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96. 揺れる大人の女心

 人もまばらな夜。WIZM企画プロダクションでは、社長室に広樹と鷹緒、モデル部署のミーティングスペースに理恵がいて、受付にいた牧が振り返った。

「じゃあ、理恵さん。私、帰りますね」

 そう言われて、理恵は顔を上げる。

「うん。おつかれさま、牧ちゃん。気をつけてね」

 牧が去っていくと、途端に静けさだけが訪れた。社長室はドアが開いているものの、何を話しているかまでは、理恵のところまでは届かない。

「うーん……」

 スケジュール表を見つめながら、理恵は大きなため息をつく。

「どうした?」

 その時、背後から鷹緒の声が聞こえ、理恵はビクリと振り向いた。

「わっ、急になによ」

「急っていっても、おまえの真横通って来ただろうが。どんだけ集中してんだよ」

 社長室からの動線にいた理恵に、鷹緒が口を曲げて答える。

「そ、そうかもしれないけど……」

 企画部の自分の席へと向かっていく鷹緒を尻目に、理恵は無意識に火照る顔を押さえた。

 かつては夫だった鷹緒。豪への愛が冷めた今、そして先日、鷹緒の肩を借りた今、理恵の中で押し込めていた鷹緒への思いが、再び燃え上がりそうな予感がし、理恵は首を振る。

「た、鷹緒……」

 そう呼ばれて、自分のパソコンに向かう鷹緒が顔を上げた。

「ん?」

 目が合う鷹緒に、理恵は一瞬目を伏せると、意を決したように目線を合わせる。

「私……もう大丈夫だから。豪のことは終わりにしたし、これからは恵美と本当に二人三脚で頑張る。鷹緒にはもう迷惑かけないから。だからもう私に優しくしないで。私や恵美のこと考えないで」

 そう言った理恵に、鷹緒は吹き出すように笑った。

「ハハッ。何を言うかと思えば……」

「な、なによ」

「なんの意地だか知らねえけど、俺はもともとおまえに優しくねえし、優しいとしたらおまえにだからじゃねえし、おまえがフラフラしてようが知ったこっちゃねえ。恵美のことだけちゃんとしてれば、俺からおまえに何か言うこともねえよ。バーカ」

「バ、バカは余計よ」

 鷹緒の言葉に素直に傷つきながらも、理恵もまた笑った。この関係が心地悪いものでもない。

 その時、広樹が社長室から出てきた。

「理恵ちゃん、まだ仕事終わらないなら手伝うよ?」

 空気が変わって、理恵は慌てて振り向く。

「あ、いえ……人員のスケジュール組み直したら終わりです」

「それが一番難しいって顔だね」

「連休で人が足りなくて……」

「どれどれ……ああ、今度のファッションショーの?」

 広樹の言葉に、鷹緒も立ち上がって近づき、理恵の手元を見つめる。

「これ、俺も行くやつじゃん。どこが手薄なの?」

 三人は固まって、スケジュール表に目をやった。

「マネージャーが急遽一人休むことになって、途中からなら打ち合わせ終わりの私が行けるんだけど、行きの手配が出来なくて……」

「現地集合にしたら? モデルもスタッフもみんな行ったことあるところでしょ」

 広樹はそう言うが、理恵は首を振る。

「モデルチームは事業所単位のパス一つしかもらえてないんです。固まって行かないと入れなくて……あの建物は入口もわかりづらい上にチェック厳しいし、他のスタッフはそこらへん詳しくなくて、どうしようかと」

「うーん。その日は僕も契約あるし、企画部も他の撮影あるしなあ……」

 その時、鷹緒が自分の携帯電話を凝視した。その日の自分のスケジュールを確認しているようだ。

「そうだな……モデルの集合時間を早められるなら、俺が迎えに行ってもいいよ」

 鷹緒の言葉に、広樹と理恵は首を傾げる。

 その日はファッションショーの仕事だが、スタッフとして行く鷹緒はモデルより早めに入るはずである。それに合わせてモデルが行くとなれば、待ち時間も長くなり、先方で用意された場所もないかもしれない。

「無茶言うなよ。入り時間そんなに早めたら、モデルももたないし、先方の都合も……」

「いや。俺と同じ時間に入れって言うんじゃなくて、そっちの予定より一時間くらい早く入ってくれるならってこと。さすがにこっちの入り時間と一緒だと、俺もバタバタして面倒見られないし、モデルの入り時間のあたりはまた調整で忙しいと思うんだけど……中十数分くらいはいつも空き時間があるから、その辺に来てくれるなら、俺が通用口まで迎えに行くよ」

 鷹緒の提案に、二人は難しい顔をする。

「そんなにうまくいくかしら……」

「まあ、時間さえちゃんと合わせてくれれば、最悪は俺が行けなくても、誰かに事情話して開けてもらうようにするし」

「いや。一番心配なのは、おまえが集中しすぎて、その時間すら忘れるってことだよ」

 否定的な広樹に、鷹緒は苦笑した。

「信用ねえなあ。さすがにそこまでアホじゃねえよ。数人ならともかく、モデル全員に関わるなら覚えてるし」

 その時、出入口のドアが静かに開くと、沙織が顔を出した。三人の視線が沙織に注がれる。

「あ……」

 同時に四人がそう言う中で、沙織は慌ててお辞儀をした。

「すみません。お取り込み中でしたか……?」

 そんな沙織を見て、三人は目を見合わせる。同じことを思っているようだ。

「そうか、おまえも今度のファッションショー行くんだよな」

「よかった。沙織ちゃんがいるなら安心だわ」

「そうだね。これで万々歳」

 三人がそう言ったことで、沙織は首を傾げる。

「あの……?」

 そんな沙織を前に、鷹緒は素早く支度をして振り返る。

「じゃあ、この問題は解決でいいな。あと問題は?」

「とりあえず大丈夫」

「それじゃあ俺、帰るわ」

「ああ。おつかれ」

 理恵と広樹に見送られ、鷹緒は沙織のほうへと歩いていく。

「私、なにか……?」

 出入口付近で、沙織が近づいてくる鷹緒に問いかけた。

「ああ。今度のファッションショー、俺のアラーム代わりして」

「アラーム?」

「おまえら着いたら連絡してってこと」

「ふうん?」

 まだ状況が飲み込めていないながらも、沙織は鷹緒と一緒に帰れることを喜ぶように、軽い足取りで鷹緒についていく。

「じゃあな」

「おつかれさまです。お先に失礼します」

 そう言って、鷹緒と沙織は会社を出ていった。

 そんな二人を見て、理恵は静かに微笑んだ。胸の奥にいつもある小さな炎は、二人を見てふっと消えるようだった。

「理恵ちゃん、帰れる?」

 広樹がそう言って、理恵はハッと現実に戻る。

「あ、はい。頭を悩ませてた問題は、沙織ちゃんのおかげで解決です。帰ります」

「よかった。じゃあ僕も帰ろうっと。一緒に帰ろう」

「はい」

 二人は支度をすると、会社の戸締まりをして外へと出ていく。

 駅へと向かう途中、広樹が静かに口を開いた。

「あの、さ……プライベートに介入する気はないんだけど。その……大丈夫?」

「え?」

「いや……この間まで、恵美ちゃんが鷹緒のところにいたっていうし……」

 心配そうながらも、立ち入った質問を申し訳なさそうに広樹がしてきたので、理恵もまた恐縮して肩をすぼめる。

「ああ……ごめんなさい。ヒロさんにまで、余計な心配させちゃって……」

「いや、余計っていうか……鷹緒はいつも、肝心なことは言ってくれないからさ……」

「ああ……」

「あいつが何でもないって言うならそうなんだろうし、理恵ちゃんっていう相手がいての話だから、何も話したくないのかもしれないけどさ……僕は一応社長で、まして何も事情を知らない間柄でもないし、従業員同士の間で何か困ったことがあるなら、協力したいと思ってるよ」

 その言葉に、理恵もまた重い口を開く。

「ごめんなさい……私がいつまでもフラフラしてるから……」

 そう言って、理恵は立ち止まる。

「理恵ちゃん?」

 立ち止まった理恵は、唇を噛みしめて自分の髪を掴む。

「ごめんなさい、私……自分が本当に嫌なんです」

 いつもと違う理恵に、広樹は焦るように首を振る。

「ごめん、理恵ちゃん。僕が深入りしすぎたなら謝るよ。言いたくないことは言わなくていいんだよ」

「違います。言わなきゃいけないことなんです」

 切実な目をする理恵に、広樹もまた真剣になって、辺りを見回す。

「……軽く食事でもしようか」

 広樹の申し出に頷いた理恵。二人は近くにあった個室の創作料理店へと入っていった。


 仕切り直した二人は、面と向かって酒を酌み交わす。

「……自分から聞いておいてなんだけど、本当、言いたくないことは言わなくていいんだよ?」

 もう一度言った広樹に、理恵は少し俯いた。

「いえ……知っていてほしいんです。ヒロさんには……」

「……そう?」

「思えばヒロさんは、ずっと私たちを見守っててくれたんですよね。当たり前のようにそばにいてくれたけど、本当、その存在は大きかったんだって改めて思います」

 理恵の言葉に、広樹は苦笑する。

「そんな……僕のことはいいんだよ。それに僕たち、ビジネスでの繋がりもあるけれど、友達だろ?」

「はい……」

「悩みがあるなら聞くし、言いたくないことは言わなくていい。でも、一人で抱え込まないでよ」

 それを聞いて、理恵は涙ぐんだ。

「すみません。年ですかね。最近、涙もろくて……今、優しさに弱いみたい」

 必死に涙を堪える理恵を、広樹は見ないように目を伏せる。

「べつにいいんだよ。もう十年以上の付き合いだもんね。お互いにいろんな面を見てるはずだし、今更格好つけたって仕方ないじゃない。大丈夫だよ」

「ありがとうございます……鷹緒にも迷惑かけてばかりで……」

「鷹緒か。まああいつ、ああ見えてお人好しだしね……それにあいつこそ知らない仲じゃないんだし、迷惑かけてもいいんじゃないのかな」

 まるで人生相談のような会話に、広樹は苦笑した。綺麗事に聞こえる返事だったかもしれないが、目の前の理恵はいつになく弱々しい。

「ううん。いつだって、私ばっかり優しくないんですよ……それでいつも自己嫌悪。鷹緒のこと、あんなに傷つけたのに、優しさに甘えて手放したくないと思うなんて……」

 それを聞いて、広樹は顔を上げた。

「……理恵ちゃん。まさか、鷹緒とよりを戻したいの……?」

 核心を突かれたように、理恵の息が一瞬止まる。しかし、すぐに深呼吸をして首を振った。

「それは……ないですよ、ヒロさん」

「そ、そうだよね」

「でも……たまに思い知らされるんですよね。あの人の……鷹緒の嫌なところ全部吹き飛ばすくらい、好きな部分を……」

「理恵ちゃん……」

「でも本当、ないです。それだけは、しちゃいけないと思うから。何があっても、殺さなきゃいけない感情だと思っています」

 まるで自分の本心を隠し失くそうと必死に見える理恵に、広樹は顔をしかめた。

「気持ちはわかるけど、そこまでする必要はないんじゃ……」

「ヒロさん。ヒロさんが知りたがってること……私、豪と正式に別れました」

 続いての爆弾発言に、ヒロは驚いた。しかし、すぐに頷く。

「そう……やっぱり。そんな予感はしてたんだ」

「でも、変なんですよ。嫌いなはずなのに、冷めたはずなのに、いつでも私の心には豪がいるんです。それもまた、殺さなきゃいけない感情だと思ってます。変ですよね、本当に……なんでこんな、自分の気持ちがフラフラしてるのか、自分でもわからなくて……」

 思い悩んでいる様子の理恵。広樹は空いたグラスにビールを注いだ。

「……みんなそうだよ。僕だって、殺さなきゃいけない感情はいくらでもある。理恵ちゃんだけが特殊じゃないよ」

 そう言われて、理恵は広樹を見つめた。心配そうにしている広樹の顔が目に映る。

「ヒロさんは……どういうふうにして押し込めてきたんですか? その感情……」

 理恵の言葉に、広樹の目が揺らぐ。

「……僕の場合は立場があるからね。大人って大変だよね……子供の頃は突っ走ってぶつかって、どうにか通り抜けてた気持ちも、今では一歩間違えば自分だけでなく相手まで潰すことになる……ちっぽけな社長だけど、責任は大きいから」

「おかしいな……私だって同じような立場なのに」

「理恵ちゃんの場合は、相手が大人の姿をしたコドモでしょ。大変なのはわかるよ。翻弄させられるのもね」

 そんな話をして、やっと落ち着いたように、二人はふっと笑って酒を飲む。

「でも、鷹緒には……幸せになってもらいたいんだよね」

 ぼそっと呟いた広樹に、理恵もまた苦しそうに笑った。

「私も……そう思います」

「おかしいよね。男同士だし、鷹緒よりよっぽど僕のほうが、恋人もいないし不幸だとも思うんだけど、あいつ見てると危なっかしいからさ……ちゃんと幸せになってもらいたい。もちろん、理恵ちゃんや他の人にも同じように思ってるけどね」

 理恵は飲もうとしていたビールのグラスをぐっと掴むと、まっすぐに広樹を見つめる。

「私もそう思います。鷹緒には、誰より幸せになってもらいたい。私が彼の何もかも奪ってしまったからこそ、私もしっかりしなきゃと思うし、何か出来ることがあればしたい……」

 その言葉に、広樹は諭すように微笑む。

「うん……理恵ちゃんの気持ちは、きっと鷹緒にも伝わってるよ。でも、理恵ちゃんが鷹緒に出来ることは、きっともう、そうないんじゃないかな。あるとすれば、理恵ちゃん自身が幸せになることだよ」

「……はい」

 広樹は微笑んだまま、理恵を見つめている。

「豪と別れたならよかった。どんなに周り道しても、ちゃんと自分で決めて前へ進んでるなら、僕も言うことはないよ」

「ありがとうございます……」

「しかし理恵ちゃんも、ややこしい男ばかり好きになるね」

 からかうように言った広樹に、理恵もまた笑う。

「フフッ。本当に……」

「ねえ、理恵ちゃん。今、君がどれだけ辛いのか僕にはわからないし、どれだけ自分を責めてるかも知らないけど、鷹緒のことは大丈夫だよ。でもあいつが前へ進むためにも、君が前を歩いてやって」

「私が前を?」

「そう。あいつ、振り返るタイプじゃないから……」

 首を傾げる理恵を前に、広樹はビールを一気に飲み干し、話を続ける。

「ワンマンでマイペースだから、自分がどれだけの速度で歩いてるかわかんないんだよ。だから先に進みすぎて、気がつけば一人になってることがわからないの」

「はあ……」

「だから鷹緒は今、一番後ろで僕たちを見つめてるんだよ。過去に失敗してるから、余計にね。引っ張っていくタイプなのに意外だろ? だから理恵ちゃんが先に進んでくれないと、後ろにいるあいつも進めないの。わかる?」

 酔いもあってか、持論を展開する広樹に、理恵は必死についていこうと身を乗り出す。

「な、なんとなく……そしてヒロさん、本当に鷹緒のことよくわかってますね……」

「まあ、これだけ長くいればね……あいつ、恋愛面においては本当に我が強くないからさ。こっちがハラハラしちゃうこともしばしば」

 身を乗り出したままの理恵を見て、広樹は理恵の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「ちょ、ちょっとヒロさん。酔ってます?」

「アハハ。酔ってる酔ってる。でも安心してよ。みんなそうして進んでるってこと。お互い髪切って区切りつけた者同士、焦らずいこうよ」

 理恵は吹き出すように笑うと、広樹の手から逃れて、短くした自分の髪を整える。 今どき失恋で髪を切るなど古いとは思ったが、さっぱりして区切りにはちょうどよかった。

「ありがとうございます、ヒロさん。私、恵美と幸せになりますから」

「うん。心からそう願ってるよ」

「ありがとうございます。本当に……吹っ切れました」

 涙ぐみながらも清々しい表情を見せる理恵と広樹は、しばらく酒を酌み交わしていた。

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