ。私がどれだけ鷹緒さんのこと見てたか知らないの?」
「いやいや、それでもあの短時間でわかるわけないじゃないですか」
「わかっちゃうのよ。沙織ちゃんはわかりやすいし、鷹緒さん見たらやっぱ前となんか違うし」
茜の言葉を聞いて、沙織は恐怖すら感じて苦笑する。
「さ、さすがですね……」
「まあ、今の私には愛しい旦那様がいるからいいんだけどさ……で、いつからなの?」
好奇心を抑えられないように、茜が尋ねる。
そこに、沙織の携帯電話が鳴った。見ると鷹緒からである。
「あ、鷹緒さんだ……」
「出ちゃダメ! 絶対口止めじゃん」
「え……」
そうこうしていると電話が切れたが、すぐに喫茶店へ鷹緒が入ってきた。
「鷹緒さん!」
驚く沙織に、茜は口を曲げる。
「もう。そんなに私と沙織ちゃんが話すの駄目ですか」
それには答えず、鷹緒はコーヒーを注文しながら沙織の横に座った。
「なんのこと? 俺はコーヒーを飲みに来ただけだし、そこに知り合いのおまえらがいたからここに座っただけだろ。そんなに俺は邪魔者か?」
しらばっくれるように不敵に笑った鷹緒を見て、茜ももう苦笑するしかない。
「わかりましたよ。もう何も言いません。聞きません。よーくわかりましたから」
そう言った茜に笑みを零しながら、鷹緒は運ばれてきたコーヒーに手をつけた。
「おまえにはお手上げだよ」
「嘘ばっかり」
昔からの知り合いの二人は、沙織にはわからない年月がある。入れない雰囲気に黙っていると、鷹緒が沙織に振り向いた。
「沙織。撮影は順調だったか?」
突然、鷹緒が話題を変えて尋ねてきたので、沙織は悪いと思いながらも頷いた。
「う、うん。滞りなく……」
「ハハ。そうか」
「茜さんは……いつまでこっちにいられるんですか?」
輪に入れたことで、今度は沙織が茜に質問する。
「うーん。まだ未定だけど、一ヶ月くらいはいようと思ってるよ」
「そんなノープランなんですか?」
「今回は、ママに初孫を見せてあげに来ただけだから」
そう言った茜に、鷹緒は顔を上げた。
「お母さん、元気?」
「うん。うちのママも孫には弱いみたい。しばらく家に居ていいって」
「へえ。実家で世話になってるのか?」
「さすがにスタジオ間借りするのも子供がいるから難しいし、何週間もホテル住まいは不経済だって」
そんな話をしていると、茜の隣に置かれたベビーカーから赤ん坊の泣き声が聞こえる。
「わあ、ちょっとトイレ行ってきます」
慌てて赤ん坊を抱きかかえてトイレに駆け込む茜を見送って、沙織は鷹緒を見つめる。
「茜さん、すっかりお母さんだね」
「だな」
「……心配してきてくれた?」
沙織の言葉に、鷹緒は苦笑した。
「さあな……」
「もう。素直じゃないなあ」
「しかし、あいつ怖いよな。どこで俺たちのこと悟ったんだか……」
「本当……でも、それがわかった鷹緒さんもすごいよ」
「あいつはあいつでわかりやすいからな」
そんな会話をしながらコーヒーを飲み干すと、鷹緒は立ち上がる。
「もう行っちゃうの?」
思わず言った沙織に、鷹緒は不敵な笑みを零す。
「このままここにいて、早く仕事終わらせなくていいのか?」
「そ、それは……」
「一時間以内には終わらせるから、どっかで待ってな。メシ食いに行こう」
「うん!」
鷹緒は会計ボードに三人分の金を挟むと、喫茶店を出ていった。
そこに、茜が帰ってくる。
「あーあ。なんか出るタイミング逃しちゃったなあ」
「茜さん」
「ほんと、自覚がないなんて信じらんない。あの目よ、目。沙織ちゃんも気をつけなさい」
そう言って、茜は沙織をこれ以上ないくらいに近付いて見つめる。
「め、目……?」
「優しい目するのよ、あの人。好きな人には特に。ああ、ムカつくなあ」
そう言いながら支度をして、茜は鷹緒の金が挟まった会計ボードを持って会計を始める。
「目……か」
沙織は嬉しくて緩んだ顔を引き締めて、足早に店を出て行く茜に慌ててついていった。