104-2. 豆台風の帰還(後編)
「茜が帰って来たぞ」
『えっ? ええ! 茜さんって、あの茜さん?!』
「俺の知ってる茜は一人しかいないけど……豆台風のな」
『わあ、超会いたい! 帰るまでにいるかな?』
かつて恋のライバルだと思っていた茜だが、今の沙織にとっては懐かしい人の一人になっており、自然と会いたい気持ちが溢れているようである。
「さあ……たまの日本だし、しばらくいるんじゃねえの?」
『私のこと覚えてるかなあ』
「まあ、積もる話は帰ってからゆっくりしな」
『うん!』
「じゃあ、明日も早いんだろ。俺もまだ仕事残ってるから……」
『うん。電話してくれてありがとう、鷹緒さん』
明るく返す沙織の声に、鷹緒は無意識に微笑んだ。
「いや……じゃあな。おやすみ」
『うん、おやすみなさい。あ……茜さんと、浮気しちゃダメだよ』
タイミングよく、ずるっと肘が滑り、鷹緒は苦笑する。
「あのなあ。するかっての」
『えへへ。わかってる。じゃあおやすみなさい』
「沙織。そう言うおまえも浮気すんなよ」
『えっ? するわけないじゃん』
お互いに茶化すように微笑み、電話を切った、
鷹緒は馬鹿なやりとりだと苦笑しながら、もう一本煙草に火をつけ、気持ちを切り替えるようにパソコンに向き合った。
しばらくして、喫煙室に万里が顔を覗かせた。
「鷹緒さん。ピザ来ましたよ」
「ああ。今、行くよ」
鷹緒はパソコンの画面を閉じると、万里のほうへ向かう。
「……万里。おまえは仕事終わったの?」
「あ……まあ区切りはついてるんですが、もう少しやりたい気持ちはありますね」
「あんま無理すんなよ。手伝えることなら手伝うけど……今日は茜もいるし、たぶんどんちゃん騒ぎになっちゃうから、食うもん食ったら早く帰ったほうが得策だぞ」
それを聞いて、万里は不思議そうな顔を見せる。
「はあ……そんな感じですか?」
「まあ、子連れだから前ほどじゃないだろうけど……残ったもん負けだな」
ため息をつきながら社内に入った鷹緒は、すでに乾杯を済ませてビールを飲んでいる広樹と茜を見て苦笑した。
「あ、来た来た、鷹緒さーん! 早く!」
「ったく、少しも待てないのかよ」
すでに一杯やってる二人を前に、鷹緒が缶ビールを開けて言う。
「いつ来るかわからなかったからさ」
「そうそう。乾杯なんて、何回やってもいいし」
「ほらほら、万里ちゃんも。乾杯!」
陽気な広樹と茜に笑いながら、鷹緒は茜の隣に座り、万里は広樹の横に座ってビールに手をつけた。
「酔わないうちに、もう一回ちゃんと自己紹介しなくちゃ。私は三崎茜といいます。鷹緒さんとヒロさんとは昔なじみで、特に鷹緒さんとはアメリカでも一緒だったし、切っても切れない縁っていうか、ね?」
茜の言葉に、鷹緒は口を曲げる。
「変な含み持たせんなよ。こいつは俺の師匠の写真家・三崎晴男の娘なだけ」
「万里ちゃん。茜ちゃんのお父さんは、この事務所の前身の社長でもあってね。家族ぐるみでお世話になっているんだよ」
鷹緒の説明に広樹も補足して、万里は頷いて頭を下げる。
「三崎晴男さんのお名前は存じています。企画部の君島万里です。よろしくお願いします」
「よろしくね。しかし企画部も女性社員が入ったんですね」
「まあ、性別で選んでたわけじゃないけどね……企画部はワンマン多いし体力的にも女性じゃ辛いと思ってたけど、万里ちゃんはへこたれずに頑張ってくれてるね」
「頼もしい。みなさん元気ですか? 牧ちゃん、理恵さん、長谷川さん……」
「うん。みんな元気だよ。すぐに会えるよ」
「はい」
懐かしそうに微笑む茜に、鷹緒が口を開く。
「おまえは? 親父さんとは会ってんの?」
「全然! 年に一、二回、パパが撮影とかで近くまで来る時くらい」
「おまえもたまには、おまえから会いに行ってやれよ……」
「まあ、ドイツに移住しちゃったからね……子連れになったらさすがに飛び回れなくなっちゃったかも」
「嘘つけ。こうして日本に来たじゃねえか」
「まあね」
それから小一時間後――。
すっかり酔いが回った様子で、ソファで大いびきをかく広樹と、数分前に気持ちが悪いと言って床に座り込んだまま、ゴミ箱を抱えて眠っている茜に、鷹緒は眉をしかめた。前に茜が戻ってきた時(※FLASH本編)と同じ状況が蘇る。
「デジャヴ……」
「だ、大丈夫ですか? 社長と茜さん……」
一番飲んだが顔色一つ変わらない万里が、心配そうに鷹緒を見つめる。
「ほっとけ。外じゃねえから死にはしないだろ。でもまあ、明日来た社員が驚くだろうから、社長室には入れねえとな……」
「社長運ぶなら手伝いますよ」
「いい、いい。それより、その酒類、社長室に戻しといて。ったく、いつの間にこんなに溜め込んでたのか……」
テーブルの上には何本かの酒瓶が並んでおり、それらは広樹が社長室から出してきたものである。
「美味しいお酒ばかりだったし、頂き物なんですかね」
「さあな。おい、ヒロ。起きろ。歩けって」
鷹緒は肩を貸しながらも、広樹を無理に起こす。
「うーん。水」
「水?」
「私もお水。鷹緒さーん」
意識を取り戻した茜もそう言うので、鷹緒は二人に水を汲んで差し出した。
「ほら。茜も……大丈夫か? 今回はちゃんとホテル取ってるんだろうな?」
「ホテル? そんなもん取ってるわけないでしょ。私の泊まるところは鷹緒さんちって決めてるんだから」
「アホか。そんなもん勝手に決めるな」
「ひどーい。子連れで路頭に迷えっての?」
「だからホテル取れって言ってんだろうが。取ってタクシー呼んでやるから黙ってろ」
うんざりしながら、鷹緒は余ったビールに口をつける。
すると突然、ソファに深く腰を掛けていた広樹が起き上がった。
「そうだ、ひどいぞ、鷹緒。子連れで大変だろ、茜ちゃん」
「ヒロ。起きたなら自分で社長室行け」
冷たくあしらう鷹緒を無視して、目の据わった広樹が茜に微笑む。
「茜ちゃん。うちのマンションスタジオで良ければ使っていいからね」
「わあ。本当ですか? ヒロさん。ありがとうございます!」
嬉しそうに微笑む茜に、鷹緒が慌てて広樹を睨みつける。
「勝手に決めんなっての」
「あそこはもううちの所有でしょう。一日くらい泊めたっていいじゃん」
「ったく、なんでおまえは茜に甘いんだ」
「べつに減るもんじゃないからいいでしょ……」
そう言いながら、広樹は寝てしまった。
「おい、ヒロ!」
「ヒロさん、ありがとうございまーす……」
そう言いながら、茜の目も閉じる。
「ったく、冗談じゃねえぞ……ヒロ!」
「もう……ヒロヒロうるさいなあ……」
「寝る前に歩け。社長室行け」
まだ少し意識のある広樹に肩を貸し、鷹緒は社長室へと入っていく。泊まり込みの仕事をすることもあるため、社長室には広樹の着替えもあるはずで、毛布から何から揃っている。
一瞬起きた広樹だが、社長室のソファに着くなり再び寝てしまったので、鷹緒は毛布をかけて社長室から出ていった。
鷹緒はため息をつくと、今度は茜のところへ向かう。
「茜。おまえも起きろっての……本当にホテル取ってないのか?」
「取ってないよう……ふあーあ」
何度もあくびを繰り返しているが、茜は意識を取り戻そうと水をがぶ飲みしている。
そこに、ゴミ処理を終えた万里が給湯室から出てきた。
「ああ、万里。サンキュー」
「いえ……あの、ここで仕事の続きしたらダメですかね?」
万里の言葉に、鷹緒は眉を顰める。
「え、まだ仕事するつもりか?」
「なんか、目冴えちゃって……家帰っても飲みたくなっちゃうし」
それを聞いて、鷹緒は笑った。
「そういう時もあるよな……じゃあおまえもマンションスタジオ泊まるか?」
「え?」
「こいつ運ぶの手伝って欲しいし、環境変われば眠れるだろ」
「マ、マンションスタジオって、鷹緒さんの家の隣の部屋ですか? 本当に茜さん、そこに泊めるんですか?」
「仕方ねえだろ。この状態でここに置いとくわけにもいかねえし、子供もいるし……おまえがいるなら一応安心」
酔った子連れの茜を面倒見るのは正直面倒ではあったが、確かにこのまま放っておくのも気が引けて、なにより鷹緒の頼みと言うこともあり、万里は頷いた。
「わかりました。赤ちゃんの面倒見るのは不安ですけど、茜さん起こすくらいは出来るだろうし……」
「ありがとう。迷惑かけるけど、今日だけでいいから……隣に俺もいるしな」
そう言って鷹緒は茜を背負い、万里はベビーカーを押して、鷹緒の車でマンションへと向かっていった。
マンションスタジオに到着すると、鷹緒は控え室となっているソファベッドに茜を寝かせる。
「鷹緒さん。赤ちゃんどうします?」
「ちょっと隣見てくる……」
万里に言われて、鷹緒は隣の部屋へと向かっていった。そこには過去の撮影で使用した小道具や家具が置かれている。
しばらくして、鷹緒は折りたたみ式の柵を茜が眠る部屋の床に置いた。
「すごい。そんなものあったんですか」
「前に猫の撮影があったから……」
「猫って……」
「掃除してあるし、ここに布団敷けば危なくはないだろ」
「そうですね」
柵の中に布団やタオルを敷いて、その真ん中に茜の子供を寝かせた。飲んでいる間に何度か起きたが、今はすっかり眠っている。
「じゃあ、ここはいいから和室で寝ろよ。布団ここで使っちゃったから、俺の部屋から布団持って行くから」
「なんかすみません……」
「いや。迷惑かけてるのはこっちっつーか、あいつだし……」
そう言って、鷹緒はマンションスタジオを出ていくと、隣の自分の部屋へ入っていった。
万里がマンションスタジオのリビングに腰を落ち着かせると、ほどなくしてリビングのドアが鍵の開く音とともに開き、鷹緒が布団を担いで入ってきた。
「万里。そこまで毛布運んできたから持ってきて」
「あ、はい……」
一瞬、鷹緒の部屋に入る形となった万里は、少し緊張して部屋の中を見回した。普段そこまで意識したことがなかったが、こんな夜更けに鷹緒と二人きりというのは不思議な感じで興奮すら覚える。
しかし鷹緒は手際よく和室に布団を敷くと、押し入れから布団乾燥機を取り出し、セットする。
「鷹緒さん。そんなことまでいいですよ……」
「いや。前にヒロが泊まりに来て以来、使ってないし……シーツは洗ってあるやつだから、それ敷いて」
「ありがとうございます」
二人して和室に座る形となった鷹緒と万里は、ふと黙ってお互いを見た。
するとその時、視線を感じて二人は同時に振り返る。するとそこには茜が立っている。
「うわ! なんだ、おまえか」
「なんだ、おまえかとは何よ! この浮気者」
「何が浮気だ。そんなんじゃねえ」
「もう油断ならない男だわ。鷹緒さんは私のことだけ見てればいいの」
「ふざけんな。酔いが覚めたならさっさと寝ろ……じゃあな、万里」
そう言って、鷹緒は逃げるように自分の部屋へと入っていった。
「ちぇっ。相変わらずつれないなあ」
口を尖らせる茜に、万里は苦笑する。
「好きなんですね。鷹緒さんのこと」
「わかる? 結婚した今でも、鷹緒さんは私にとって永遠のアイドルみたいなもんなのよ」
その時、遠くで赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
「あらら。行かなくちゃ……すぐあやしてくるわ。騒がしくしてごめんね、万里ちゃん。また明日ね」
去っていく茜を見送って、万里は用意された布団へと向かっていく。騒がしい夜で目が冴えてしまったのは万里だけではない。鷹緒もまた自室で遅くまで煙草をふかしていた。