95. 区切り
ある朝、出勤した鷹緒は、廊下ですれ違った人物に目を奪われた。
「……理恵?」
「おはようございます」
爽やかに笑って挨拶をしながら、理恵は颯爽と女子トイレへと入っていったので、鷹緒は一人、事務所へと入っていった。
朝の事務所はバタバタしていて、挨拶はするものの座って仕事をしている人はまだいない。
鷹緒もまた自分の席に着くなり、パソコンの電源をつけるとすぐに給湯室へと入っていく。
「あ、鷹緒さん。おはようございます。コーヒー飲みますか?」
給湯室にいた万里がそう言ったので、鷹緒は頷いた。
「ああ、ありがとう」
「鷹緒、来た――?」
すると、フロアからそんな声が聞こえ、鷹緒はコーヒーを受け取るとすぐに給湯室を出ていく。
「いるよ」
「ちょっと社長室いい?」
そう言った声の主は、広樹である。
「ああ。すぐ行く」
鷹緒はそう答えると、一度自分の席に戻り、メールチェックをしながら机の上に置かれた自分宛のファックスをまとめ、コーヒーを持って社長室へと入っていった。
しかし、社長室にいるはずの広樹の姿はなく、誰も居ない。
そんな室内に気を留めず、鷹緒は社長室のソファに座ると、コーヒーを飲みながらファックスに目を通し始めた。
「失礼します」
そこに理恵が入ってきたので、鷹緒は理恵をまじまじと見上げる。
「なに? そんな見つめちゃって……」
「いや……ずいぶん思い切ったな」
そう言われて、理恵は自分の髪を撫でる。トレードマークに似たストレートのロングヘアーは、バッサリとショートヘアーに変わっていた。
理恵は照れるように笑いながら、自分の髪を撫でる手を止めない。
「暑くなってきたしね」
「そんだけ短いの初めて見た」
「私だって子供の頃以来よ。でもまあ、イメチェン成功?」
「そうだな。似合うんじゃねえの?」
何の気なしに答える鷹緒の言葉にも、理恵は照れ笑いする。
その時、広樹が戻ってきた。
「お、どうしたの? 理恵ちゃん。そんな入口で突っ立ったままで……」
「ヒロさんがいなかったから。この書類、目を通しておいていただけますか?」
「了解」
「お願いします。失礼しました」
目的を達成したように、理恵は颯爽と社長室を出ていった。
「理恵ちゃん、思い切ったねえ。すごい似合うよね」
広樹も何の気なしに言いながら、鷹緒の前に座る。
「これ、資料」
コピーしたばかりの資料を差し出しながら、広樹が続けてそう言った。
「……決定?」
「決定。タッグも決まったし、ようやくこぎつけたよ。デカイ仕事だから頼むな」
大きな仕事が決まったらしく、嬉しそうな広樹に反して、鷹緒は難しい顔をしている。
「これ、役割分担決めないと相当しんどいぞ」
「わかってるよ。それは彰良さんと詰めてるし」
「彰良さんに任せてたら、全部こっちに被せられるんだけど……」
「明日の会議でちゃんとするから」
「ん、了解」
拒否出来るものでもないため、鷹緒はそこで話を終わらせると、資料を持って自分の席へと戻っていった。
社内では、女子社員たちが理恵を囲んでいる。
「本当にショートも似合いますね」
今までロングヘアーだった理恵のイメージチェンジは、女子たちにも衝撃だったようだ。
「もう、みんなやめてよ。恥ずかしい」
「でもすごくお似合いですもん」
お世辞だけでもないことは明白だが、さすがの理恵も照れを通り越し、うんざりしたように苦笑している。
「……副社長。ちょっと軽く打ち合わせ、いいっすか」
その時、鷹緒にそう呼ばれ、理恵は逃げるようにモデル部のエリアから企画部のエリアへと小走りで向かった。話の腰を折られたように、理恵に群がっていた女性社員たちは持ち場へと戻っていく。
「は、はい。なんでしょう」
まるで立場逆転したかのような物言いに、鷹緒は苦笑する。
「いや。そうだな……今日のうちの撮影のメンバー、教えてくれる?」
鷹緒と理恵が話をする口実などいくらでもあるが、あまりにも内容の薄い質問に、理恵は笑った。
「ありがとう……いつも助けてくれるね」
「べつに……見苦しかったからな」
「まったく。口が悪くなきゃいい人なのに」
「まあ、似合ってるから仕方ねえんじゃねえの。しばらく慣れろよ。お世辞攻撃」
「ハイハイ。ご忠告ありがとうございます」
そんなやり取りに、鷹緒も苦笑する。
「まあ、そんだけ。悪かったな。呼びつけて」
「ううん……ありがとう。それから、この間の恵美のことも……」
返事をするより前に、そそくさと理恵は去っていった。
鷹緒もそれを気に留めず、そっと微笑むと、目の前のパソコンに向かった。