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94-2. 父娘 (後編)

 鷹緒は出社するなり喫煙室へと入っていった。まだ仕事始めには時間があるため、そこでぼうっと過ごす。

 そこに、理恵が顔を出した。

「鷹緒……ちょっといい?」

「ああ……」

 返事をしながら煙草を揉み消すと、鷹緒は理恵を見つめる。すると、理恵は手を差し出した。

「一本ちょうだい」

「いいけど……珍しいな」

 差し出した煙草の箱から飛び出した一本を理恵が抜くのを見るなり、鷹緒はライターの火を差し出す。

「ありがとう……たまには私だって吸いたくなるのよ」

「まあいいけど。吸い過ぎるなよ」

「あなたに言われたくないわよ」

 そのやり取りにお互い笑って、鷹緒もまた新たな煙草に火をつける。

「恵美なら元気だよ。今日も一人で留守番するって張り切ってて……でも早く帰ってやらないとな」

「うん……でももう限界。迎えに行ってもいい?」

 それを聞いて、鷹緒は笑った。

「言うと思った」

「え?」

「そろそろ言ってくると思った」

「……そう?」

 鷹緒は長く煙を吐くと、簡易的な椅子に軽く腰掛ける。

「で、答えは出たの?」

 そんな鷹緒の言葉に、理恵は目を伏せる。

「うん……初めから出てたのよ。でも一人になって確信した。もう大丈夫……私、やっぱり豪とは終わりにする」

「……そうか」

「もう気にしない。惑わされない。鷹緒もごめんね……」

 豪のことで慰める気にはなれないが、二人の脳裏には恵美がいた。

「……あいつもそろそろ限界だと思うよ。早く迎えに行ってやって」

「うん……ありがとう、鷹緒」

 理恵は煙草の火を消すと、鷹緒にお辞儀をして背を向ける。そんな理恵の背中に、鷹緒はそっと口を開いた。

「俺が言えた義理じゃないけど……豪のことは災難だったと思う。あんまり気にしないで、先へ進めよ」

 その言葉に、理恵は伸ばした手の先にあるドアノブを握りしめる。

 鷹緒を苦しめた自分と豪。豪を選んだ理恵は、鷹緒のためにも豪と幸せにならなければいけなかったと思う。しかし豪は自分をも苦しめ、結局別れを選んでしまったことを、理恵は鷹緒に申し訳なく思った。

 しかし鷹緒は気に留める様子もなく、いつも自分と恵美を気にかけてくれる。その優しさが、時に理恵を苦しめもした。

「……ありがとう。あとで恵美、連れに行くね」

「ああ……」

 理恵が去った後、鷹緒はもう一本煙草に手を伸ばした。


 その日の夕方。鷹緒は終わらなかった仕事を抱えつつ、今日も早く家に帰ろうと支度を始める。そこに、理恵が近づいてきた。

「打ち合わせが済んだら、すぐに迎えに行くから……」

 そう言われて、鷹緒は頷く。

「わかった。メシでも一緒に食うか」

「うん……そうね。でも、遅くなりそうだったら先に食べてて」

「ああ。じゃあ、あとでな」

 足早に会社を後にすると、会社の前で沙織と麻衣子に出会った。

「おう。今帰り? おつかれ」

「おつかれさまです。お帰りですか? 珍しく早いですね」

「ああ。ちょっと用があって……」

 言いながら沙織の顔を見ると、沙織は諦めたような静かな笑みを見せている。そんな顔を見て、恵美が帰ることを伝えなければと、鷹緒は思い出したように口を開いた。

「あ、沙織……」

「え?」

 しかし、呼んでみたものの、この場で話の続きが出来ない。

「ああ……あとで連絡する」

「う、うん……」

「じゃあ、おつかれ」

 沙織に対して申し訳なく思いながらも、フォローの一つも出来ずに、鷹緒はその場を後にした。


 鷹緒が家に戻ると、いつもは出迎えてくれる恵美の姿がない。

「恵美……?」

 玄関に靴があるものの、不安になって鷹緒はリビングへ急ぐ。すると、リビングのソファでは恵美が寝息を立てている。たまに沙織も同じ状態の時があるため、鷹緒は優しい笑顔で恵美を見つめた。

 あまり音を立てないように荷物を置くと、キッチンへと向かっていく。ホットコーヒーを沸かしたところで、恵美が起きてきた。

「パパ」

「ごめん。起こしたか」

「ううん……寝ちゃってた。おかえりなさい」

「ただいま。腹減ったか? もう少し我慢できる?」

「出来るよ」

「じゃあ、あとで理恵とごはん食べに行こう」

 それを聞いて、恵美は目を丸くさせる。

「ママと? 三人で?」

「ああ。恵美がいなくて寂しいって。迎えに来るって。だから支度しとけよ」

 同じ目線まで腰を折る鷹緒に、恵美の複雑な顔が見えた。

「……帰るの嫌か?」

 鷹緒の言葉に、恵美は全力で首を横に振る。

「じゃあなに? どうした?」

「さっき……豪さんから電話があったの。ママと話したいって。今日の夜八時に、駅前の大型ビジョンの下で待ってるって……恵美、ママはもう一度豪さんに会ったほうがいいと思う」

 それを聞いて、鷹緒もまた複雑な表情を見せた。

「……どうしてそう思うんだ?」

「よくわかんないけど……最後でも続くのでも、もう一度話したほうがいいと思うの。だって豪さん、ママに会いたがってるし……話したいって言ってたから」

 鷹緒は恵美の髪を撫でると、小さく息を吐いて頷いた。

「そうか。そうだな……」

「それに恵美も、このまま豪さんに会えないの嫌だもん」

「ああ……わかった」

 知らぬ間に大人になっていっている恵美。その成長に、鷹緒も気持ちを尊重せざるを得ない。

 その時、鷹緒の携帯電話に着信が入った。理恵からである。

「はい」

『あ、理恵です……仕事終わって、今から迎えに行くから』

「……いや、待ち合わせしよう。駅前の大型ビジョン下に八時な」

『え?』

「メシ食うんだろ。駅前のがいろいろあるし」

『わかったわ。じゃあ、あとでね』

 鷹緒は電話を切ると、恵美を見つめた。

「支度したらいい時間だな。出かけるぞ」

「うん」


 待ち合わせの八時より十五分ほど前――。出先にいた理恵のほうが早く着き、辺りを見回した。一週間ほど会っていない我が子にやっと会えることに、胸が高鳴る。

「ここなら恵美の好きなお店に行けるわね……」

 よく来る駅前には、行きつけの店もいくつかある。久々に会える我が子に、好きなものを食べさせてやりたいと思った。

「来てくれたんだね」

 その時、聞き慣れた声が聞こえて、理恵は振り返った。

「……豪!」

 理恵の反応に、豪もまた驚いた顔を見せる。

「あれ……僕に会いに来てくれたんじゃないの?」

「そ、そんなわけないじゃない!」

 そこに、手を繋いだ鷹緒と恵美の姿が近づいてきた。

 鷹緒たちも、微妙な空気が流れている豪と理恵の様子を伺うように足を止める。

「恵美ちゃん。理恵に会わせてくれてありがとう。でも先輩も来るなんて、ちょっと反則……驚きだな」

 最初に言葉を放ったのは豪である。

「恵美。恵美がこんなことしたの?」

「だってママ……もう一度、豪さんと話したほうがいいと思って……」

 理解出来ない様子の理恵に、恵美は恐々と答えた。

「余計な気遣いしなくていいのよ。私はもう……」

 その時、制止するように鷹緒が理恵に手を伸ばした。

「とりあえず、店入ろう」

「……鷹緒もグル?」

「人聞きの悪い……恵美が言うとおり、もう一度ちゃんと話し合ったほうがいいんじゃないか? おまえだけの問題じゃないだろ」

「そうそう。だから僕が理恵と会いたいって言ったお願いを、恵美ちゃんは聞いてくれたんだよね」

 会話に入ってきた豪を、理恵が睨みつける。

「子供をダシに使うなんて最低!」

「でも、そうでもしないと会ってくれないと思って……」

「もう会わないって決めたの。話し合えって言うなら、今ここで出来るわ。もう私や恵美と関わらないで。それが私の今の願い。それ以上、話すことなんてないから……」

 真剣な目の理恵に、豪はショックを受けた。今まで何度も揺れていたはずの理恵だが、今は敵意さえ向けて拒否している。

「理恵……僕、ちゃんと過去を清算したよ。だからもう一度……」

 その言葉に、理恵の表情が一瞬固まる。しかし、すぐに豪を見つめ返した。

「もう遅いの……スリリングな恋はもう終わり。全部なかったことにしましょう。義務とかお金とかも結構。さよなら」

 そう言いながら、理恵は恵美の手を取って歩き始める。鷹緒は放心する豪を尻目に、理恵の後ろをついていった。


「鷹緒。早く」

 しばらく歩いたところで、理恵が振り返って言った。

「ああ……いいの? 俺も……」

「あなたが誘ってきたんでしょ」

「まあ……」

 その時、恵美が目の前の店を指差した。

「ここ、恵美の好きなお店!」

「そう。今日は奮発して、恵美が好きな美味しいもの食べようって思ってたの」

「うん!」

 さっきのことなどなかったかのように、ここに重い空気はない。だがそれぞれの胸につかえたものは、まだ綺麗に忘れることなど出来ていない。しかしそれを大っぴらにすることは、今は出来ないと思った。


 それから数時間後。車の後部座席では、恵美がぐっすり眠っていた。運転席の鷹緒は、何の言葉を発することもなく運転に集中している。理恵は助手席で、流れる景色をぼんやりと見つめていた。

「鷹緒。ありがとうね。いろいろ……」

 やがて言った理恵に、鷹緒は息を吐いた。

「いや……悪かったな。出しゃばった真似して……でも、恵美の思いを尊重したかった」

「うん……わかってる」

 言いながら理恵が目に手をやったことで、鷹緒は横目で理恵を見つめた。涙を堪えながらも鼻をすすっている理恵に、鷹緒は眉を顰める。

「どうした……?」

「ごめん……もう自分が情けなくて……」

「ん?」

「恵美にあんな気を遣わせて……鷹緒にも迷惑かけて……馬鹿みたい。私ばっかり最低だよね……」

 珍しく弱々しく泣く理恵を尻目に、鷹緒は車を止める。理恵のマンションに着いたのである。

「あ、もう家か……ありがとう……」

 理恵がシートベルトを外したその時、鷹緒は理恵の頭を撫でるようにしながら、その身体を引き寄せた。

 思わぬ行為だったが、温かな鷹緒の肩に頭を乗せたまま、理恵は涙を流す。

「俺への迷惑は今更だからどうでもいい。でも、泣きたい時くらい泣け。話くらいならいつでも聞いてやるから……それで、恵美に心配かけるな。恵美のためにも、おまえも幸せになれ」

「ううっ……う――」

「……遠回りしただけだろ。胸張って生きろよ」

 それからしばらくの間、二人はそのままでいた。お互いに胸の高鳴りがなかったわけではない。だが、どこか冷めていて、それ以上踏み込もうという気にはならなかった。

 

 それから少しして落ち着いた理恵は、恵美を起こしてマンションへと入っていった。

 鷹緒は気持ちを落ち着けるように煙草の火をつけると、自分がしたことに少し後悔する。脳裏に涙を流す沙織が浮かんだ。しかし理恵を放っておくことは出来ず、それでも抱き寄せたことは自分自身も感情の説明がつかない。

 結局、吸いかけの箱が空になるまで煙草を吸ってから、鷹緒は車を走らせた。


 その後、鷹緒が向かったのは、沙織のマンションである。

 まだ気持ちが落ち着かず、まずは窓を開けて夜風に当たった。しかし、ずっとそうしているわけにもいかず、鷹緒は携帯電話を手にする。

『もしもし』

 沙織の声が聞こえ、鷹緒はいつも以上に胸が高鳴るのを感じた。

「おう……元気か?」

『まあ、そこそこ……鷹緒さんは、元気じゃないみたい?』

 そう言われて、鷹緒は眉をひそめる。

「……そう?」

『声が疲れてる。恵美ちゃんはどう?』

「ああ……さっき帰ったよ」

『え? 帰ったって……』

「理恵が連れて帰った。もう恵美との同居生活は終わり」

『そうなんだ……寂しくなるね。それで元気ないの?』

 冗談めかして笑う沙織に、鷹緒はつられるように微笑んだ。

「そうかもな……それで俺、今、おまえのマンションの前にいるんだけど……」

『えっ?』

 予想だにしなかったことらしく、急に沙織の声が大きくなった。

「でも車で来たから……よかったら、軽くドライブでもしないか?」

 相手のことなど考えないような発言だったが、沙織は嬉しそうに口を開く。

『すぐ行くね! 十分……ううん、五分待ってて』

「いいよ、ゆっくりで……」

 そう言っている間に、電話は切れていた。

 鷹緒はそっと微笑むと、ぼんやりと外を見つめる。

 しばらくして、沙織がやってきた。

「お邪魔します……」

 そう言って車に乗り込む沙織を見て、鷹緒は優しく微笑んだ。恵美と同居して一週間程度だったが、その間、職場以外では会えず、ずいぶん我慢させたと思う。更には理恵にした行為を思い出して罪の意識は感じたが、もちろんそれを言う気にはなれず、また沙織の顔を見てすべてが吹っ飛んだ。

「おう。おつかれ……」

「おつかれさま。帰るのも急だったね。恵美ちゃん……」

「ああ……母親のが限界だったみたいだからな」

「え、理恵さん?」

 話を遮るように、鷹緒は車を走らせた。

「まあ……親子ってのは、切っても切れない存在なんだと思うよ。ましてまだ手が離れてない、二人きりのあいつらにはな」

「そっか……」

「……悪かったな。おまえにも、いろいろ我慢させて……」

 そう言われて、沙織は笑顔で首を振った。鷹緒が恵美と暮らすと聞いて、驚きや不満がなかったわけではないが、鷹緒と恵美もまた自分が入れないほどの固い絆で結ばれているのはよくわかっている。わかっているから余計に辛いこともあるが、それを忘れるかのように、深くは考えないようにしている自分がいる。

「いいの……こうして来てくれただけで」

 沙織の気持ちが嬉しくて、鷹緒は片手でそっと沙織の手を握った。高鳴る衝動がなかったわけではないが、一般人ではない沙織を人目につく場所に晒したいとは思わない。そして何より、手を握るだけで今の二人は満たされている。

「……今日はありがとうな。会えて良かった……近いうち、ゆっくりしよう」

「うん」

 心の隙間を埋めるかのように、二人はただじっとそばにいて、他愛もない話を続けた。

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