104-1. 豆台風の帰還(前編)
夜。WIZM企画プロダクション社内には、企画部の君島万里がいるだけで、静まり返っている。もう定時は過ぎており、他の社員は退社か直帰のはずである。
そこに、鷹緒が戻ってきた。
「万里? おまえ一人か」
「おかえりなさい。はい、企画の修正とかやらなきゃと思って……」
「根詰めるとしんどくなるぞ」
「でも、やらないと溜まっていく一方だし……楽しいんで」
「頑張ってるな。おまえ、企画の仕事向いてるよ」
鷹緒の言葉が素直に嬉しくて、万里は頬を染める。
そんな万里の表情までは見ずに、鷹緒は自分の席へと座った。
「あ、ありがとうございます……鷹緒さんは今日も遅かったんですね」
「うん、撮影押しちゃって。他のみんなは帰ったの?」
「そうみたいですね。でも、社長は戻るって言ってましたよ」
「俊二も終わったら戻ると思うよ。あっちも押してるって言ってたからな」
「そうなんですか」
軽く会話をかわしながら、鷹緒は机の上の伝言メモを片付けると、早々に立ち上がった。
「事務仕事する前にコンビニ行ってくる。腹ごしらえしねえとな……なんかいる?」
「私は大丈夫です」
「じゃあ行ってくる」
去っていく鷹緒を尻目に、万里はパソコンに目をやる。最近、大きな企画を任され、撮影などの手伝いよりも事務所にいることが多くなっている。
「わあ、真っ暗。やっぱ遅かったか!」
しばらくすると、そんな大声が聞こえて、万里は振り向いた。
そこには派手な出で立ちの女性が立っており、事務所内をきょろきょろと見回している。
「あの……?」
「こんばんは! えーと、他に社員さん、誰もいないですか?」
万里の問いかけに、女性は明るくそう返す。
「あいにく、今は誰も……」
「そっか。もう、私ってばいつもタイミング悪いんだからなあ……」
「はい?」
その時、万里の目に、エレベーターから降りてきた俊二の姿が映った。
「俊二さん……」
「え? えっ?」
俊二は二人に気付くなり、目をまん丸にさせて女性を見つめる。
「あ、俊二くん! お久しぶり!」
ピースサインで答える女性に、俊二は少し後ずさった。
そんな俊二の後ろに、コンビニから戻ってきた鷹緒が入ってきて目を見開く。
「茜?」
同じく驚く鷹緒の声を聞きながら、茜はすかさず鷹緒に抱きついた。
「やーん、鷹緒さん! そうよ。あなたの茜ですよ――!」
女性の名は、三崎茜。鷹緒の写真家としての師匠・三崎晴男の愛娘で、鷹緒と広樹にとっては自身が高校時代からの付き合いである。
一人盛り上がっている茜をよそに、鷹緒は顔色を変えずに口を開いた。
「おまえか。事務所の前に子ども置き去りにしたのは」
「人聞きの悪い。よく寝てたし、すぐ戻ると思ったから」
事務所の入口であるエレベーターホールには、寝ている子どもが乗ったベビーカーがあった。
「アホか。平和な日本だって、何があるかわかんねえんだぞ。隣の会社がもう閉まったからって、うかうかしてんじゃねえよ」
「ごめんなさーい……」
その時、続いて広樹が帰って来て、同じく目を丸くさせた。
「茜ちゃん! 今日だったの?」
広樹の言葉に、茜は鷹緒から離れて手を振る。
「ヒロさん! お疲れさまです。驚かせたくて黙って来ました。しばらくこっちにいるつもりなので、よろしくお願いします」
「おい。立ち話もなんだから、とにかく入れよ」
そう言いながら、鷹緒は事務所の中へと入っていく。すると、真ん前で立ち尽くしている万里の姿に気がついた。
「ああ、おまえは初対面だよな。こいつは三崎茜。俺たちの……古い知人だ」
関係を考えながら、鷹緒は万里にそう説明したが、すかさず茜が後ろから鷹緒に抱きつく。
「何が古い知人ですか。この子の父親なのにぃ」
「えっ!」
驚く万里の前で、鷹緒は茜の額を軽く叩いた。
「アホか。初対面の人間の前でつく冗談にしてはきついっての」
「なによう」
「まあまあ、とにかく奥にどうぞ。ベビーカーも一緒にね」
漫才のように続きそうな鷹緒と茜の間に入って、広樹は奥のミーティングスペースへと茜を誘導する。
それを尻目に、鷹緒と万里は自分の席へ向かい、俊二は奥のロッカーへと向かっていった。
「万里。飲む?」
そこに、鷹緒がコンビニで買ったカップスープを差し出す。
「え?」
「よかったらだけど」
「あ、ありがとうございます。なんかちょっと感激……」
「コンビニ行くのに、自分の分だけ買うのに気が引けただけだよ。今飲まずに取っておいてもいいし」
そんな二人に割って入るように、間の席の俊二が座る。
「お邪魔です?」
「馬鹿言ってんなよ。そっちも時間かかったんだって?」
俊二への会話に切り替えて、鷹緒は自分の席へと戻っていく。
「かかったなんてもんじゃないですよ。夕方前には終わる予定だったのに……」
「なんかトラブル?」
「いや、段取り悪くて……」
「こっちも着替えに手間取ったりして、ペース作れなかったなあ」
「どこの現場も大変ですね」
来客に目もくれずデスクワークを始める三人を尻目に、広樹が給湯室へと入っていく。
「茜ちゃん、何飲む?」
「あ、じゃあ、コーヒーで」
「ヒロ。俺もコーヒー」
遠くから声を掛ける鷹緒に、広樹は苦笑する。
「ハイハイ。もうみんな、コーヒーでいいね?」
言いながらコーヒーを入れて、広樹は社内にいる全員にコーヒーを配ると、茜の前に座った。
「久しぶり。長旅お疲れさま」
「お久しぶりです。ヒロさん、髪切っちゃったんですね」
「ハハ。まあ、気分転換でね」
「そっか……でもみんな変わってなさそうでよかった」
「茜ちゃんも変わらないよ」
「子連れになりましたけどね」
近くまで持ってきたベビーカーを見つめる茜に、広樹も優しい笑みを零す。
「あの茜ちゃんがお母さんか。僕も年を感じるなあ」
しみじみする広樹の横に、コーヒーを飲みながら鷹緒が座った。
「おう、鷹緒。仕事終わったの?」
「キリはついたけど、もう少しやらねえと。先に書類渡しとく」
束ねられた書類を渡され、広樹は大きく頷く。
「了解」
「休憩がてらメシ食っていい?」
そう言って、コンビニ袋からパンを取り出す鷹緒を見て、広樹が口を開く。
「じゃあ食べに行こうよ。茜ちゃんもいるんだし」
「仕事したいんだけど……」
「じゃあ出前でも取るか。僕も仕事溜まっちゃってるしね」
「なんかすいません。でもおなかペコペコ! ピザでも取りましょうよ」
「いいね」
会話の進む広樹と茜を尻目に、鷹緒はパンをかじり出す。
「おまえな……」
「ピザはピザで食うから、早く頼めよ」
「ハイハイ。相変わらず人使いの荒い……」
手早く電話をする広樹を尻目に、茜が口を開いた。
「私が来ること知ってたの? 鷹緒さん」
「ヒロから聞いてはいたよ。もう少し先の話だと思ってたけどな」
苦笑しながらも、鷹緒はそう答える。茜が帰ってくるということは少し前に広樹から聞いていたことだが、その時も反応が薄いと言われていたくらい、驚きはするがそれ以上のことはない。
「驚かせたかったから」
「ったく、毎回毎回そういうのいらねえし」
「いいじゃない。たまになんだから」
「まあな……」
そう言って、鷹緒はパンを食べ終えて立ち上がる。
「え、もう行っちゃうの?」
「ピザが着く前に仕事片付けて欲しけりゃ、文句言うな」
「了解です!」
去っていく鷹緒を尻目に、広樹もまた立ち上がる。
「ごめん、茜ちゃん。僕も急いで仕事終わらせてくるから」
「あ、そうですよね。帰って来たばっかなのに私の相手なんて大丈夫です。お構いなく」
「ごめんね。一応ピザのお金置いておくけど、来たら声かけて」
一万円札を置いて、広樹も社長室へと入っていった。
残された茜は社内を見回す。来たことはあるが、数年ぶりのそこは知らない部分も多い。
「鷹緒さん。僕、今日はこれで帰ります」
しばらくして、俊二がそう言って立ち上がった。
「え、ピザ食って行かねえの?」
「さっき弁当食べたばっかですし、明日早いんで……すみません」
茜とそれほど面識のない俊二は、残る義理もない。鷹緒もそれを気に留めることもなく頷いた。
「そうか。おつかれ」
足早に去っていく俊二を見送って、鷹緒はパソコンを見つめた。思いのほかメールも溜まっている。鷹緒は顔を顰めると、ノートパソコンを持って立ち上がり、喫煙室へと向かっていった。
鷹緒は誰もいない喫煙室に入ると、定位置となっている場所にパソコンを置き、すぐに煙草に火をつけた。長時間吸っていなかったせいもあるが、溜まっている仕事に嫌気が差して、煙草に逃げてしまう。
まだ仕事に向き合う気分にもなれず、ふとスマートフォンを取り出すと、沙織に電話を掛けた。
『もしもし!』
元気の良い沙織の声が聞こえ、鷹緒は笑って煙草の火を消す。
「よう。今、大丈夫か?」
『うん。さっきホテルに帰ってきたところ』
「今日もロケだっけ。何処?」
『福岡。明日も北九州回って、明後日の夜に大阪寄ってから帰る予定だよ』
月一のテレビ番組の準レギュラーも順調だが、それ以外にもテレビの仕事は増えてきていて、モデル業だけではなく順調のようだ。
「そっか。弾丸ツアーじゃん」
『久々だよ、こんなに回るロケ。でも麻衣子も一緒だし、特番用だからみんないて楽しいよ。鷹緒さんはどう?』
逆に聞かれて、鷹緒は天井を見上げる。
「こっちは代わり映えしねえかな。今日も雑誌の撮影だったし……あ、いや違う。そんなこと言いたかったんじゃなくて……」
『え?』
「茜が帰って来たぞ」